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「世界の歴史(15) ― ファシズムと第二次大戦 ― 」
参考書籍
著者: 村瀬興雄(むらせ・おきお)他
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発行: 中央公論社(1975/06/10) 書籍: 文庫(521ページ) 定価: 940円(税込) 初版: 中央公論社(1962/02) 目次: 世界経済恐慌
アドルフ・ヒトラー
補足情報:ミュンヘン一揆 『わが闘争』と政権の獲得 大恐慌とその対策 ニュー・ディール アメリカ社会の変化 五ヵ年計画の明暗 粛清の嵐 ソ連社会のピラミッド 南京国民政府と田中外交 満州事変から冀東政権へ 中華ソヴィエトと中国共産党 日華事変 民主主義の苦悩 SS国家 ユダヤ人の運命 小国の悲哀 第二次大戦の勃発 第二次大戦とアメリカ 太平洋戦争 戦争とアジアの諸民族 第二次大戦の終わりとヒトラーの死
大恐慌の混乱のなかでのファシズムの抬頭は、国際対立の激化をまねき、ついに第二次大戦をひきおこす。
だが、六年にわたる悽惨な戦乱のすえに民主主義に屈してゆく。(裏表紙)
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大恐慌前夜のアメリカ
引用この国は、一九二八年三月には最高潮に達していた。
一夜にして巨額の富を得た物語はいたるところで伝えられ、証券会社の窓口は、金もうけに夢中になっている人たちでいっぱいだった。
急激な反動を心配した連邦準備局は、再割引率を三分五厘から五分に引き上げたので、
五月六月の株式市場は多少の引締りをみせた。
しかし、六月には共和党が、ハーバート=フーヴァーを大統領候補に指名すると、また株は上がりはじめた。
彼の当選によってブル・マーケットはふたたび現れた。
十一月二十三日には、ニューヨーク株式取引所の出来高は約七〇〇万株に達し、モンゴメリー・ワードなどは一三二から四二九に急騰した。
政府の抑制はもはや何の効力もなく、翌二九年三月二十六日には、約八二五万株という未曾有の出来高をしめすにいたった。
もちろん、すべての経済分野が成長をとげているならば、ブル・マーケットも心配ない。
しかし、一九二〇年代のアメリカの繁栄はバランスを欠いていた。
農業は依然不況であり、農民の購買力は下がる一方であった。
紡績工業や石炭工業も不振であり、技術の進歩による失業は増大していた。
個人の負債はむしろ増加していたし、信用取引はいつくずれるかわからない状態であった。
はっきりいうと、アメリカ人は、繁栄と窮乏の限界にあったのである。
それをクーリッジ大統領が、最後の教書(一九二八年十二月)で述べたように「満足をもって現状をみ、楽観をもって将来を見通し」
ていたのであった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.86
引用カチカチと音をさせながら飛び出してくるティッカーのテープは、大引けになってからあと四時間も動いていた。
この日一日だけで一三〇〇万株が売られた。
ニューヨーク株式取引所の周囲は不穏な空気につつまれ、警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。
シカゴとバッファローの取引所は閉鎖され、投機業者で自殺したものは、この日だけで一一人に及んだ。
この日からは、株価は下がる一方であった。
そして最悪の日といわれる十月二十九日がやってきた。
一六四〇万株がこの日だけで売りに出され、とうとう午後には取引所の大扉は閉められなければならなかった。
この日だけで、株価は平均四三ポイント下がり、だいたい九月の半分ぐらいになってしまったのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.88
ボーナス・アーミー
引用一九三〇年の秋、国際リンゴ輸出協会は、余剰リンゴを街頭で売ることを始めた。
一個五セントだが失業者には貸売りするのだった。
その年の十一月、六千名のリンゴ売りがニューヨークの歩道に姿を現わした。
このリンゴ売りをやった人たちのなかには、多くの第一次大戦の復員兵士たちがいた。
彼らは、こういうさいだから、毎年支給される手当をくり上げて一時に支給してもらいたい、と要求した。
フーヴァー大統領がこれを拒否したので、一九三二年の春から夏にかけて、
ボーナス・アーミイと称される約一万一千の復員軍人およびその家族が首都ワシントンに向かって行進をおこない、
公園などに仮小屋をつくって住みつき、議会に対してデモをおこなった。
フーヴァー大統領はやっと一〇万ドルを議会から獲得して、彼らにあたえた。
六千名の人はこれでワシントンを去ったが、あとの者は居残った。
居残った者のうち実際に復員軍人なのは三分の一ぐらいで、あとは共産主義者だと政府は発表している。
七月二十八日、彼らを退散させようとする警官隊と衝突、二名が死に、二名が負傷した。
