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統帥権干犯問題
1930/04/25
taro's トーク
明治憲法の欠陥をネタに軍縮を批判し、政府を困らせようとした二人が二人とも、のち日本の首相になったことにもtaroは驚くが、
もっと驚くのは、こうして憲法の欠陥があらわになっても、じゃあそれを直そうという話にはまったくならなかったことだ。
統帥権の独立というのは、政府と軍が元老の存在によって一つに結びつけられていた時代に、
出来立ての軍を自由民権運動から守るために導入されたもので、
だから昭和の時代には、もうそんなもの必要がないばかりか、これは政府と軍をわざわざけんかさせるようなものなのだ。
で、実際に統帥権干犯問題が起こった。ところが日本人は、それでもなお、憲法を改正しようという気にならなかった。
よほど憲法に触れるのが恐いのか、嫌いなのか、面倒くさいのか。
今日に至るまで、ただの一度も憲法を改正したことがない。
taroは子供のころ、お守りの中身を見ようとして母親に叱られたことがあるが、そんなことまでが思い出されてくる。
引用昭和五年、若槻礼次郎が全権となってロンドンで開かれた海軍軍縮会議は、
ついに英米側の主張に押切られて、日本は補助艦の比率でも大譲歩しなければならなかった。
(主力艦はその前のワシントン軍縮会議で対米六割に譲歩した)
海軍はこれを不満とし、軍令部の承認しない軍事関係の条約は無効だと主張した。
浜口内閣は美濃部に意見を求めた。
美濃部は憲法理論にもとづいて、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり、
軍令部の口を出すべき事柄ではないと答えた。
浜口内閣は、こうした美濃部の主張を参考にし、海軍を屈伏させた。
海軍は軍令部長加藤寛治を天皇に直接拝謁させ、条約の拒絶の意見を述べさせようとした。
これを侍従長鈴木貫太郎が阻止したため、軍令部長の上奏は行われなかった。
しかし、政府が兵力数を決めたのは天皇の統帥権に干与したものであるとして、海軍から大権干犯問題が起された。
美濃部はあくまでも法理論から、条約は内閣で決めるものだといい、
浜口首相はその理論通りに主張して、枢密院を屈伏させた。
統帥部は兵力の問題を決めるべきものでないと主張して海軍の恨みを買った。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.146この本を入手
「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。
然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。
果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」
と演説した。
右にみえる「専門家の意見」が軍令部の意見であることはいうまでもない。
このとき政友会は条約不満の軍令部と通じて、財部海相を窮地に陥れ、
あわよくば浜口内閣の倒閣にもってゆこうとしていた。
政友会のこの野心を見ぬいていた加藤、末次らの軍令部首脳は政友会を利用して批准を遮るべく努力した。
彼らは海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいたのである。
「憲法第十一条には『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とある。
すなわち、軍の統帥に関しての輔弼機関は内閣ではなくして、軍令部長または参謀総長が直接の輔弼機関であるということは
今日まで異論がない。
統帥権の作用について直接の機関があるにもかかわらず、その意見を蹂躙して、
輔弼の機関でもないものが飛出して軍令部長の意見を変更したということは、まったく乱暴で、
海軍軍令部長の意見と、内閣の意見と、異なる意見を陛下に進言申上げて宸襟を悩し奉っても、
なお総理大臣に責任なしということは私は断じて承認できないのである」
と演説した。論旨は軍令部の意見を代弁したもので、それを倒閣の道具に使ったものだ。
これに対し浜口首相は、軍部の硬化を顧慮して正面から対決せず、手続き論で乗り切ろうとした。
しかし、議会のこの統帥権論議は「尽忠精神」に燃える海軍軍人に強い衝撃を与えた。
その下地には軍縮への反撥があった。
陸軍もまた大正十四年、宇垣陸相(第一次加藤高明内閣)のもとで四個師団を廃し、
二千余の将校が馘首された苦い経験があるので、海軍の態度に同調した。
松本清張 「昭和史発掘(7)」
P.191この本を入手
引用奇妙なことに、第五八議会の論争で、政友会は、
この軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけたのである。
政友会総裁犬養毅は、代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府につめより、
総務の鳩山一郎は、政府が軍令部長の意見に反し、あるいは、
これを無視して回訓を決定したのは、統帥権干犯のおそれがあると、政府を非難・追及した。
日露戦争いらい、軍部は、統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、
軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動をたえずもっていた。
大正時代の護憲運動いらいの政党政治家であった犬養らが、この軍の非立憲的衝動を知らないはずはなかった。
兵力量の決定というもっとも重要な国務を、内閣の所管外であるかのように説いたのは、
政党政治家の自殺行為に等しいものであった。
また、政権を奪わんがための策略であったとするなら、それは、あまりに目先の見えぬ愚挙であったといわなければならない。
約二年後の五・一五事件(一九三二年)で、統帥権独立を呼号する軍部によってその生命を断たれたのが
犬養毅その人であったのは、あまりに無残な歴史の皮肉であった。
中村政則 「昭和の歴史(2)」
P.188この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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