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十月事件
1931/10/17
~ 関東軍による満州事変と連動 ~
⇒ 未遂でも、政府への無言の圧力となり満州事変の拡大を容易にした
taro's トーク
ああああああ
引用十月十七日、今度は陸軍のクーデター未発事件、「十月事件」が発覚した。
主謀者はまたしても桜会のメンバーで、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎、北京駐在武官・長勇少佐らである。
まず桜会の将校百余人を動員し、これに歩兵十個中隊、機関銃一個中隊、爆撃機十三機をつけ、
首相官邸、陸軍省、参謀本部を襲撃する。
剣道の達人である長少佐が若槻首相、幣原外相ら満州事変拡大に反対する閣僚を軍刀で斬殺する。
このあと東郷元帥と閑院宮の応援を求めて、新国策推進の為の強力なる内閣を樹立する。
その主な予定メンバーは次の通りである。
中佐や少佐が国政の枢機を握ろうというところに、彼らの明治維新の志士を模倣した“昭和維新”の意気込みがうかがえる。
十月事件は天皇の耳にも入り、金谷参謀総長はまたしても叱られた。
豊田穣 「西園寺公望(下)」
P.234この本を入手
引用十月事件なるものは、再び軍部政権の樹立をねらい、例によって、参謀本部の橋本欣五郎、ロシア班長建川美次、
長勇少佐たちが企てたものであった。
外部から大川周明とその門下、北一輝、西田税の一派が加わっていた。
陸軍の将校二十名、近衛の十中隊、機関銃中隊、海軍将校、航空機十数機を動員し、六年(一九三一)十月二十一日を期して、
首相官邸の閣議の席を襲い、若槻首相以下閣僚を斬殺し、警視庁その他を占拠する計画であった。
さいわいに、この情報が事前に、重臣筋に洩れたので、ことなきを得た。
しかし、陸軍の幹部たちは、この陰謀の首謀者たちを、料亭に軟禁しただけで、処罰しようとはしなかった。
このことが、いっそう、軍部や右翼の間に、
―下剋上。
―テロによる力ずくの政権奪取。
という気運をみなぎらせた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.36この本を入手
引用九月満州事変が勃発した際、
彼らは関東軍の行動を掣肘する政府およびそれにおさえられていると思われた軍中央部に対し、
さまざまなかたちでおどしをかけた。
関東軍独立説を流して不拡大方針を牽制したりしたが、
また事変遂行の妨害者である第二次若槻内閣を倒して
事変遂行のための軍政府を樹立しようという第二のクーデター計画を練りはじめた。
彼らの計画では、一〇月二一日を決行の日とし、将校約一二〇名、歩兵一〇個中隊、機関銃隊二個中隊のほか、
大川周明、西田税、北一輝ら民間人、海軍の抜刀隊一〇名、海軍爆撃機一三機、陸軍機三~四機が参加するはずであった。
この人員をもって、閣議中を襲い首相以下を斬殺し、警視庁や報道・通信機関を占領、
また陸軍省、参謀本部を包囲して軍幹部を同調させ、不良人物や将校を制裁するつもりであった。
こうした上で、東郷平八郎元帥が参内し、
荒木貞夫中将に大命降下を奏請、荒木が首相兼陸相、建川が外相、橋本が内相、大川が蔵相に親任され、
それに橋本の第一の配下長勇少佐が警視総監に任命される、これが彼らの計画の概要であった。
【中略】
一〇月一二日に、橋本を中心とした会合で計画を聞いた田中清大尉が中止を勧告するよう上級者に伝えたことや、
橋本自身が杉山元次官に同調を要求したことなどから計画が上層部の知るところとなり、
一六日、建川参謀本部第一部長が橋本をよんで中止を命じた。
一旦中止に同意した橋本はその後も荒木貞夫教育総監部本部長に決起を要請したりして、
荒木からも中止を勧告されている。
この夜金龍亭で最後の打合せが行なわれているという情報で、軍中央部は荒木を説得に行かせるが、不得要領に終り、
結局南陸相は全員検束を命じた。
この事件も公表されず、その処罰は軽微なものに終った。
このいわゆる一〇月事件は、実際に実行する気があったのか、
単なるおどしであったのかやや疑問が残る。
伊藤隆 「近衛新体制」
P.41この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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