フーヴァー大統領は、マッカーサー将軍に出動を命じた。
騎兵隊は復員軍人の密集に襲いかかり、歩兵隊は催涙ガスを使って、彼らを完全にワシントンから追いはらった。
死者は出なかったが負傷者は数多かった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.93
引用フーヴァーとローズヴェルトはいろいろな点で異なっていた。
フーヴァーは貧しいアイオワの農民の家に生まれた。
社会的地位も財産もなく、みずからの努力と勤勉によって、スタンフォード大学を卒業し、鉱山技師をふりだしに、
名声と富とをかちえた立志伝中の人である。
彼が「強固な個人主義者」として、個人の企業の自由を擁護し、民間企業に対する政府の干渉をあくまで排除しようとつとめるのは、
彼がアメリカが機会の国、自由の国であるという伝統に生きてきたからであった。
これに対して、ローズヴェルトはニューヨークの名家の出である。
子供のときから何一つ不自由なことはなく、社会的地位と富に恵まれていた。
しかし彼は自由主義者であり、社会変革をおそれぬ進歩的な考えの持ち主であった。
ニューヨーク州上院議員、ウイルソン大統領の下の海軍次官補、一九二〇年の選挙における民主党副大統領候補、
という順調な政治家としての経歴を重ねていた。
一九二一年小児麻痺におかされ、苦しい闘病生活を克服し、二八年にはニューヨーク州知事としてはなばなしく政界にカムバックした。
彼の選挙運動は全国民を驚かすに足る精力的なものであった。
遊説旅行は二万五千マイルに及び、ほとんどすべての州を訪れた。
コロンビア大学のモーレー教授をはじめ、多くのインテリからなるブレーン・トラストの助けをかりて、
彼は恐慌から生じている諸問題を鋭く分析し、その対策を明らかにしようとした。
ローズヴェルトは、けっしてアメリカの資本主義を改変しようとするものではなかった。
彼自身資本家だったからである。
しかし、彼の収入は、投資による配当ではなく、主として地代や銀行利子であった。
だから、産業の過大な競争は彼にとっては弊害と考えられたのである。
資本家としての彼は労働者を搾取しなかったし、国家の天然資源を浪費しなかったし、また、
株式の投機をやったこともなかった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.104
引用一九三三年三月四日、春とはいえワシントンの空は暗雲がたれこめ、鉛色のどんよりした空模様につつまれていた。
おもくるしかったのは天気ばかりではなかった。
アメリカ全体をつつんでいた雰囲気が、大統領就任式というお祝いの気分からはるかに遠ざかったものであった。
街路をかざる星条旗も力なくたれ、人々の心は沈みきっていた。
ローズヴェルトの大統領の就任式は、大恐慌が最悪の事態におちこんだときおこなわれたのであった。
多くの工場は閉鎖され、仕事をしている工場もほんのわずかの生産をおこなっているにすぎず、
商船は波止場につながれたまま、空の貨車はなすことなく操車場に並んでいた。
失業者の数は一五〇〇万に達し、パンを求める人々の姿は長い列をつくっていた。
そのうえ、就任式の一週間前から、全国の銀行がとうとうその扉をとざすという最大の経済的危機にみまわれていたのである。
「この偉大なるわが国は、今日まで継続してきたように将来も継続するであろうし、再生し、繁栄するであろう。
したがって私は、まず第一に私の固い信念を主張したい。
つまり、われわれの恐れなければならないのは、恐れることそのものであるということである。
退却から前進に転じるのに必要な努力を麻痺させる、漠然として理屈に合わぬ筋のとおらない恐怖感をこそ、
恐れなければならないのである」
と、彼は国民を激励した。
ついで、彼がいだいている恐慌克服の計画を概説したのち、つぎのようにつづけた。
「私は憲法の定める任務にしたがって、苦悩せる世界の直中における苦悩せるわが国民が必要としている諸法案を、
いつでも推奨する用意がある。
これら諸法案、および議会がその経験と叡知によってつくりだすその他の諸法案については、
私は憲法の定める権限が許すかぎり、すみやかにそれを採択せしめるであろう。
しかしながら、もし議会がこれら二つの道のどちらか一つをとらなかったばあいには、
そして国家はなお危急存亡の事態にあるばあいには、私は自分に課せられた明白な責任を回避しようとは思わない。
私は議会に対し、この危機を乗りきるために残された一つの方法、すなわち、緊急事態と一戦をまじえるために、
じっさいに外国の敵が侵入してきたさいに私にあたえられる権力と同様に強い広範な行政権を要求するであろう・・・・・・」
この演説には、ローズヴェルトの強い責任感と決意が現われていた。
自信にみちた彼の態度は、国民の心の動揺をしずめるのに大きな効果があった。
すくなくとも、ローズヴェルトは、大統領としてその第一歩において国民の信頼を得ることに成功したのだった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.107
