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フランクリン・D・ルーズベルト
1882 - 1945
大統領(民主党)、副大統領、ニューヨーク州知事、海軍次官補 / アメリカ
エピソード 1調査中。
語録
そもそもフランス人とはどのようにして協力すればよいのか。
わたしは、一週間のうちに三人のちがう首相を相手にしなければならない!
引用ニューヨーク州ハイド・パークのハドソン川を見下ろす広大な敷地で生まれた。
父はニューヨーク州の旧家のローズヴェルト一族に属し、資産家だった。
父が五十二歳のときに再婚した二十六歳年下も母も、ニューイングランドの旧家の出身だった。
一人っ子のローズヴェルトは両親に寵愛され、家庭教師から教育を受け、また一年のうち数ヵ月は両親とヨーロッパで暮らした。
十四歳の時にマサチューセッツ州のグロートン校に入学し、一九〇〇年ハーヴァード大学に進学した。
学生時代は勉強よりも社交や学生新聞の編集長の仕事に熱心だった。
一九〇四年、コロンビア大学ロースクールに入学し、
翌年、同じローズヴェルト一族で現職大統領セオドア・ローズヴェルトの姪にあたるエレノアと結婚した。
一九〇七年、ニューヨークの弁護士試験に合格し、ウォール街の法律事務所に就職したが、
大統領の叔父を崇拝するローズヴェルトは、法律よりも政治の世界に心をひかれた。
一九一〇年、ニューヨーク州ダッチェス郡の民主党指導者たちに推されて州議会上院議員に立候補した。
民主党には不利な選挙区だったが、若くハンサムなローズヴェルトは農村地帯をくまなく廻り、見事当選した。
一三年にはウィルソン政権の海軍次官に任命された。
私生活では、一八年、エレノアの秘書ルーシー・マーサーとの情事がエレノアの知るところとなったが、
ルーシーと二度と会わないことを約束し、離婚の危機を乗り越えた。
二〇年には民主党の副大統領候補に指名された。
選挙で民主党は惨敗したものの、まだ四十歳にならないローズヴェルトの前途は有望だった。
しかし二一年夏、ローズヴェルトは突然ポリオにかかり、下半身不随となってしまった。
一時は将来に絶望したが、持ち前の不屈の精神と妻エレノアらに支えられ、政界復帰をめざした。
一生自分の足で歩くことはできなかったが、カメラマンたちの協力もあり、多くのアメリカ人はそのことに気づかなかった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.128この本を入手
引用ジェームズ・バーンズ教授による二冊のルーズベルト評伝の副題「自由の戦士」と「ライオンにして狐」に、
ルーズベルトの本質が、よく示されている。
第一次大戦の指導者ウッドロー・ウィルソン大統領が、いかにも牧師の息子にして学者出身らしい、理念派の理想主義者であったのに対し、
その下で海軍次官補を務めたルーズベルトは、現実派の理想主義者であった。
普遍主義的理念をもっての新世界建設のロマンをウィルソン大統領と共有しつつも、
同時に力の闘争に尻込みしない現実主義者であり、与えられた条件の中で可能性を柔軟に求めるプラグマティストであった。
ルーズベルト海軍次官補は、ヨーロッパにおける米海軍の戦争指導を主たる職務としていたが、
太平洋方面において「対華二一ヵ条」を要求し、ドイツ領南洋諸島や山東半島に手をかける日本帝国の膨張に強い警戒と不信をいだいていた。
しかし、ルーズベルトがハーバード大学の学生であったときに、留学していた元老松方正義の息子松方乙彦から、
日本帝国にアジア制覇の「百年計画」があることを聞かされて、敵愾心をもったという話を、
決定論的に重視してはならないであろう。
また伯父のデラノが広東貿易に従事していたことから、親中反日観を確定していたかのように解するのも短見であろう。
彼がいかに柔軟なプラグマティストであるかは、
日本が第一次大戦後ワシントン体制を支える姿勢を示したときの反応に表れている。
一九二三年七月号の『アジア』に寄稿したルーズベルトは、
「原〔敬〕首相が信頼を基盤とすることに合意し、
その跡を継いだ日本海軍提督の加藤〔友三郎〕首相は海軍力削減を文字通り実施している」と、
