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「小説 吉田茂」
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著者: 戸川猪佐武(とがわ・いさむ)
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発行: 角川書店(1983/03/10) 書籍: 文庫(394ページ) 定価: 490円(?) 目次: 外務次官への階―チェンバレンとの交際
大使と勲章―ムッソリーニとの謁見
補足情報:アメリカ大使任官拒否―連盟脱退 欧米査察使―一九三五、六年の危機 二・二六事件の夜―イギリス大使就任 日独防共協定―広田内閣瓦解 新日英同盟構想―近衛の登場 独ソ不可侵条約―チャーチル入閣 ポツダム宣言―平和への模索 無条件降伏―外相就任 公職追放―総理の椅子 組閣―人材の払底 労働攻勢―連立政権への布石 社会党内閣―炭鉱国管法案上程 山崎首班指名―GHQ介入 外套演説―吉田学校開校 自由党誕生―講和の足音 対日講和条約―朝鮮戦争勃発 権力の翳り―バカヤロー解散 造船疑獄―指揮権発動 大磯詣―静謐の時 あとがき
吉田という人を識るためには、彼をイデオロギーを観念の面から分析してはならない。
あくまで彼がたどってきた軌跡、彼自身の人間性をリアルに見つめ、それを分析するのでなくてはならない。
その人間と軌跡とを、できるだけ多くの方々に知ってもらいたいという意味で、私はこの『小説吉田茂』を執筆したのである。(あとがき)
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引用竹内の五男として茂が生まれたのは明治十一年(一八七八)九月二十二日で、二歳のときに横浜市の貿易商吉田健三の養子に入った。
吉田茂が東大を卒業し、外交官試験に通ったのは、明治三十九年(一九〇六)である。
外務省でのキャリアは、奉天の領事館補を振り出しに、ロンドン、イタリア、安東、本省文書課長、済南、
再びロンドン(このときは一等書記官)、天津、奉天(総領事)、外務次官、
イタリア大使―である。
そのあとが、三度めのロンドン―イギリス大使という順序である。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.8
引用関東軍の村岡長太郎司令官以下参謀は、
―北京政府をこしらえた張作霖は、日本の意のままにならなくなっている。
―無力化した張作霖を討って、満州を関東軍の支配下に置く。やがて独立させる。
―もし蒋介石軍が日本の関東軍に抵抗するならば、これをも討伐する。
そのような計画をたてていた。
これを確かなものにするために、関東軍参謀河本大作たちが仕組んだのが、張作霖暗殺であった。
「北京に引きあげて、満州に戻れば満州における地位は保証する」と勧告したのを受け入れた張作霖は、列車で奉天に引きあげた。
「蒋介石軍の便衣隊(一般市民に化けて、ゲリラ活動を行なう軍人)の犯行である」と発表した。
「親の心、子知らず・・・・・・だ」と、関東軍の犯行を嘆いた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.14
引用あけて六年、【中略】 「三月事件」がひそかに進行しつつあった。
陸軍の橋本欣五郎中佐、根本博中佐たち「桜会」が、右翼の大川周明、国家社会主義者の赤松克麿などと組んで、
クーデターを計画した事件がこれである。
三月下旬に陸軍将校と右翼とで議会を包囲し、議場に入って内閣の総辞職を求め、
陸軍大将宇垣一成を首相とする軍部政権をつくるというのがそのねらいであった。
当初これには小磯国昭軍務局長(のち首相)、二宮治重参謀次長、建川美次第二部長(のちソ連大使)なども参画していた。
ことが事前にあらわれたために、この計画は潰え去ったものの、陸軍自体は計画の参画者を不問のままに放置した。
これがさらに、あとあと幾つかのテロ計画を助長することになる。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.34
引用十月事件なるものは、再び軍部政権の樹立をねらい、例によって、参謀本部の橋本欣五郎、ロシア班長建川美次、
長勇少佐たちが企てたものであった。
外部から大川周明とその門下、北一輝、西田税の一派が加わっていた。
陸軍の将校二十名、近衛の十中隊、機関銃中隊、海軍将校、航空機十数機を動員し、六年(一九三一)十月二十一日を期して、
首相官邸の閣議の席を襲い、若槻首相以下閣僚を斬殺し、警視庁その他を占拠する計画であった。
さいわいに、この情報が事前に、重臣筋に洩れたので、ことなきを得た。
しかし、陸軍の幹部たちは、この陰謀の首謀者たちを、料亭に軟禁しただけで、処罰しようとはしなかった。
このことが、いっそう、軍部や右翼の間に、
―下剋上。
―テロによる力ずくの政権奪取。
という気運をみなぎらせた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.36