現実的政治家、F・ルーズベルトのエピソード
引用ニュー・ディールといっても、それは一つの政策ではない。
また一つの理論にもとづくものでもない。
ローズヴェルト自身が政治思想家でなく、現実的な政治家にすぎないからである。
かつて、ある若い新聞記者がローズヴェルトに質問したことがある。
「大統領、あなたは共産主義者ですか」
ローズヴェルトは答えた。
「いや、ちがう」
「ではあなたは資本家ですか」
「いや、ちがう」
「じゃ、社会主義者ですか」
「いや、ちがう」
「では、あなたの政治哲学は何ですか」
「哲学だって。そう。私はクリスチャンで、そして民主主義者ですよ。それだけです」
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.111
民間資源保存団(CCC)
引用職のない青年たちを遊ばせておくことは大きな社会的損失でもあるというので、
労働長官パーキンス女史やワグナー上院議員の立案した民間資源保存団(CCC)というものが、一九三三年四月につくられた。
団員になるには志願で、けっして強制ではなかった。
軍事教練や敬礼などは厳禁されていたが、その精神も訓練もいわば軍隊的であった。
陸軍省はキャンプの設立や青年たちの保健衛生などに責任を持ったが、資源団の指導者はすべて民間人であった。
団員は一ヵ月三〇ドルの手当を受けたが、そのうち二五ドルは強制的に家庭へ送られることになっていた。
冬はスマートな緑色の制服、夏はにぶい淡褐色の制服が無償で支給された。
一九三五年には団員の数は約五〇万に達し、そのうち五万は黒人であった。
そのなかにはインディアンも少数加わっていた。
最初のころは、職がなくて困っていた者も、べつに救済を要しない家庭の者もいたが、一九三五年には、
すべて救済の必要のある青年だけになり、年齢も一七歳から二八歳にひろげられた。
しかし、多くはハイティーンの青年たちであった。
救済事業としては、資源団は金がかかりすぎ、一人あたり年平均一一七五ドルを要したが、
青年たちに技術を教え、団体訓練によってモラルの低下を防ぎ、そのうえ、道路の建設、山火事の予防、土壌の改良、植林などの
国家的な仕事をおこなったので、一般には評判がよかった。
一九三六年のギャロップの世論調査でも、農業調整法には五人に三人は反対だったが、
資源保存団には五人のうち四人が支持を表明したという。
団員として二年間働いた者に対しては、多くの雇用者があらそって雇ったといわれるから、
ニュー・ディール政策のなかでは、最も成功したものの一つといってよいであろう。
しかし、一九三九年末には、国際情勢の緊迫化から約三〇万の団員がそのまま兵役に入ったり、あるいは軍需工業にまわされている。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.115
スターリンのイメージ
引用一九六一年十月三十日、第二二回ソ連共産党大会はスターリンの遺体を「ほかのしかるべき場所」に移転する決議を満場一致で可決した。
そして今後この廟をウラジーミル=イリイッチ=レーニン廟と改称すると述べている。
この日、ある婦人は、スターリンの死亡(一九五三年)が発表された当時を思い出して、こう語った。
「あのときは、ほんとうにスターリンが死んだのかどうかを自分の目でたしかめてみたいだけの気持でした。
モスクワ市民のみんながそう思って赤い広場に出かけたものです。
スターリンの遺体を見て、ほんとうに安心したものでした。
しかしこんどこそスターリンは死にましたね。」
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.165
スターリン時代の意義
引用五ヵ年計画を中心とするスターリン時代の歴史的意義は、ロシア帝政が没落した一九一七年の二月(新暦では三月)革命、
ボリシェビキが権力を奪取した十月(十一月)革命、この二つの革命についで第三の革命であったことである。
「第三革命」の内容はつぎの三点に要約される。
第一、この革命は一九一七年に実現をみた小ブルジョワ農民革命の成果を清算し、ネップ時代に農民がしめた立場を徹底的に破壊した。
第二、この革命は急激な工業化の実施であり、それはまた、なによりもまずソ連を世界一流の軍事的強国にすることを重視した。
第三、この革命は完全な全体主義体制の出現と強化をともなった。
十月革命をレーニンの革命というならば、第三革命はスターリンの革命といえよう。
スターリンの革命は、レーニンの革命以上に、ソ連の市民全体の運命に深刻な影響をおよぼした。
十月革命では大衆が積極的な役割を演じたが、第三革命は政府が猛烈な社会再編成を上から強行した革命であった。
十月革命は新しい道をきりひらくために古いものを一掃する破壊的な性格をもっていたが、
第三革命はその精神や目的において建設的なものであった。
だが実際上、この建設は結果においてひじょうな犠牲をともなった。
その意味でスターリン時代は呪われた時代であった。
