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「アメリカ大統領物語」
参考書籍
著者: 猿谷要(さるや・かなめ)他
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発行: 新書館(2002/04/05) 書籍: 単行本(201ページ) 定価: 1600円(税別) 補足情報:
本書はアメリカ歴代大統領の流れを追いながら、アメリカという立憲共和国の性格と、
これにかかわる世界の情勢をも明らかにしようとしたものである。(「まえがき」にかえて)
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引用国民の圧倒的支持を受け、自信に満ちたマッキンレーは、二期目に対して意欲的な抱負を持っていた。
前例にないキューバ、プエルトリコへの視察、トラスト問題への取り組み、高くなりすぎた関税問題の検討等である。
一九〇一年三月四日に就任、各地へ遊説旅行に出かけ、国民の義務、国家の目標、繁栄、アメリカの輝かしい未来について、
熱狂的な群衆に語り掛けた。
日頃から国民と親しく接することを誇りとしていたが、結局これが命取りとなってしまった。
ニューヨーク州バッファローで開催された汎アメリカ博覧会の開会式(九月六日)に出席後、
二人の護衛官に守られ公式のレセプションを催したが、歓迎の列に加わっていた無政府主義者のピストルで至近距離から撃たれ、
九月十四日息をひきとった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.101
引用眼鏡、口ひげ、大きな歯という特徴で誰からも愛され、
漫画の登場人物としても人気があったローズヴェルトは、そのエネルギー、熱血、活力、正義感などで知名度抜群であった。
しかし、後世の歴史家の評価は「偉大に近い大統領」(near great)に留まっている。
本人の自己評価によれば、第一にパナマ運河建設、第二に自然保護活動、第三に日露戦争調停を業績として挙げている。
名門出身、家庭教師による教育、ハーヴァード大学優等生、スポーツ万能、狩猟を好むこと、幅広い交友等々、
ヨーロッパ好みの東海岸上流アメリカ人の典型であった。
新聞、雑誌などを効果的に利用し、最初の「メディア大統領」と言われている。
精力的に外交、内政、及び世界政治の場で果たした役割は非常に大きく、多くの自然を開発から救って遺した功績も高い。
また、ローズヴェルトは、自動車(一九〇二年)、潜水艦(〇五年)、飛行機(一〇年/引退後)に乗った最初の大統領であった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.107
引用ウィルソンは、ヴァジニア州スタントンの長老派の牧師の家に生まれた。
母方の祖父も長老派の牧師だった。
家族はその後、ジョージア州オーガスタ、サウスカロライナ州コロンビア、ノースカロライナ州ウィルミントンに移り住み、
父は教会の牧師や神学校の教授をつとめた。
ウィルソンの正式の名前はトマス・ウッドローで、二十代初め頃まではトミーと呼ばれていた。
姉二人、弟一人の六人家族は親密で、とりわけウィルソンは敬虔な信仰と広い学識をもち南部を愛する父を尊敬し、
大きな影響を受けた。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.114
引用ハーディングは教員、保険の勧誘員、記者などを経験したあと、八四年に廃刊寸前の『マリオン・スター』紙を買い取り、
編集と経営に専念した。
九一年に結婚した五歳上のフローレンスには、若い時に別の男性と駆け落ちした時生まれた息子がいた。
温厚で気さくなハーディングは、新聞の仕事のかたわら地域の商工業や文化の推進にも積極的にかかわり、
人望を集めるようになった。