引用陸軍は、若槻内閣の不拡大方針、円満処理などの方針を無視し、
満州事変をいっそう拡大していった。
これに張学良が対抗した。
彼みずからは北京にいて、錦州に司令官代理張作相をすえ、政府主任に米春霖を任じ、これをあやつって、親日家に対するテロ、
北満への武力投入、ゲリラ戦の展開、各都市の不安醸成などをはかった。錦州は対日戦線の大きな基地と化した。
関東軍は十一台の飛行機を飛ばして、錦州に八十個の爆弾を投下し、市内の学校や病院を破壊した。
十月十八日のことである。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.36
引用若槻首相は、民政党単独政権で、軍を押える自信を喪失していた。
「関東軍をして、政府の命令に服従せしめるためには挙国連立がよい。
政友、民政が連合して挙国内閣をつくれば、一党一派ではなく、全国民の意志を代表することになり、
その命令が軍に徹底するかもしれない」
「政友会と連合すれば、政友会は軍部とたずさえて事変拡大、満州独立という方針を強硬に押し出してくる。
これでは、意図とまったく反するものになる」
「経済についても、わが民政党内閣は金の輸出を禁止しつづけてきた。
ところが政友会は、金の輸出解禁を主張している。
連合することによって、輸出解禁ということになれば、わが党の面目はどこにあるのか」
幣原、井上の論理に押された若槻は、今度は逆に安達を押えようとした。
安達は居直った。
「民政、政友両党の連立による挙国一致内閣は、あなたがいい出したことだ。
それを反対があったからといって変えるのはおかしい。
初心貫くべきだ。
それに私はもう政友会から、連立の諒解を得ている」
この民政挙国一致連立問題の不一致で、若槻民政党内閣は、総辞職せざるを得ないことになった。
昭和六年(一九三一)も押しつまった十二月十一日であった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.41
引用日本が日満議定書に調印して、満州国独立を承認したのは、内田外相のもとで、九月十五日のことであった。
この満州国承認にあたって、第六十三臨時議会で政友会代表の森恪が、斎藤首相、内田外相に質問を投げかけた。
「満州国承認は世界の世論に衝撃を与え、国際連盟と正面衝突し、日本は脱退せざるを得ないことになるかもしれない。
日支両国、列国との間に生ずる国交上の重大化について、政府は準備はできているのか」
森の質問の裏には、
―ソ連も米英も、対日強攻策に出てこよう。彼らを相手に、戦っていく肚をつくれ。
という意味がこめられていた。答弁にたった内田は、さらに勇ましかった。
「満蒙の事件はわが帝国にとって、いわゆる自衛権の発動にもとづくものであります。
恥ずることのない公明正大なものという自信があります。
わが国民はただいま、森君がいわれたとおり、この問題のためには挙国一致、国を“焦土”にしても、
この主張を通すことにおいては、一歩も譲らない決心を持っているといわなければならぬ」
これには森も軍部も、逆に毒気にあてられた。
この内田の“焦土外交”という言葉は、流行語になったほどである。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.53
といっても東大卒が主流をなす外務省では、松岡は傍流でしかなかった。
志を得ないまま退官したのち、満鉄の副総裁を務めた。
ただしその主張は、軍部と同じ満州独立論であった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.55
引用十九か国委員会が日本に対して、リットン調査団の報告および勧告をつきつけることを決めたのは、二月十四日である。
「日本の満州における軍事行動は、自衛の措置とは認めがたい」とあって、
満州国の独立を承認していなかった。一般的な解決原則として、
「日支双方の利益と両立すること」
「満州内部の秩序は、満州の憲兵隊により確保し、それ以外の一切の軍隊を撤去し、
関係国間の不可侵条約締結によって期すること」などをあげ、関係条約の締結を勧告するものであった。
この報告、勧告が、総会にかけられたのは、二月二十四日の午前であった。
イースマン議長の背後は、大きくひらけたガラス窓で、そこからは白いアルプス連峰と、
碧い空とが鮮やかにとらえられた。
中国代表の顔恵慶が、無条件受諾の賛成演説を行なったのを受けて、松岡は流暢な英語による反対演説を、
一時間にわたってくりひろげた。
しかし、その票決は賛成四十二、反対一、棄権一、欠席十二で、リットン報告、勧告は可決されることになった。松岡は、
「報告、勧告は、東洋の平和を確保するとは考えられない、平和達成の様式について、
日本と他の連盟国とが別個の見解であるとの結論に達した」といって国際連盟からの脱退を宣言した。
国際連盟脱退が枢密院の議を得て、正式に決定したのが一か月あとの昭和八年、三月二十七日である。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.61
引用広田は福岡県の石屋の子に生まれている。