しかしまた、この苦しい建設の時代をへなかったならば、ソヴィエト体制は第二次大戦の危機をあるいは乗りきれなかったかもしれない。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.167
スターリン革命の発端
引用農民は一九一七年の革命以前にくらべたら、たしかに土地も多くなったし、食糧にも恵まれるようになった。
ところが、消費物資がじゅうぶん出まわらなかった。
そこで彼らは、穀物をどしどし作って売り出す意欲を失った。
それに総人口が年々ふえていたこと、また穀物の出来高が天候次第で変わらざるをえなかったことも都市への食糧供給を不安定にした。
そんなわけで、一九二七年から翌年にかけて、都市への食糧供給はますます不足を告げた。
ソヴィエトの指導者は、主として軍事的な理由から工業を急速に発展させねばならぬと決意していたので、
この問題をなんとか解決しなければならなかった。
スターリンの革命は、この都市への食糧供給の不足の結果としてはじまったのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.168
クラーク清算
引用スターリンは 【中略】 犠牲のやぎを共産主義の祭壇に供えるという常套手段をとった。
このばあい犠牲のやぎはクラーク(富農)であった。
食糧危機はクラークのサボタージュのせいだとされたのだ。
クラークという「人民の敵」はソヴィエト政府を飢餓におとしいれ、政府を降伏させようと企てている、
これに対する方法は農村で階級闘争を組織することだ、貧農に依存し、中農を獲得し、クラークを孤立させ、これを破壊することだ、
というのである。
そして、このスターリン路線は現実に遂行され、貧農大衆は英雄的な党に指導されて、搾取者クラークに対する階級闘争に立ちあがり、
彼らを撲滅したというのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.170
引用キーロフ暗殺の真の原因がなんであったかは容易にわからないが、ただキーロフ暗殺の結果だけは明らかである。
つまり、キーロフただ一人の死に「復讐」するために、大量の共産主義者が死なねばならなかったことである。
「エジョフシチナ」の名でよばれる大量粛清の嵐が、やがてソ連社会に吹きすさぶのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.200
エジョフシチナ(大量粛清の嵐)
引用トロツキストの組織とかジノヴィエフの組織などというものはロシアには実在しなかった。
スターリンやその一党にとってもっとおそろしい反対派はむしろ党内穏健分子で、
スターリン体制のますます過酷さをましてゆくやり口を嫌って、
ブハーリンの人柄や思想に共鳴していた人たちだったのではなかろうか。
この「ブハーリン主義」を撲滅することがエジョフの仕事であった。
ジノヴィエフ、カーメネフおよびラデックは、死ぬ前に、ブハーリン、トムスキー、ルイコフを「巻きぞえ」にするようにそそのかされた。
ブハーリンら三人のものがたくらんだといわれる陰謀が、一九三六年九月の中央委員会総会ににもちだされた。
エジョフがその報告にあたった。ブハーリンは勇敢に抗弁した。出席者の多くのものも発言した。
そして中央委員の三分の二がエジョフ報告の承認に反対した。
この三分の二の反対者のなかにはポリトビューロー(政治局)のメンバーが五名もいた。
彼らはいずれも、のちに悲惨な最期をとげたのである。
スターリンは反対者多数のため、いちおうしぶしぶエジョフ報告を否決することにし、さらに徹底した準備をおこなった。
一九三七年二月スターリンは、正式に中央委員会にはかりもしないで、ブハーリンとルイコフを委員会から追い出してしまった。
そして翌一九三八年三月には、政治警察の前長官ヤーゴダといっしょに彼らを裁判にかけた。
トムスキーは自殺した。二一名の被告のうち、ブハーリン以下一八名が銃殺に処せられた。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.202
田中メモランダム
引用一九二九年十月のこと。京都では第三回目の太平洋会議が開かれようとしていた。 【中略】 本会議の前に、
日本代表の小村俊三郎、水野梅暁らは、中国代表余日章、陳立廷、徐淑希らが本会議に提出しようとしている
「田中メモランダム」なるものの写しを手にいれた。
内容を一読した日本側は、その文書が偽造であることを指摘しながらも、
なおかつこれが公表されたら大変なことになるとして、中国側と交渉し、けっきょく提出させないことに成功したといわれる。
その後これは、南京の『時事月報』一九二九年十二月号に「田中義一上日皇之奏章」(田中義一 日本の天皇にたてまつるの上奏文)
として現われ、各国語に翻訳されて世界じゅうに流布した。
「中国を征服するためには、われわれはまず満蒙を征服せねばならぬ。
世界を獲得するためには、最初に中国を獲得せねばならぬ。」
「中国の全富源を掌握したわれわれは、ついでインド、南洋諸島、小アジア、中央アジア、