一八九九年にオハイオ州議会上院議員、一九〇三年に副知事になり、知事選の敗北後、一四年に連邦上院議員に選ばれた。
二〇年の共和党全国大会で、ハーディングを最初から大統領候補とみなしたのはオハイオ州の政治ボスたちくらいだったが、
有力候補者が対立しあうなかで、ハーディングが妥協の候補として浮上し、十回目の投票で指名を獲得した。
大統領選挙では民主党候補のジェームズ・コックスに圧勝した。
第一次世界大戦とウィルソン大統領の理想主義に疲れたアメリカ国民は、「平常への復帰」を唱える、平凡だが温厚で、
しかも大統領の風采を備えたハーディングに国の舵取りを託したのだった。
ハーディングの閣僚には、財務長官アンドルー・メロン、商務長官ハーバート・フーヴァー、
農務長官ヘンリ・ウォレス、国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズなど全国的に名の通った逸材がいた。 【中略】
他方ハーディングは、自分を大統領に担ぎ出した「オハイオ・ギャング」と呼ばれる旧知の政治家たちも政府の要職に任命した。
退役軍人局長チャールズ・フォーブスは、公金を流用し関連企業からリベートを受け取った。
ハリー・ドーハティが長官をつとめる司法省では、賄賂を渡すことで服役者の釈放や酒の密売がまかり通った。
一連の不正事件のなかでももっとも悪名高い「ティーポット・ドーム事件」では、内務長官アルバート・フォールが
ワイオミング州ティーポット・ドームとカリフォルニア州エルク・ヒルズにある海軍の油田を内務省に移管することをハーディングに認めさせ、
その後、油田を民間の石油業者に貸与して莫大な贈賄を受けた。海軍長官も連座した。
ハーディングが、自分の死後に明るみに出た一連の不祥事をどこまで知っていたかは定かではない。
しかし二三年の初めまでには、その一端に気づき始めていたらしい。
二三年六月、遊説と休養のため、妻や随行者とともにアラスカに向かった。
その後、サンフランシスコで心臓発作に見舞われ、八月二日に亡くなった。
死因が取り沙汰されたが、脳出血だった。
女性問題も取り沙汰されるようになった。
死後、ハーディングの愛人ナン・ブリットンはハーディングとの間に生まれた子どもがいると主張する手記を出版した。
また、友人の妻であるキャリー・フィリップスとの関係も生前から噂されていたが、
一九六三年、老人ホームで亡くなったフィリップスの遺品からハーディングの書いた恋文が数多く発見された。
ハーディング自身は不正行為を行うような人間ではなかったが、能力的にも、決断力に乏しい性格からしても
大統領の器ではなかった。
にもかかわらず大統領に選ばれ、最も腐敗した政権という汚名を歴史に残したことは、
ハーディングにとっても、アメリカにとっても悲劇だった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.120
引用アイオワ州の小さな町ウェスト・ブランチに生まれた。
両親は敬虔なクェーカー教徒だった。
父は鍛冶屋だったが、フーヴァーが六歳の時に亡くなり、母も九歳の時に病死した。
孤児になったフーヴァーは、親戚に引き取られ、家の手伝いやアルバイトをしながら高校を卒業した。
フーヴァーの夢は鉱山技師になることだった。
一八九一年、スタンフォード大学に一期生として入学し、働きながら勉学に励み、九五年に卒業した。
ネヴァダの金鉱で鉱夫として働いたあと、サンフランシスコの鉱山会社で才能を認められ、九七年にはイギリスの会社から
オーストラリアの鉱山調査を委託された。
九八年、大学時代の後輩ルー・ヘンリーと結婚した。
その後の十五年間は、世界各地の鉱山調査や開発を手がけ、鉱山技師としての名声と巨万の富を得た。
一九一四年、第一次世界大戦が勃発した時ロンドンにいたフーヴァーは、ヨーロッパに在留するアメリカ人を救済する活動の陣頭に立った。
その後、「ベルギー救済委員会」の委員長として、食料物資を届ける救済活動を指揮した。