右翼の玄洋社の出身である。
少年のころには軍人志望で、士官学校へ願書まで出したことがある。
ところが明治二十八年(一八九五)日清戦争が終わったあと、英、独、ロシアの三国の干渉で、日本はせっかく賠償でとった遼東半島を、
支那に還付しなければならなかった。
それを見て、「外交こそが大事だ」と、にわかに外交官志望に転じた。
外務省に入って、ソ連大使を務め、政官界から一流の外交官として評価されていた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.73
引用十月一日には、軍部では陸軍省新聞班が、「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを配布していた。
「戦いは創造の父母」、「国家の逐進、原動力は軍部である」とその冒頭に謳いあげていたように、
ことごとく軍部中心、戦争謳歌の精神で貫かれていた。こと外交については、
「現下の非常時局は、協調外交工作のみにおいて解消せしめるがごとき、
派生的な事態ではなく・・・・・・運命的に実現した世界的非常時であり、満州事変と連盟脱退とを契機として、
皇国に向かって与えられた光栄ある試煉の非常時である」と論じていた。
これが問題になったために、林銑十郎陸相は、「正式に決定した主張ではない」と否定したものの、
その否定はあくまで形式上のものであることは明らかであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.77
「あなたの時局認識は、多分に疑問なところがある。
これでは組閣には同調しがたい」と述べたてた。広田は、押し返した。
「陸軍だけの判断で、時局認識うんぬんといわれるのは困る。
それに具体的な政策については、内閣ができたあと、全閣僚が協議していくのが当然だ。
不平不満、批判があるならば、その折にははっきりしてもらいたい」
「いや、そうはいっても、最初から疑義のある内閣に、私は入閣できがたい。
これは私一人の意見ではなく、陸軍の総意だ」
「この未曾有の重責に任ずべき新内閣は、内外にあたり時弊の根本的刷新、国防充実など、
積極的強力国策を遂行せんとする気魄と、実行力とを有することが絶対に必要であって、
依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持または消極的政策により、妥協退嬰をこととするがごときものであってはならない。
積極政策により国政を一新することは、全軍一致の要望であって、
妥協退嬰は時局を収拾するゆえんにあらずして、かえって事態を紛糾せしむるのみならず、
将来大なる禍根を残すものというべきである」
【中略】
陸軍の要求とはなんであるのか。―陸軍側では組閣名簿を手にして、
武藤章中佐がその何人かの名前の上に赤線を引っ張った。
つまりそれらの人々は入閣させるなということであった。
広田の組閣参謀たちは、やがてこの陸軍の意向を知った。
一、牧野の女婿吉田茂を外相に起用せんとすること。
一、自由主義の急先鋒である朝日新聞の下村を、入閣せしめんとすること。
一、川崎卓吉のごとき党人を、内相にすえんとすること。
一、小原直のごとき国体明徴の観念に異議のある者を、入閣せしめんとすること。
一、中島知久平のごとき軍需産業に関係のある者を、入閣せしめんとすること。
入閣予定者を五名まで拒否されて、広田は、見るも無残な情けない顔つきになった。
「やむを得ない。これらの諸君には、私としては辛いことだが、涙をのんでもらわねばならない」
―消えいるような声でいった。
具体的な陸軍の人事案をのんだにもかかわらず、陸軍はなおも横車を押してきた。
政友、民政から、それぞれ二名ずつ入閣を予定していたのを、一名に減らせというのであった。
広田は、それをも承知した。
陸軍に対して、屈服につぐ屈服を重ねてできあがった広田内閣は―その後のことになるが、
政治史的には取り返しのつかない、大きな失敗を重ねることになる。
それは軍務大臣の任用令の改正である。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.92
チャーチル海相就任
引用世界は、日本の一外交官、一外務大臣がどんなに努力しても、到底とどめ得ない潮流に乗っていた。
それを端的に示したのは、突然の電撃的なドイツのポーランド進撃であった。
この昭和十四年(一九三九)、九月一日金曜日の払暁である。
この報告を受けたとき、イギリスのチェンバレン首相も、
「ドイツ軍がただちに撤退しなければ、イギリスはポーランドに与えた確約にもとづいて、
武力で支援するであろう」と警告を発した。
一日おいた日曜日の朝、ロンドンは快晴で、燦々と太陽が街を照らしていた。
チェンバレンは、BBCのマイクの前に立って、
「英国はドイツに、宣戦を布告した」と発表した。
「平和をかちとろうとする、私の長い闘争が失敗したことが、いかに私に打撃であったか、
諸君はおわかりであろう。
しかし、私が行なった以外のやり方があったとは信じられない」
それは、彼の自己弁護であるように、受け取られた。