いな、ヨーロッパへさえ前進するであろう。」
という大変な世界征服政策を根幹として、その手始めなる満蒙経営計画を詳細に述べたものであるが、
このメモランダムが偽であることのきめ手はいくつかある。 【中略】 形式内容ともに偽造文書であることはほぼ間違いないところである。
しかし、このメモランダムが、真偽を取り沙汰されながらも、ながいあいだ、
いな、時代が下るにつれてますます世界的に有名になったのは、
第一に、この文書が対中国貿易よりも満州経営を基調とする田中の積極政策の性格をまことに鋭く洞察していること、
第二に、満州事変、日華事変、仏印進駐へと日本の進んだ方向が、メモランダムに正しく合致していたことに理由があった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.246
引用政友会幹部は、前年四月の施政方針演説以来、七月の「対支政策綱領」、八月の撤兵声明、そして一九二八年一月の施政方針演説などにおいて、
くりかえし主張してきた「対華積極方針」の手前、政友会の面子にかけても出兵をおこなわざるをえないと考えたのであった。
「出兵せずに在留邦人が一人でも殺されたら内閣が危い!」これは政友会幹部たちの実感であった。
圧倒的多数の出兵反対説をしりぞけて、けっきょく出兵に踏みきったのは田中と森、
および小川平吉らごく少数の政友会の「有力者」たちであった。
このひとつまみの人たちの決定によって、日本は華北駐屯軍から歩兵三個中隊を、内地からは第六師団を、
済南に派遣することになったのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.250
引用当時、上海駐在武官補佐官をしていた少佐田中隆吉は、戦後つぎのように発表している。
すなわち、十月上旬花谷から呼ばれて田中は奉天におもむき、板垣らに、
上海に事をおこすことによって満州問題から列国の目をそらすように要求された。
田中は関東軍から運動資金二万円、さらに鐘紡の上海出張所から一〇万円を借り、これによって上海に事をおこす準備工作をおこなった。
かの日蓮宗托鉢僧を狙撃した中国人も田中が買収したものである、といい、
また居留民をして陸海軍の派遣を政府に請願せしめるにも彼は大いに画策するところあったという。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.278
引用土肥原は天津におもむき、当時天津日本租界に隠棲中の廃帝溥儀すなわち前清の宣統帝にまずいちじるしい恐怖感をあたえることにつとめた。
このような廃帝溥儀の引出し工作に日本の外務省は反対であった。
幣原外相は在天津桑島総領事に、かかる計画の中止に努力方を訓令したが、
土肥原は、あるいはことさらに反張学良の暴動事件を計画してこれを引きおこし、
あるいは廃帝溥儀に差出人不明の爆弾入りの果物をとどけたりして強引に説得、ついに天津脱出の決心を固めさせた。
ついに十一月十一日、ひそかに天津をのがれ出で、日本船淡路丸に乗じた廃帝溥儀は、十三日営口に到着、
ただちに遼陽南方の温泉湯崗子にて関東軍側からの建国計画の委細を聞いた。
がんらい満州のなかには反張学良分子、反南京中央政府分子、そして清朝の復辟を願う者等々、種々の勢力があった。
これらの勢力を打って一丸となし、溥儀を推戴せしめ、三月一日ついに執政溥儀のもとに満州国建国宣言が発表されるのである。
溥儀は当初執政として就任、状況をみて皇帝になるということであった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.278
満州国のウラ
引用満州国は、一方で工業化と急速な鉄道建設をうたい、また、いわゆる「匪賊」のいちじるしい減少を誇りながらも、
他方満州から冀東地区に密輸され、冀東地区からさらに中国内に送られる阿片、麻薬は、おそろしい数量にのぼった。
のみならず、山海関から天津にいたるまで冀東政権の支配下にある海岸には、つねに何百隻かの船が停泊して殷賑をきわめ、
人絹、砂糖、紙類、自転車の部品、石油等あらゆる商品がここで陸揚げされ、これがなかば堂々と脱税のまま南方に運ばれる。
中国側の税官吏が近づくと、日本人や朝鮮人が実力をもってこれを守り、この密輸を強行する。
これを目のあたり見た華北の中国人が、激しい抗日感情に湧き立つのもまた当然であろう。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.286
引用イギリスの経済界が危機に瀕していることがわかると、
これまでイギリスの経済力を信用してロンドンに集まっていた巨大な外国人の資本が大挙してひきあげられた。
一九三一年の七月後半から八月初めにかけて、彼らはきそってロンドンの預金を引き出したので、
イングランド銀行はフランスやアメリカの中央銀行などから五千万ポンドの借款を得て急場をしのいだものの、
金の流出はなおやまなかった。