アメリカが参戦した一七年には、ウィルソン大統領から国内の食料管理を統括する食糧庁長官に任命され、采配を振るった。
戦後もヨーロッパのアメリカ救済局総局長として活躍し、フーヴァーの名は、
人道的援助活動の推進者としてアメリカ国民に広く知られるようになった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.124
引用ニューヨーク州ハイド・パークのハドソン川を見下ろす広大な敷地で生まれた。
父はニューヨーク州の旧家のローズヴェルト一族に属し、資産家だった。
父が五十二歳のときに再婚した二十六歳年下も母も、ニューイングランドの旧家の出身だった。
一人っ子のローズヴェルトは両親に寵愛され、家庭教師から教育を受け、また一年のうち数ヵ月は両親とヨーロッパで暮らした。
十四歳の時にマサチューセッツ州のグロートン校に入学し、一九〇〇年ハーヴァード大学に進学した。
学生時代は勉強よりも社交や学生新聞の編集長の仕事に熱心だった。
一九〇四年、コロンビア大学ロースクールに入学し、
翌年、同じローズヴェルト一族で現職大統領セオドア・ローズヴェルトの姪にあたるエレノアと結婚した。
一九〇七年、ニューヨークの弁護士試験に合格し、ウォール街の法律事務所に就職したが、
大統領の叔父を崇拝するローズヴェルトは、法律よりも政治の世界に心をひかれた。
一九一〇年、ニューヨーク州ダッチェス郡の民主党指導者たちに推されて州議会上院議員に立候補した。
民主党には不利な選挙区だったが、若くハンサムなローズヴェルトは農村地帯をくまなく廻り、見事当選した。
一三年にはウィルソン政権の海軍次官に任命された。
私生活では、一八年、エレノアの秘書ルーシー・マーサーとの情事がエレノアの知るところとなったが、
ルーシーと二度と会わないことを約束し、離婚の危機を乗り越えた。
二〇年には民主党の副大統領候補に指名された。
選挙で民主党は惨敗したものの、まだ四十歳にならないローズヴェルトの前途は有望だった。
しかし二一年夏、ローズヴェルトは突然ポリオにかかり、下半身不随となってしまった。
一時は将来に絶望したが、持ち前の不屈の精神と妻エレノアらに支えられ、政界復帰をめざした。
一生自分の足で歩くことはできなかったが、カメラマンたちの協力もあり、多くのアメリカ人はそのことに気づかなかった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.128
引用一八八四年五月八日、ミズーリ州西部のインディペンデンス市の郊外ラマールの農家に生まれたトルーマンは、
若いときから大きな夢は抱いていなかった。
カリスマ的風貌でもなく、ひどい近眼で読書を通じて歴史を知ることが趣味であり、
唯一の希望はウエストポイント(陸軍士官学校)に入ることだった。
だが、視力が弱かったせいで落とされている。
カンザスシティ大学に入ったが、あまり行かなかったという。
第一次大戦時は砲兵中尉としてフランス戦線に従軍しているがとくに殊勲を上げたわけではない。
戦後、幼友達だったエリザベス・ヴァジニア・ウォレスと結婚、カンザスシティに移り住み、小間物屋を始めた。二人の間には一女。
その頃から国内政治に少しずつ関心を持ち、民主党内で政治運動を始めた。
まず一九二二年、ジャクソン郡の判事に選出され、地元の問題解決に当たった。
そして大恐慌後にはローズヴェルトのニューディール政策に共鳴し、三四年にミズーリ州の上院議員に選出された。
第二次大戦中は上院で軍部のスキャンダルを調査する委員となり、軍事費の無駄遣い、腐敗を摘発して、
一五〇億ドルの軍事費節約に貢献したといわれている。
四四年の大統領選挙の際には、すでに民主党内でかなりの影響力をもっていた。
副大統領になる気はなかったが、党内で副大統領候補の人選で対立が起こり、結局妥協候補として、
トルーマンが選ばれたのだった。