下院での演説も、気力、迫力に欠けていた。同じ下院でチャーチルは、
「われわれは、ナチの暴虐から、世界を救うために戦わねばならない」と、吼えるように演説して、万雷の拍手を浴びた。
「海軍大臣を引き受けていただきたい」
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.141
引用近衛は、すぐに小田原から湯河原の別荘に移って、そこで筆をとった。
奉書八枚におよぶ上奏文をつづった。
総理大臣の演説その他は、口述して、秘書に書かせるのだが、この上奏文は他人に見せるわけにはいかない。
みずから筆をとって、苦労して、一か月の時間を費やした。
それが実ったのは、ようやく二月に入ってであった。重臣すべてが、
―天機奉伺。
という名目で、個別的に陛下に拝謁させるという形がととのえられた。
「敗戦は遺憾ながら、最早必至なりと存じ候。この前提のもとに申し述べ候」というのが、その書き出しであった。
「敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず
(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)、
随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存じ候。
国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候。
つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存じ候。
即ち国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座候。
ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、
明瞭となりつつある次第に御座候。
かくの如き形勢より推して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候
(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、
治安維持法及び防共協定の廃止等々)。
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之候。
即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、
これに便乗する所謂新官僚の運動。
戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みあるというならば格別なれど、
敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するのは、
全く共産党の手に乗るものと存じ候。
随って国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕り候。
戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進し来たりし、軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。
彼等は已に戦争遂行の自信を失いおるも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。
戦争を終結せんとすれば、先ずその前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。
もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。
元来米英及び重慶の目的は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、
軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争の継続につき、
考慮する様になりはせずやと思われ候。
それはとも角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、
非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。以上」
この近衛上奏文は、かねてから終戦を意図されていた天皇に、決断を与えたことは確かであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.157
引用小磯内閣が退陣したのは、この四月五日であった。
総辞職の原因は―緒方竹虎国務相(戦後副総理、自由党総裁)が、
汪精衛政権の考試院長繆斌を通じて、重慶の蒋介石政権と直接、和平交渉をこころみようとしたのを、軍部が反対し、
その軍と一緒になった重光葵外相と対立、それで閣内不統一をきたしたからであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.160