巨額の赤字を補い、金の流出も補うために、イングランド銀行はさらに八千万ポンドの借款をパリとニューヨークから得ようと努力したが、
ニューヨーク連邦準備銀行はその条件として、政府が失業手当の減額など 【中略】 を実行して予算の均衡をとることを求められた。
マクドナルドはこの要求を受けいれる覚悟をきめたが、閣内に反対論者がかなりいるので、
八月二十三日(日曜日)に辞職し、翌日保守党総裁ボールドウィン、自由党総裁サミュエルとともに挙国一致内閣をつくって
難局を乗り切ることとした。
一般にマクドナルドはこのさい引退して、ボールドウィンが新内閣をつくるものと考えられていたが、
国王の要請によって前内閣の事情に通じている者が残留することとなったのである。
労働党の幹部たちが、こうしたマクドナルドの行為を「裏切りだ」と憤慨したのも当然で、
非難が雨あられとマクドナルドの上にあびせかけられた。
アメリカとフランスの資本、それにイギリスの銀行家が労働党内閣を倒したのだ、という彼らの非難は相当に根拠のあることである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.325
親衛隊(SS)
引用親衛隊(SS)は「ナチス狂気の中核組織」といわれてきたが、
実際は当時のドイツ人のエリート組織であった。
親衛隊は 【中略】 一九二五年に創設されたもので、もともとはヒトラーの身辺警固隊であり、
突撃隊のような武装大衆集団ではなくて、信頼のおける党員からなる少数の精鋭組織であった。
隊員はヒトラー個人に対して忠誠の誓いをおこない、ヒトラー個人と直接に結びついたもので、
一九二九年初めにヒムラーがその全国指導者になったときには隊員二〇〇人にすぎなかった。
隊は突撃隊に従属していたが、ヒムラーの努力によって組織がみるみるうちに膨張し、
一九三三年にはすでに五万人の隊員をかぞえた。
隊員はきびしく選抜され、一般党員とは異なって黒色の制服をつけ、強い選良意識をもっていた。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.357
引用ヒムラーは、一九四三年にはヒトラーにつぐ第三帝国第二番目の人物にのしあがった。
彼は良家の出身であり、順調に大学を卒業していたので、単純で人のよい家父長的な性格があり、
部下には自由に腕をふるわせていた。
したがって親衛隊の内部では、おたがいに親密な信頼関係があり、団結がかたく、ヒムラーは部下から無条件に信頼されていた。
ドイツ支配勢力の大半にとっては帝国主義政策のための一手段にすぎなかった狂気じみたナチスの諸政策を、
ヒムラーたちは疑うことも知らずにまじめに信じこんで実行したのであって、ここに彼らの悲劇があったのである。
巨大な犯罪組織の大親分といった印象が彼にはまったくなくて、
「まるで田舎の小学校長のようだ」といわれてきたのもこのゆえである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.360
引用ミュンヘン協定によってズデーテン地方をドイツに割譲させられたチェコスロヴァキアでは、
一九三九年に入るとスロヴァーク人、ルテニア人の自治権要求の運動が激化したが、この背後では、
チェコスロヴァキアの解体をねらうナチス・ドイツが、ひそかに糸をひいていた。
事態が紛糾の極に達すると、三月十四日、スロヴァキアの指導者ティソ神父は、
ドイツを後ろ楯に独立を宣言、一方、ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけて、
ボヘミア・モラヴィア両地方のドイツ保護国化を要求した。
ハーハが外相をともなってヒトラーの待ちうける会議室におもむくと、机上には、
「チェコスロヴァキア大統領はチェコ国民の運命を信頼の念とともにドイツ帝国総統の手中にゆだねる」
という途方もない文書が準備されていた。
文面をすこしでも緩和しようとするハーハの努力は、すべて無駄であった。
ドイツ側は、署名を拒否すれば八〇〇のドイツ機で首都プラーハを猛爆すると威嚇し、それぞれペンと文書を手にした
リッベントロップとゲーリングが、ためらうハーハを机のまわりを追いまわした。
心痛のあまり二度も失神した老ハーハは、そのたびに強壮剤で覚醒させられ、気力もつきて十五日早朝、文書に署名した。
このときすでに国境を越えていたドイツ軍は、即日チェコ全土を占領し、
またハンガリーがカルパト・ルテニア地方をかすめとった。
この混乱した情勢を利用して、イタリアはアルバニアを占領、ドイツはまた、
ヴェルサイユ条約のいま一つの申し子ポーランドをつぎの侵略目標に選定していた。
将来の対西方戦のことを考えると、ナチス・ドイツとしては、どうしても東隣りのポーランドをとりこにして
背後の安全をかためておきたいところであったのであるが、ポーランドは属国化を潔しとしなかったので、
ヒトラーは、ダンツィヒ自由市のドイツ帰属その他の要求を押しつける一方、
ひそかにポーランド粉砕の軍事作戦を準備しはじめたのである。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.421