だから戦時中の副大統領とはいえ、国際問題にはほとんどタッチしなかった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.136
引用一八九〇年十月十四日、テキサス州デニソンの農場で、戦争と暴力を極端に拒否する敬虔なキリスト教復興主義者の一派「河川兄弟団」の一家に生まれる。
しばしば職業軍人は戦争を嫌う傾向があるといわれる。
アイゼンハワーの場合は職業軍人として異例の活躍をしたわけだが、生まれの宗派の影響で終生戦争嫌いであったことは有名である。
高校時代から「アイク」という愛称で親しまれ、一九一五年ウエストポイント(陸軍士官学校)を卒業、
若手の将校の頃、後年米国人全体から「マミー」の愛称で親しまれた、デンバーの富豪の令嬢メアリ・ジェネヴァ・ダウドと結婚、
二人の間に男子二人をもうけている。
士官学校卒業後、戦車隊の創設などで注目されてはいたが、第一次世界大戦では従軍の機会は与えられなかった。
彼は若手の参謀として作戦能力や企画力は評価されたが、パットン将軍やダグラス・マッカーサー元帥が表舞台で活躍するとき、
いつも日の当たらぬ場所にいた。
パナマやフィリピン勤務で三八年四十八歳になってもまだ中尉で、一時は退役を考えたという。
彼にチャンスが与えられたのは、第二次大戦。
参謀将校として慎重な作戦と緻密な兵站の必要性を説き、鋭い政治的感覚と思い切った決断で頭角を現した。
彼の能力をいち早く見抜いたのはジョージ・マーシャル将軍(後の国務長官)で、彼を陸軍参謀本部に引き抜いた。
四二年夏、米軍を率いて英国へ。
さらに北アフリカ、イタリア戦線で活躍した。
その間、四三年一月、欧州戦線の実情報告のためカサブランカへ飛び、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相に会っている。
その後、米陸軍では最高の名誉あるフォー・スター・ジェネラル(元帥)に昇進した。
なんといっても彼が名声を博したのは、
四四年六月六日(Dデイ)連合軍最高司令官としてナチス・ドイツに蹂躙されている欧州戦線で挽回すべく敢行したノルマンディー上陸作戦の大成功である。
その時アイゼンハワーが指揮した連合軍の上陸兵力は十六万、援護に当たった艦艇五千隻、空軍七千機。
二年がかりで立てたこの計画は空前の規模であり、これをきっかけに連合軍の反撃は本格的となり、
ナチス・ドイツの敗北をもたらした。
ドイツは十一ヵ月後無条件降伏して欧州戦線は収束する。
この作戦を立てたのはローズヴェルトとチャーチルといわれているが、
実は上記のアイゼンハワーの両首脳に対するカサブランカ報告が大きく評価されたのだった。
こうして第二次大戦で大勝をおさめた連合国軍の最高の英雄はアイゼンハワー将軍となった。
【中略】
四八年に退役したが、すぐに要請され受諾したのはコロンビア大学総長。
だが教育者として新しい道を開こうとしたのもつかの間、ソ連との軍事対決が焦眉の急となり、
四九年に西側の集団安全保障機構として誕生した北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官に迎え入れられた。
これまた落ち着かぬうちに、五二年の大統領選挙で共和党から同党候補に指名された。
同党はパリ近郊にあるNATO司令部に使節団を送り、大統領候補指名を受け入れるよう、アイゼンハワーを説き伏せたのだった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.142
引用JFKについて触れるには、どうしてもケネディ一家からはじめなければならない。
一八四〇年代、故郷アイルランドが深刻な飢餓に襲われ一家は新天地米国に移住、
ボストンの貧民街に居を定めた。
祖父がはじめたのは酒場の主人だったが、懸命に働いたお陰で財産を作り、父親のジョセフ・パトリックはハーヴァード大学を卒業後、
二十五歳にして銀行の頭取となり、実業家として大成功をおさめボストン市長の娘と結婚した。