吉田茂逮捕
引用その翌朝、早い時間に、吉田は緊張した面持ちの喜代夫人にゆり起こされた。
大磯の私邸である。
「憲兵がみえました」
蒼ざめた表情でいる喜代夫人に、吉田は不吉なものを感じた。
憲兵たちは、吉田を逮捕にきたのだ。
連行されていく自動車が、東海道をのぼるなかで、吉田は、想像した。
―たぶん、秋月翁の潜水艦の話が露見したのだろう。
行く先は、代々木にあった陸軍刑務所であった。
欅の五寸角をはめ込んで、頑丈な陰鬱な、江戸時代の牢屋を思わせるような独房であった。
食事は玄米の握り飯一つに、たくあんが二きれ、囚人服を着せられた吉田の生活が始まった。
取り調べ室に連れていかれて、憲兵の質問を受け、はじめて吉田は秋月・潜水艦の件ではないことが分かった。その憲兵は、
この取り調べの間に、吉田は察知した。
憲兵隊の狙いは、近衛文麿を頂点とする終戦工作者、彼らの言葉をもってすれば敗戦主義者たちすべてを、
検挙することにあったのだ。
その第一弾として、近衛上奏文のプロモーターたちを逮捕したのである。
―岩淵辰雄、殖田俊吉の二人も捕まっている。
と吉田は知った。
吉田はずうずうしく構えていた。
―父の竹内綱は、西南戦争のとき、賊軍に加担したかどで、
越後の獄窓につながれた。
おやじと同じ監獄生活を味わってみるのも、勉強かもしれん。
【中略】
逮捕されて四十日めに、吉田は仮釈放された。
―なにを尋問されても、知らん、わからんで頑張った。憲兵もあきらめたか。
「閣下は不起訴と決定致しました。閣下ほど愛国者はありませんな」と、島田はいった。
吉田は苦笑した。肚のなかでは、こう思った。
―戦局が不利。敗戦は間もない・・・・・・と知って、軍人たちは低姿勢になっているな。
事実は陸軍部内には起訴を主張するものが多かったが、阿南陸相が不起訴の裁断を下したのであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.164
「日本皇帝のメッセージはなんら具体的提議を包含せず・・・・・・特派使節近衛公爵の使命もまた不明瞭
・・・・・・確たる回答をなすこと不可能なり・・・・・・」と、回答してきた。七月十八日の夜である。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.167
引用総司令部の指令を、日本政府が受ける連絡機関として、とりあえず、設置した終戦連絡中央事務局―これについて、
東久邇内閣の内部に、二つの考え方が対立をきたして、内閣は動揺した。
「現在の事務的な連絡機関があれば十分である」と主張したのは、外務官僚出の重光外相であった。
これに反対したのは、緒方書記官長であった。
元朝日新聞副社長、ジャーナリスト出身の彼は、「内閣に総理大臣直轄の大きな連絡機構を持つべきである」と主張した。
この緒方と重光とは、戦時中の小磯国昭内閣のとき、対中国和平の繆斌工作をめぐって対立、
その結果、閣内不統一をきたし、総辞職をした経緯があった。
今度もまた、再び対立を再現することになった。
しかし、緒方の意見を支持する閣僚が多く、閣議は、
―終戦連絡中央事務局機構を拡大し、長官制を廃して総裁制をとり、次長二名を置く。
と、決めた。これを不満として、重光外相が辞任したのは、九月十七日のことであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.177
十一月九日には日比谷公会堂で結党式を行ない、鳩山総裁のもとに幹事長に河野一郎、政調会長に安藤正純、総務会長に三木武吉を選んだ。
擁する議員は四十三名であった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.190
引用旧民政党系が中心となってこしらえたのが、進歩党であった。
ただし、この党は、自由党とは異なって、戦時中、時めいていた大日本政治会三百七十名を母体としていただけに、
結党までには紆余曲折があった。
上野精養軒で結党大会を開き、幹事長鶴見祐輔、政調会長太田正孝、総務会長犬養健という人事を決めたのは十一月十六日であった。
総裁は空席のままとし、のちに町田忠治を選任した。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.190
幣原内閣居座り論
引用総選挙後、世論は、
「―当然、幣原内閣は総辞職する。
と予想していた。
―総選挙で第一党の地位を占めたものが、政権の座を占めるべきである。
という考え方が、徹底しはじめていたからである。しかし、
「幣原内閣は、憲法改正を特別議会に提出して、成立させる必要がある」
「幣原以外に国際的信用のある人物はいない」
「第一党といっても、自由党は過半数を占めていない。さらに自由党総裁鳩山一郎には、追放に該当する懸念がある」などの理由を揚げた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.196
松野鶴平
引用吉田とは、戦前からの顔見知りである松野は政友会院外団の出身で、朝鮮総督の児玉秀雄に重用されたこともあった。