引用ガンディーは二十二年にわたる南アフリカでの生活に別れを告げ、一九一五年、故郷インドに帰ってきた。
彼は南アフリカにおけるインド人の差別待遇を撤廃せしめるため、サティアグラハ運動を指導してきた。
アティアグラハとは真理をつかまえるという意味であり、危険にさいしてもけっして暴力を用いない非暴力のたたかいをさすのであった。
ヒンドゥー教本来の精神は非暴力であり、絶対に自己を抑制することを原則とする。
彼はこのヒンドゥーの教えからサティアグラハの運動を編み出し、みずからその先頭に立った。
ガンディーは、このサティアグラハ運動でローラット法に対して抵抗する決心をした。
「闘争にあっては忠実に真理に従い、生命、人格、財産に対する暴力をつつしむ」という規律をまもりながら
インド政庁の悪法に従うことを拒否する、というのがこの運動の要点である。
あらかじめ定められたハルタルの日、四月六日、ほとんどインドの全地方でハルタルは整然とまもられた。
たかをくくっていたインド政府は、この整然たるハルタルに驚き、にわかに民衆を圧迫しはじめる。
ガンディーもまた、四月九日逮捕された。
まもなく釈放はされたが、ガンディー逮捕の報道はたちまち反英運動に火をつける結果となり、
各地において激昂した民衆は、サティアグラハをのりこえ、暴動化する勢いをみせた。
四月十一日、ガンディーは民衆に対して深い警告をあたえた。
「これはもうサティアグラハではない。
もし非暴力をもってじゅうぶんにこの運動ができなかったのなら中止すべきだったのだ」とし、
民衆の暴行の償いのため三日間の断食をはじめた。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.462
引用インド、パンジャブ地方の一小都市アムリツァールでも、ハルタルは予想以上の成功をおさめた。
四月九日、民衆のデモに官憲が発砲し、ついに死傷者を出した。
各地で群衆はサティアグラハを忘れ、暴動化した。
四月十三日、民衆の大集会に対し、イギリス軍側は装甲車を用意してこれを弾圧する決心をしめした。
イギリス軍司令官ダイヤは、
「アジア人が尊敬を払うものありとすれば、それは力だけである」という考えかたを持ったイギリス人であったが、
三方を壁で囲まれた広場に集まった約一万の群衆に対して、前触れもなしに射撃を命じた。
弾丸は一六〇五発発射され、死者三七四名、負傷者千名以上におよんだ。
ただちにパンジャブは戒厳令下におかれ、飛行機による農村群衆に対する銃撃、爆撃がおこなわれ、
無差別の逮捕がはじまった。
インド人は、イギリス士官に対しては車馬から降り、傘を閉じて敬礼せよ、
かつて白人女教師が襲われたことのある地点ではインド人はすべて腹を地につけて這って行け、というような命令すらも発せられた。
この惨劇について、パンジャブ以外の地方では何ヵ月にもわたってほとんど報道はもたらされず、
イギリス本国へすら半年以上も記事が差し止められた。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.463
塩の行進
引用一九三〇年三月十二日、ガンディーはインド政庁の塩の専売に関する法律を破るために、
七九人の弟子とともに彼の道場を出た。
そして三週間あまりかかって、海辺へ向かって二〇〇マイルの徒歩行進をおこなった。
この行進は行くさきざきで民衆のあいだに異常な感激をまきおこした。
インド民衆が息をつめて見まもるなかを、四月六日ダンディーの浜辺に着いたガンディーは、
海水に身を清めて塩をつくりはじめた。
この儀式が終わると、全インドでガンディーにならって公然と塩をつくる運動が展開され、
やがてそれは官立学校・官職のボイコット、さらに外国製品のボイコットへと規模が拡大されていった。
家庭に引っ込んでいたインド婦人たちすらつぎつぎと街頭にデモをおこない、全インドは非協力運動に湧き立った。
多くの活動家が逮捕され、また非協力の枠を乗りこえた暴力騒ぎもおこり、
なかにはペシャワール事件と称される事件のように、数百万人が射殺されたこともある。
ガンディー自身も五月五日捕えられ、裁判なしに八ヵ月間監獄にいれられた。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.465
「すべての日本人に」
引用ガンディーは非暴力の信条からして、日本やナチス・ドイツの帝国主義的侵略をきびしく批判していた。
一九四二(昭和一七)年七月、ガンディーは、「すべての日本人に」と題する手紙を発表した。
そのなかの一節にいう―
「私は、あなたがたについて楽しいたくさんの思い出を持っている。
楽しい思い出を持っていればこそ、かえって私は、あなたがたが中国にくわえた理由のない攻撃、
偉大なそして古い中国を無慈悲に荒らしてしまったことを思うたびに、ひじょうに悲しく思う。
あなたがたが世界の強国と肩を並べたいというのは、りっぱな野心である。