ジョンは一九一七年九人兄弟姉妹の二番目に生まれた。
次々豪華な邸宅へ変わり、ついにニューヨークに移住、優雅な子供時代を送っている。
父親の希望は有能な長男のジョゼフ二世が米国を背負う指導者になってくれることだった。
だが早世(戦死)したため、その期待は、JFK、つまりジョンに移った。
WASP(白人でアングロサクソンでプロテスタント)が政治を動かしているこの国で、
アイルランド系カトリック教徒であるという経歴は大統領になることは不可能に近いタブーに挑戦することだった。
父親はその後駐英大使となった。
ケネディは、ハーヴァード大学在学中の一九三〇年代後半に、二回ヨーロッパを旅行、緊張する国際情勢を垣間見、
とくにロンドンでは父親のいる米大使館に滞在し、出入りする外国の政治家や外交官を通じて国際政治そのものを実地で見聞した。
この頃から父親はやがてジョンが大統領になることを期待していた。
ハーヴァード大に戻ったジョンは、ヒトラーの横暴を認めてしまった三八年の「ミュンヘンの譲歩」に注目、
英国外交を徹底的に分析、学位論文のテーマに「英国はなぜ眠っていたか」を選んだ。
この論文は歴史の研究家ばかりでなく政治家にも高く評価され、後刻、単行本になっている。
四〇年ハーヴァード大を卒業、海軍を志願、太平洋戦線で魚雷艇の艇長として活躍した。
四三年、彼の魚雷艇が日本軍の駆逐艦に沈められ、以前から持病を抱えていた背中にさらに重傷を負ったにもかかわらず、
生存していた部下を無事に救出、海軍と海兵隊から勲章をもらったことは有名な話である。
戦後は父親の希望でもある政界に入ることを決意、民主党からまず四六年にボストン選出の下院議員を三期つとめ、
ついで五二年には上院議員となり二期つとめた。
翌五三年、ジャクリーン・ブーヴィエと結婚、二人の間に息子二人と娘一人をもうけている。
ケネディは背中の持病に悩まされ、再三入退院を繰り返していたが、「大統領への道」は諦めなかった。
静養中も「その日」に備え、八人の上院議員の政治的な勇気ある行動を分析し、
『勇気ある人々の横顔』を五六年書き上げて、ピューリッツアー賞(伝記部門)を受賞した。
時の民主党大統領トルーマンの社会正義を柱にした「フェアディール」政策には内政面で協力。
外交面では共産主義陣営を封じ込める「トルーマン・ドクトリン」に共鳴しながら、中国の共産化を阻止できなかったことを厳しく批判した。
あらゆる問題に確信のある評価を下し旗幟を鮮明にしたので彼は「現実的理想主義者」と高く評された。
豊富な財産を活用して絶えずケネディ家の結束を図り、また民主党組織内でも一段低くみられていたアイルランド系移民との連帯に気を遣い、
都会の大衆、個人的な選挙組織を基盤として、同時にエリート意識をむきだしにしていた。
このような政治姿勢は、若者やリベラル派をつかむ効果があったが、
同時に従来の民主党の保守本流の中に多くの「敵」をつくったのも事実である。
こうして「大統領への道」を着実に歩んでいたケネディは、六〇年の大統領選挙で民主党候補として立候補した。
党内での主たる競争相手はベテランのハンフリーとジョンソン、それにリベラル派のスティヴンソンだったが、
若さと理想色で三者を破った。
本番の大統領選挙での相手は共和党のニクソン、それ以上にしたたかな政治家である。
ケネディは「大統領には若すぎる」「未熟である」などの批判を受けたが、そうした批判を逆用した。
当時ケネディにとり最大の味方は米国民に定着してきたテレビである。
国民の前で直接討論する「テレビ討論」がはじめて登場したのだ。
視聴者を前に若さと歯切れの良い理想主義的な論理を展開し、ケネディは若者と女性の有権者の心をつかんだ。
かくて米国に初のローマ・カトリック教徒で、史上最年少の大統領が誕生した。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.146
ケネディ暗殺
引用六三年秋、米国ばかりか世界を震撼させる事件が起こった。