代議士になってからは、政友会幹事長、鉄相を勤めている。
あだ名は、“ずる平”であった。
政局の先行きを読むのが巧みで、先物買いの立ちまわりがうまかったからである。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.205
引用和田は戦時中、企画院の官僚であったとき、その主張が社会主義だという理由で、弾圧を受け、
逮捕された経験があった。
いわゆる企画院事件といわれたものである。
戦後復活してきて、幣原内閣のとき、松村謙三農相のもとで農政局長のポストに就き、農地改革に打ち込んだ。
のちに社会党に入っていくほど、そのイデオロギーは社会主義であった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.214
引用二・一ゼネストは、【中略】 中労委(委員長末広巌太郎)が、昨二十一年(一九四六)十二月、調停案をつくって、
全逓、国鉄、政府に提示したところが、まず全逓、国鉄がこれを拒否し、「実力をもって闘う」と声明をしたところに発していた。
吉田内閣もまた石橋蔵相が、全官公庁職員の要求に対しては、拒否の態度をとりつづけた。
労働側は、全官公庁労組の闘争を強化し、産別が中心になり、組織労働者の九九パーセント、
五百万人余を結集し、全国労組共同闘争委員会をこしらえた。
明けて一月十八日は、全官公庁共同闘争委員会が、ゼネスト宣言拡大共闘委を開いて、
「われら二百六十万の全官公庁労働者は、二月一日午前零時を期して決然として立ち、
全国いっせいにゼネストに突入する」という闘争を宣言した。
このストに対する政府側の交渉責任者は、石橋湛山蔵相であった。
全官公労の団体交渉とはいっても、当時は尖鋭化していた共産党が、いわゆる“吊し上げ戦術”で迫る時代であった。
石橋はその吊り上げに動ずることなく、共産党を向こうにまわして、平然と構え、一歩も譲らなかった。
中労委の労働者側委員は、社会党右派の西尾末広、松岡駒吉、社会党左派の荒畑寒村、共産党の徳田球一であった。
社会党のなかでは、左派がゼネスト賛成で共産党と組み、右派は、ゼネストには反対であった。西尾は、
「ゼネストは凶器だ。相手を斬ることができても、同時にみずからも傷つく。
村正の妖刀だ」と警告を放った。この新聞談話に対して共産党は、
「労働者の正当な権利であるストライキを凶器とは何事だ」と食ってかかった。
日本の労働運動はじめての大闘争であるだけではなく、世界の労働運動史においても、記録的な大闘争になるといわれたこの闘争は、
二月一日に至るまでの約半月間、全国的に争議に次ぐデモ、デモに次ぐ争議で、いたるところに赤旗がひらめき、
労働歌がとどろいて、まさに一般には“革命前夜”の印象を与えたものである。
事実、共産党の細谷産別事務局長は、
共産党の伊東律などは、
「その内閣は松本治一郎首相(社会党左派)、徳田球一内相(共産党)、野坂参三外相(共産党)、
伊東律農相(共産党)、鈴木茂三郎蔵相(社会党左派)、加藤勘十運輸相(社会党左派)、志賀義雄書記官長(共産党)・・・・・・」と、
閣僚名簿まで用意していたほどである。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.244
広川弘禅
引用広川は、福島県のある寺院の出であった。
学歴はない。マルクスボーイになって、東京市電の争議のときには、これに加わった。
流行のソ連衣装ルバシカなどを着込んでいた。
それがいつの間にか保守になり、東京都会議員になっていった。
戦後追放によって、過去の人びとが消え去ったあと、広川は衆議院に登場してきたのである。
吉田に挨拶に行ったとき、あとで吉田は、
「ああいいうのでないと、政党はつとまらんのかねえ」といったほど、広川は汚れ役が適切といったタイプの人物であった。
人をおひゃらかし、小馬鹿にしたようなとぼけたところもあって、多くの代議士たちはこれに煙にまかれた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.256
引用なにも成しえない片山内閣にとって、“唯一の社会主義政策”は、炭鉱国家管理法案であった。
石炭増産のために、炭鉱を国家管理にしなければならないと、総司令部が示唆したものである。
これがはじめて閣議に持ち出されたのは、その年、二十二年(一九四七)の六月末のことであった。
民主党閣僚は、
「炭鉱の国有国営を前提にした社会主義政策だ」と、激しく反対した。
対立がとけないままに、一か月を空転した。
それで、片山首相はマッカーサー総司令官に、
「炭鉱国管促進の書簡をもらいたい」と申し入れた。
「この法案は緊急措置である。
国家管理の制度は他の産業に及ぼすことはない」と声明を出して、二、三修正を加えたうえで、やっと決着をつけた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.258
だが、このとき、民主党の保守派である幣原喜重郎たち二十二名は、反対の青票を投じた。