しかし中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟することは、その野心の度を越したもので、正当なものではない。・・・・・・
もしもあなたがたが、イギリスがインドから退却したらインドに入ろうという考えを実行するならば、
わがインドは、全力をあげてかならずあなたがたに抵抗する。・・・・・・
われわれは、あなたがたを、最後には道徳的崩壊に終わるにちがいない道、
いや人間をロボットにしてしまう道から正しい道へ引きもどしたい・・・・・・。」
こうして日本の新秩序論に対してきびしい批判をしめした
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.466
一八九七年オリッサに生まれ、一九二〇年インド高等文官試験に合格しながら、例の非協力運動に従って官途に就くことを拒否した。
のち一時ケンブリッジ大学に学び、帰国してインド会議派に属し、
会議派内の左派としてガンディーの非協力・非暴力運動に批判的な態度を持した。
三九年、会議派主流と対立、ついに会議派から除名された。
彼はつねに、インドの解放は帝国主義者相互の対立戦争を利用すべきであると考えていた。
それゆえ第二次世界大戦勃発後、猛烈な反英運動を展開し一時逮捕されたが、獄中ですすんで病気にかかり、釈放された。
ただちにドイツ諜報機関の手引きでインドを脱出、アフガニスタン、モスクワをへてベルリンにおもむいた。
太平洋戦争がはじまるや、日本はなんとかしてインドにおける反英運動を結集させようとし、
ナチス・ドイツに対して、ボースを日本によこすよう再三要求した。
これよりさき、マライ戦線において多くのセポイの捕虜を得た日本側は、この捕虜を再編成し、
インド国民軍としてインド進攻のときに備えて訓練していたのである。
潜水艦で日本へ来たボースは、このインド国民軍を背景に東京政府と交渉、
シンガポールにおいて自由インド仮政府の成立を宣言した。
一九四三年十月二十一日のことである。
アンダマン・ニコバル両諸島は正式に自由インド仮政府の支配下に入った。
一九四四(昭和一九)年三月、東条はインパール作戦を敢行した。
軍事学的にはほとんど意味をもたないが、
ともかくもインドに攻め込めばイギリスのインド統治が崩壊するかもしれないというかすかな望みをもっておこなったものであった。
一万五千のインド国民軍はこれに協力した。
しかし周知のとおり、インパール作戦は惨憺たる日本側の敗北に終わり、全軍潰滅。
インド国民軍はいっそう哀れな状態で四散してしまった。
もはやこのときは、イギリス側セポイを説得しようとする第一線のインド国民軍によるウルドゥー語やヒンドゥー語の呼びかけも効果なく、
またチャンドラ・ボースが退却する日本軍に対してきびしく抗議し、
最後の一兵まで戦うことを主張したにもかかわらず、ついになんらなすところなく終わってしまった。
その後ボースは一九四五(昭和二〇)年四月、ラングーンの陥落直前にここを去り、
シンガポールに飛んでふたたびインド国民軍の再建のために東奔西走しているうち、
サイゴンで日本軍の無条件降服を聞いた。
ボースは、単身ソ連に乗り込むために日本軍の飛行機を要求、サイゴンから台北をへて大連に飛ぶ予定であった。
八月十八日、台北飛行場を離陸しようとする飛行機は、浮き上がった直後、機首を地上に突っ込んだ。
流れ出た油に火がうつり、たちまち激しい炎は機体をつつんだ。
重傷を負ったボースはまもなく死んだ。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.468
引用日本植民地時代の台湾において、なによりも日本人に衝撃をあたえたのは霧社事件であった。
これはマライ系高砂族によってひきおこされた日本人虐殺事件で、一九三〇(昭和五)年十月二十七日、
霧社地域のマヘボ社の頭目モーナルダオによって指導されたものである。
霧社公学校における運動会に集まっていた日本人に対してモーナルダオは奇襲をかけ、
二二七名の日本人中、死者一四三、重傷八(のち二名死す)、軽傷十二におよんだ。
これに対し、日本側は二千余名の軍隊と武装警官を動員、飛行機、山砲、機関銃、催涙ガスを使ってこれを追撃包囲し、
十一月二日ほとんど鎮定した。
モーナルダオは密林の奥深く自殺した。
蜂起したのは六蕃社、千余名で、そのうち死者は六八五、降服五五一ということであるが、
死者のうち半数は他の高砂族によって殺されている。
この事件は組織的な民族主義運動といったようなものではなく、むしろ義務出役労働の過酷さ、
賃金の差別待遇に加えるに官憲の圧制からおこった暴発的なものであったが、その影響は大きく、その犠牲の大きさで名だかい。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.468
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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