ケネディ大統領はジャクリーン夫人とともにテキサス州をオープンカーで遊説旅行中、
十一月二十二日午後零時三十分、ダラスの路上で数発の銃弾により射殺されたのだった。
死亡二時間後、ジョンソン副大統領が後任大統領に就任した。
遺体は首都ワシントンのアーリントン墓地に埋葬させている。
暗殺当日、警察は二十四歳の元海兵隊員リー・オズワルドを暗殺犯として逮捕したが、二日後、
オズワルドはダラス警察署の地下室で、土地のナイトクラブの主人ジャック・ルビーに射殺されてしまった。
ルビーもまもなく死んでいる。
ジョンソン大統領はアール・ウォーレン連邦最高裁長官を委員長とする調査委員会を任命、綿密な調査を行った。
そして報告書を作成。
六四年九月二十七日その中身が公表されたが、オズワルドの単独犯行と断定され、
オズワルドかジャック・ルビーの絡んだ陰謀による犯行という噂には「根拠がない」と否定された。
その後、一九七九年下院暗殺委員会が二年がかりで再調査したが、
結論は「オズワルドは組織犯罪グループのからんでいる謀略の関係者かも知れない」となっていた。
いずれにしても、いまだあまりにも謎だらけの暗殺事件である。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.150
引用リンドン・B・ジョンソン(愛称LBJ)は一九〇八年八月二十七日、テキサス州中部ジョンソンシティの郊外ストーンウォールで生まれた。
祖先が移住時に町作りに貢献したのでその名前が町に残っている。
政治好きの一家出身だった。
繁栄から恐慌へと大きく変化した一九三〇年代初頭、貧困問題に関心をもつジョンソンは南西テキサス州立教育大学を卒業、
ニューディール政策に共鳴、ローズヴェルト派の民主党員として政界入りした。
三七年に連邦下院補選に出馬して当選、四八年に上院に転じて、五三年には上院史上もっとも若い民主党院内総務に。
上下両院議員時代を通じてローズヴェルトなど政界の大物に積極的に近付き、議会内に広範な人脈をつくり議会工作で活躍。
ニューディール支持でリベラル派を演じ、同時に南部保守系民主党員との結び付きを固めた。
彼の議会工作で可決した法案の数は記録的といわれ、
共和党のアイゼンハワー政権の主要な政策の実現にも貢献している。
「カウボーイハットのマキャベリ」と評される所以である。
三四年クラウディア・テイラー(愛称レディバード)と結婚、二女の父親となる。
第二次大戦中は海軍少佐として南太平洋で活躍、銀星章を受賞している。
一九六〇年の大統領選挙戦では、民主党大統領候補に出馬、若手の本命で、リベラル派のケネディと激しく争い敗れた。
しかし南部民主党の保守票がほしいケネディはあえて副大統領候補にジョンソンを選んだ。
直前までかなり醜い個人的な論戦を演じた相手だが、意外にもジョンソンはその要請をのみ、
結局ケネディ・ジョンソン・コンビの政権が誕生した。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.152
引用一九一三年一月九日、カリフォルニア州ヨルバ・リンダのクェーカー教徒の家に生まれたニクソンは
若いときから父親の経営するガソリンスタンドで働きながら学校へ行った。
成績優秀で、東部のアイビー・リーグの大学から入学の勧誘があったほどだ。
しかし両親の不和、家庭の生活状況から地元を離れることができず、ウィッティ大学を選び、
さらにデューク大学院に進み法律を学び優等生に選ばれた。
が、卒業後「家柄のせいで」東部の著名な法律事務所への就職はことごとく断られた。
はじめての挫折感は大きく、郷里に戻り、学校の先生をしていたパット・ライアンと結婚、
第二次大戦では海軍士官として従軍、終戦後、政治家として「東部」を見返してやろうという政治的野望に燃えた。
四六年カリフォルニア州から下院議員に当選、思想的には本来穏健な愛国主義者で、共産主義についてなにも知らなかったが、