芦田派たち主流派幹部は、十月二十八日には佐々木英世、原健三郎たち七名を除名処分に付し、
残る十五名に離党を勧告した。
このうち幣原をはじめ十五名が脱党したのは、十月二十九日であった。
そのなかに田中角栄、根本竜太郎たちがまじっていた。
先の除名者と脱党者とは、同志クラブ(のち民主クラブ)をただちに結成した。
これらはやがて吉田自由党に入党することになる。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.259
山崎首班問題
「次の政権は、野党第一党である自由党に渡すことは認める。
しかし自由党総裁の吉田茂はウルトラ・コンサーバティブで、われわれは感心しない。
首班は自由党の幹事長である山崎猛が望ましい。
この山崎内閣は社会党、民主党、国協党などを含む挙国一致連立であるべきだ」
これは総司令部の命令、示唆でもなく、単にケージスの個人的な見解であった。
山口は自由党本部に戻って、広川弘禅副幹事長の耳に入れた。
広川たちは、ケージスの言葉を、総司令部の意向として利用した。
―これで吉田の追い落としができる。
自分たちが山崎首班をつくって、政権を牛耳れる。
「本来なら、自由党は一致して、あなたを総理に擁立せねばならないところです。
ところが、広川君をはじめ星島二郎君、山口喜久一郎君などは、
総司令部のいうとおり山崎首班に向かって駆けだしました。
あなたを嫌っているからです。
ひとえにあなたが日ごろ、へぼ代議士など問題にならん、戦後派がなんだ、といったように軽くあしらってきたからです。
党員をまるっきり無視しさった報いが、この山崎首班なのです」
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.267
引用十二月十三日の夜、とんでもない事件が持ち上がった。
補正予算の審議で、国会が夜遅くなったその夜、酒豪の泉山三六蔵相が、参議院食堂で多量に酒を飲んだ。
当時は議員食堂でも酒を出していたのだ。
いささか千鳥足で、参議院議員食堂のほの暗い入り口に来たとき、
民主党の山下春江代議士に出あった。泉山は、抱きついて接吻しようとした。
この件を、同じ民主党の椎熊三郎(のち副議長)が各党に宣伝し、蔵相不信任案提出に持ち込んだ。
吉田は舌打ちして、泉山に辞任を求めた。
もっとも、蔵相になった泉山は、財政、経済がわかるどころか、国会の答弁も泉山節といわれるように、
下手で単調であった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.280
引用ドッジは、元デトロイト銀行の頭取で、アメリカ占領下の、西ドイツに赴き、
通貨改革を担当して成功させた国際金融の専門家であった。
彼は、さきに総司令部が日本に命じた企業合理化三原則、経済安定九原則の上にドッジ・ラインを組み立てた。
「日本経済は、アメリカの援助と、国家の補助金と、二本の足に支えられた竹馬経済だ。
この足を断ち切って、自分の足で立たなければならない。
そのためには摩擦(フリクション)はあっても、経済安定九原則を実施して、まがいもの(フィクション)のない経済にしなければならない」と、
指示しその方針で、二十四年度(一九四九)予算の編成を指導した。
「この予算は、ヒマシ油のように飲みにくいが日本経済にとって必要である」といった。
それは、歳入四千五百二十四億一千九十九円、歳出四千三百七十四億七千九百六十四円という規模で、
池田たちが考えていた大蔵省原案にくらべると、歳出が、約千四百億円の節約ぶりであった。
その節約は、補給金の削減と、行政整理とによるものであった。
池田は思わず、この予算編成の難しさに唸り声を上げた。
このドッジ・ラインの結果として、企業はその二本の足を切られることになって、
合理化に向かわなければならなかった。
操業度の引き下げ、支払いの遅延、賃金カット、首切りなどの経営操作となってあらわれた。
まさしく、デフレである。
行政整理は、国家、地方公務員の整理となって政策化され、吉田内閣はこの年の国会に、各省設置法改正案、
行政機関定員法案とを成立に持ち込んだ。
それによって、約二十数万の国家および地方公務員が、整理させることになった。
このときすでに“公社”となっていた国鉄は、定員法にもとづいて、
各官庁よりも最も多い十二万四百十三名の馘首を行なわなければならなかった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.301
「早期講和の後、日本およびアジア地域の安全保障のため、米軍が日本に駐留する必要があるのであろうが、
もしアメリカ側がその希望を申し出にくいならば、日本政府がそれをオファーする方法を研究してもよろしい。
この点について、憲法学者の研究を参照しているが、米軍駐留を講和条約中に規定できれば、憲法上問題は少ない。
別個の形で米軍駐留を約束することも、日本憲法に違反するものではない」というのであった。
その池田のワシントン到着は、二十五年(一九五〇)の四月二十七日であった。
随行したのは、秘書官の宮沢喜一(のち経企長官、外相、官房長官)であった。