ワシントン会議における米英日協調体制下での軍縮の実現を「画期的」と評価した。
また中国問題をめぐる九ヵ国条約の成立を歓迎し、「門戸開放というアメリカの外交方針がワシントン会議によって成文化された今、
われわれは今度は中国市場が日本に重要なことに理解を示さねばならない。旧思考を捨て去る時である」と、
よどみなく日米協調時代を謳い上げたのである。
五百旗頭真 「日本の近代(6)」
P.119この本を入手
引用フーヴァーとローズヴェルトはいろいろな点で異なっていた。
フーヴァーは貧しいアイオワの農民の家に生まれた。
社会的地位も財産もなく、みずからの努力と勤勉によって、スタンフォード大学を卒業し、鉱山技師をふりだしに、
名声と富とをかちえた立志伝中の人である。
彼が「強固な個人主義者」として、個人の企業の自由を擁護し、民間企業に対する政府の干渉をあくまで排除しようとつとめるのは、
彼がアメリカが機会の国、自由の国であるという伝統に生きてきたからであった。
これに対して、ローズヴェルトはニューヨークの名家の出である。
子供のときから何一つ不自由なことはなく、社会的地位と富に恵まれていた。
しかし彼は自由主義者であり、社会変革をおそれぬ進歩的な考えの持ち主であった。
ニューヨーク州上院議員、ウイルソン大統領の下の海軍次官補、一九二〇年の選挙における民主党副大統領候補、
という順調な政治家としての経歴を重ねていた。
一九二一年小児麻痺におかされ、苦しい闘病生活を克服し、二八年にはニューヨーク州知事としてはなばなしく政界にカムバックした。
彼の選挙運動は全国民を驚かすに足る精力的なものであった。
遊説旅行は二万五千マイルに及び、ほとんどすべての州を訪れた。
コロンビア大学のモーレー教授をはじめ、多くのインテリからなるブレーン・トラストの助けをかりて、
彼は恐慌から生じている諸問題を鋭く分析し、その対策を明らかにしようとした。
ローズヴェルトは、けっしてアメリカの資本主義を改変しようとするものではなかった。
彼自身資本家だったからである。
しかし、彼の収入は、投資による配当ではなく、主として地代や銀行利子であった。
だから、産業の過大な競争は彼にとっては弊害と考えられたのである。
資本家としての彼は労働者を搾取しなかったし、国家の天然資源を浪費しなかったし、また、
株式の投機をやったこともなかった。
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」
P.104この本を入手
引用一九一〇年に二十九歳の若さで民主党から立候補、ニューヨーク州上院議員に当選し、革新派として、
民主党のボス政治機関(タマニーホール)と闘った。
ウッドロー・ウィルソンの大統領選に貢献し、海軍次官に任命された(一九一三~二〇)。
一九二〇年には民主党の副大統領候補に選出されたが落選、一九二一年八月に小児麻痺にかかり、下肢の自由を失った。
妻エレノアの助けを得て、療養生活の間も政治活動を続け、一九二九年にニューヨーク州知事に当選した。
同年十月二十九日の株の大暴落をきっかけに始まった大不況では、それまでの穏健な改革主義から転じ、
政府による積極的な救済策を打ち出し、ラジオを使って直接州民に語りかけた。
再選は圧倒的勝利だった。
余勢をかって一九三二年の民主党の大統領候補に指名された。
選挙では「アメリカ人民のためのニューディール」を訴えて、共和党の現職大統領ハーバート・フーヴァーを大差
(獲得選挙人数四七二対五九)で破った。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.144この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ルーズベルト」は「ローズベルト」「ルーズヴェルト」「ローズヴェルト」とも表記されることがあります。 「フランクリン・ルーズベルト」は「F・D・R」とも表記されることがあります。 http://www.c20.jp/
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