ナチス・ドイツのシンパを糾弾するため設けられていた下院非米活動委員会を「赤狩り」に利用、
その委員となり、後の反共マッカーシズムの口火をきって「赤狩り」の先頭に立った。
「赤狩り」の槍玉にあげられた典型は、ニューディール派の元国務省高官アルジャー・ヒス。
彼のもっとも憎んでいたアイビー・リーグ卒の東部支配層の家柄であったからだ。
反共ムードの蔓延していた当時の米国ではヒスを偽証罪で告発して糾弾するとともに、ニクソンの人気は上昇した。
こうして共和党右派の支持を得て、五〇年には上院議員、
五二年の大統領選挙ではアイゼンハワー政権の副大統領として弱冠三十九歳でホワイトハウス入りした。
副大統領を二期務めたあと、六〇年の大統領選挙で共和党候補に選ばれたが、
民主党の若手リベラル派ケネディ候補に惜敗した。
この時の「ケネディ贔屓」、とくにテレビ討論での敗北のショックは大きく、
徹底したマスコミ嫌いになった。
しかし挫折から立ち直ったニクソンは六二年カリフォルニア州知事選に出たがまたも敗北した。
この時、記者団からさんざん批判され怒りを爆発させたニクソンは「二度と記者会見はしません」と口走った。
国民はこれで彼の政治生命は終わったと思った。
かれ自身、その挫折の連続を『六つの危機』(六二年)と題する著作に書き上げ、
東部のジャーナリスト批判をぶちあげたところ、意外にもこれがベストセラーになった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.156
ウォーターゲート事件
引用ニクソンはこの再選で思うままの政策をすすめられるはずだった。
ところが、この大統領選挙の運動で思わぬボロをだしてしまった。
世論調査でも早くから「ニクソン再選確実」だったにもかかわらず、マスコミ不信がこうじて余計な工作をしたのが裏目に出た。
大統領再選委員会は、民主党が最後に思わぬ手に出て逆転劇を演じるのではないかとおそれて、
ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会本部に盗聴器を仕掛けようとしたのだ。
のちにこのことが発覚、芋づる式に共和党の組織的な工作であったことが明らかになり、
ニクソンは窮地に追いつめられた。
ニクソンは、自分は関係していないとの態度をとっていたが、
閣僚や側近を次々に入れ替え、説明もつじつまが合わず、最後にはホワイトハウスの執務室にもテープが仕掛けられていたことが分かり、
最高裁からテープの提出を求められた。
出てきたテープは空白だらけで明らかに隠蔽工作が行われていたこと、
またそこに現れているニクソンの発言が大統領の言葉とは思えないほど汚いものであることが分かり、
国民の不信感は一挙に増大した。
下院司法委員会が大統領弾劾決議案を可決するに及んで、ニクソンは七四年八月八日、事件の隠蔽工作に関係していたとの特別声明を発表、
翌九日自発的に大統領を辞任した。
ニクソンは米国史上、在任中にみずからの意志で辞任した初の大統領である。
ニクソン政権下の副大統領S・アグニューは、ウォーターゲート事件の最中、まったく別の汚職事件で辞任。
後任にジェラルド・フォード下院議員が選ばれていたので、自動的にフォード大統領が誕生した。
【中略】
ウォーターゲート事件を客観的にみると、ニクソンはこの工作を通じて、
汚職などによる次元の低い利益を特別に得たわけではない。
自分以外の人間を信用することができず、絶えず被害妄想に襲われていた。
若いときに受けた「東部」からの侮辱のトラウマが最後まで災いし、悲劇の大統領に終わったのではなかろうか。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.158
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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