大蔵省出身ながら英語に練達で、国際情勢にも通じている宮沢は、池田が各方面の人びとにあえるようにアレンジした。
まず池田が会ったのは、陸軍次官のヴォーリーズであった。
【中略】
つづいて会ったアイケルバーガーは、第一軍司令官として、日本にいた。
【中略】
池田は宮沢と相談した結果、吉田覚書は、ドッジ公使に提出するのがよいと判断した。
ドッジは国務省では公使、陸軍省では顧問という肩書きであったからだ。
そのドッジに池田が会ったのは、五月三日の午後、そのオフィスであった。池田は、
「早期講和の声が、世論の上で強まりつつある。
だが共産党、社会党は、ソ連はじめ共産主義国家を加えた全面講和を主張している。
吉田内閣は、多数の国家が講和に加わるのを望んではいるが、かといって、ソ連の参加などを求めていけば、
いつ講和ができるかはかり難い。
その間、ソ連など日本を敵視する国まで参加している占領下に置かれる。
これはたえ難いことだ。
それに占領が長期にわたって継続すると、内政干渉や反米感情などが蓄積して、日米間に亀裂が入りかねない。
そうした実情から、吉田総理は早期講和を希望している」と述べ、覚書をドッジに手渡した。
それに目を通したドッジは、私見として、
「今、米ソ関係は、極端に悪化している。
そういうさい、日本を独立させるのは危険であるという軍事的配慮を、外交的配慮よりも優先させる。
これは、やむを得ない。
講和には反対ではないにしても、それが、ソ連に対するアメリカの軍事的立場を、弱める結果になってはならないと、
ワシントンでは考えている。
こうした状況が消えて、可能な条件がととのい、早い時期に講和ができる事態になるよう、自分は願っている」
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.314
ダレス来日
「対日平和条約は、君に任せる」と、いわせるに至ったのである。
国務省顧問ダレスが、羽田に降り立ったのは、六月十七日であった。
ダレスの到着を知らされて、吉田は、会心の笑みを浮かべた。
六月二十二日には、総司令部で、吉田とダレスの会談が行なわれた。
特徴的なかぎ鼻を持つダレスは、眼鏡越しに吉田を見すえて、率直な意見を述べた。
「私は、君と同じ理由で、占領の長いのには反対だ。
早期講和論をとっている・・・・・・。
対日講和は、マッカーサー総司令官と、来日中のブラットレー統合参謀本部議長と私とで、
すでに両三度協議をとげている。
マッカーサー元帥は、ご存知のとおり、早期講和論だ。
ただ、ブラッドレー将軍は国防総省や陸軍省の意見を代表して、消極的である。
対ソ、対中共戦略の上から、米軍を日本に長期駐留させておきたい。
講和は急ぐ必要はないという意見だ」
吉田は微笑んだ。
その部屋のなかには、六月末の夏めいた陽ざしがいっぱいに、ふりそそいでいた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.322
引用朝鮮事変の勃発は六月二十五日の払暁午前四時、韓国の軍隊と北朝鮮内務省の警備隊とが、
三十八度線全域にわたって武力衝突したのが発端であった。
二十五日には国連の安保理事会は緊急会議を開いて、即時停戦、北鮮軍の撤退を決議した。
だが、二十六日午後、総司令部から外務省にあてて入ってくる報告は、
「北鮮は国連安保理事会の決議、米国の警告を無視し、さらに南進中」
「トルーマン米大統領は、在韓米軍に対し、対韓支援の軍事行動を命令」
「国連総会は米軍の軍事行動を警察行動と認め、自由陣営諸国で国連軍を編成、半島に出兵させる方針」
いずれも吉田を、暗黒の淵に沈み込ませるようなものばかりであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.324
池田首相退陣
引用せっかく三選を決した池田が、その咽喉に生じた疑わしいものの診察を受けるために、
東大病院におもむいたのは、その九月七日であった。
診察の結果、それががんであるとわかって、池田はすぐに入院し、コバルト照射の治療を開始した。
池田が自分の症状の重大さに気づいて、退陣を決意し総理辞任の談話を発表したのは、
オリンピック閉会式の翌十月二十五日であった。
このあと川島正次郎副総裁、三木武夫幹事長が党内のとりまとめに動いた。
後継総裁候補としては、佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の三人が浮かび上がっていたものの、
党内のコンセンサスは、佐藤栄作に落ち着いた。
その旨を、川島、三木につたえられたとき、池田は病院のベッドの上で、
―後継総裁とし、佐藤栄作君を指名する。
としたためた。
「これで・・・・・・よかった」と、池田はつぶやいた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.380
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「徨古屯」の「徨」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |