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「アメリカ史重要人物101」
参考書籍
著者: 猿谷要(さるや・かなめ)他
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発行: 新書館(2001/08/05) 書籍: 単行本(252ページ) 定価: 1600円(税別) 補足情報:
一つの国として、これだけ短い歳月のなかで、これだけ激しい変化をとげた例は珍しい。
しかもその国は、世界中から集まった人びとによって成り立った、いわば壮大な人類の実験場といってもいいような特色をもっている。
それならば、一体どんな人たちがそこに生きて、それぞれの時代を築き上げたのだろうか。
またどんな人たちが、その時代の要請に応えて仕事をしたのだろうか。
そういう興味が湧いてくるのは当然のことだろう。
この本はそういう人びとに焦点をあて、人物を通してアメリカという国を多面化し、立体化して眺めようとしたものである。
(「まえがき」にかえて)
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トーマス・エジソン
引用エディソンはオハイオ州ミランで生まれた。
父は材木商、母はカナダの牧師の娘で、教師もしたことのある教養深い女性であった。
信念のために努力する不屈の精神を祖先から、企業心や仕事への意欲・才能を父から受け継ぎ、
好奇心と探究心あふれる子どもであった。
病気で遅れて八歳を過ぎて小学校に入学するが、並外れた才能は学校教育にあわず、三ヵ月で退学。
その後母の指導で、いわゆる英才教育を受ける。
歴史、科学、文学等の難しい書物を読破し、独学で実験に凝った。
数学を苦手とし、ニュートンの『プリンキピア』にはてこずったという。
社会で働くことの大切さも学んだエディソンは、好きな実験の費用を稼ぐため、早朝から夜まで働き、
あき時間にデトロイトの図書館で勉強し、列車内のスペースで実験をする勤勉さであった。
実験に励む一方、新聞やキャンディも売ってうもける商売の両立は、後の実生活に密着した発明と事業化という人生哲学をよく物語っている。
十五歳の時「週間ヘラルド紙」を車内で印刷し、各駅にあらかじめ電信技師に頼んでニュースの内容を打電して宣伝していたため、
すぐに売り切れた。
ニュースの内容と表現の明確さ、宣伝効果の利用が評価される。
当時電信が実用化され、幸運にも電信技術を習得する機会を得、その後各地を遍歴してさらに技術を磨き、
アメリカ一のスピード技師と言われるようになった。
ボストンのウェスタン・ユニオンで電信技師をしている頃、便利な機器を作り発明の才を認められていた。
生涯に得た千以上にも及び特許の第一号を申請したのはこの時期で、弱冠二十一歳であった。
それは投票記録機で、議会の投票の際に時間を短縮でき、記録もできるものであった。
特許取得後ワシントンに売り込みに出かけたが、当時の議会には受け入れられなかった。
しかしこの失敗により、発明とは人々が利用するものでなければならないという教訓を学び、この姿勢を終生貫いた。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.90
引用合衆国官吏制度改革委員(一八八九~九五)、ニューヨーク市警察長官(一八九五~九七)、海軍次官(一八九七~九八)を歴任、
キューバ問題では主戦論を展開し、スペインとの米西戦争(一八九八)が勃発すると、
いち早く荒馬騎兵隊と称する義勇兵部隊を率いてキューバで戦い、「テディー」は国民的英雄となった。
同年ニューヨーク州知事選に当選したが、共和党の保守派からその人気と革新的な政治姿勢が敬遠されて、
一九〇〇年に副大統領候補に祭り上げられた。
一九〇一年九月十四日、マッキンレー大統領の暗殺によって四十二歳の若さで大統領に就任、
一九〇四年に再選された。
闘争的な政治姿勢で、上からの秩序ある社会改革の実現を図った。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.122
引用一九〇八年に、二十世紀の生活様式をいっぺんさせるほどの男が登場する。
それが、この年にT型フォード車を開発したヘンリー・フォードである。
ミシガン州の農村に生まれた彼は、少年の頃から機械にとりつかれ、十六歳でデトロイトの機械工場へ見習いとして採用され、
やがてエジソン電気会社の技師となった。
しかしすぐにやめて、新しいエンジンの開発に取り組み、一八九六年には自分の家にガレージを建て、その中で最初の自動車を完成させた。
二十世紀へ入って、彼は本格的な活動を開始する。
一九〇三年にはミシガン州ランシングにフォード・モーター会社を創立、試作に試作を重ねた後、
歴史に残るT型フォード車の開発に成功した。
もちろんそれまでにも自動車は僅かに走っていたが、実用的なものではなく、富裕層だけが持てる玩具のようなもので、
それをフォードが一変させたのである。
一九一三年にはベルトコンベア方式の大量生産を実現させ、これはフォードの考えが社会的に受け入れられる決定打となった。
彼は自動車を製造している労働者が、その自動車を買えるようになることを目標としていたのだ。
T型フォード車を開発した一九〇八年に会社は一万六百七台を作り、一台八五〇ドルで販売したが、
一九一六年には年間七三万台を越える生産台数となり、価格も三六〇ドルにまで安くなった。
さらに二四年には二九〇ドルという低価格を実現させている。
二七年までにT型フォード車は、合計なんと千五百万台以上を生産したという。
一家に一台という普及ぶりで、アメリカがこの時代に、世界に先がけて大衆消費社会を実現させたといっていいだろう。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.124
引用念願の政界への道は、一九一〇年のニュージャージー州知事(民主党)から始まった。
二年間の在任中に多くの改革を実行し、革新知事として名声をあげていた。
一九一二年の大統領選挙は、共和党のウィリアム・タフトと革新党を組織したシオドア・ローズヴェルト、民主党のウィルソンで争われ、
「新しい自由」の構想をかかげたウィルソンの勝利に終った。
共和党の分裂が勝因とも言われるが、強力な政府の出現に危惧をいだいた国民の「建国の理想に還る」政治の革新に期待したためであろう。
第二十八代大統領としての第一期は、政治理念を次々と実現させた。
主なものは、関税引き上げ、連邦準備制の確立、低利・長期の農民金融の発足、連邦通商委員会の新設による公正取引の保証、
クレイトン反トラスト法の制定、二つの憲法修正による禁酒と婦人参政権(再選後)の実現等である。
第二期目は第一次世界大戦勃発に伴い、主に外交問題と取り組んだ。
ウィルソンの外交理念は「宣教師外交」とも呼ばれ、人類のために民主主義を広めるという理念を持っていた。
大戦に対しては早々に中立を宣言したが、アメリカへの影響も無視できなくなり、
「アメリカを戦争から護る」ことをスローガンに掲げて再選された。
講和のために積極的に尽力したが、交戦国の反応はあまり無く、ドイツの無制限潜水艦戦の宣言により、
非武装のアメリカ商船の無警告撃沈に伴い高まる世論を無視できず、遂に一九一七年四月対独宣戦布告を議決した。
一九一八年にはウィルソンの理想主義、国際協調主義が表現されている、世界の目指す平和の構想を示した「十四ヵ条」を発表し、
平和達成のために正しい講和への足場を築こうとした。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.126
引用一九一〇年に二十九歳の若さで民主党から立候補、ニューヨーク州上院議員に当選し、革新派として、
民主党のボス政治機関(タマニーホール)と闘った。
ウッドロー・ウィルソンの大統領選に貢献し、海軍次官に任命された(一九一三~二〇)。
一九二〇年には民主党の副大統領候補に選出されたが落選、一九二一年八月に小児麻痺にかかり、下肢の自由を失った。
妻エレノアの助けを得て、療養生活の間も政治活動を続け、一九二九年にニューヨーク州知事に当選した。
同年十月二十九日の株の大暴落をきっかけに始まった大不況では、それまでの穏健な改革主義から転じ、
政府による積極的な救済策を打ち出し、ラジオを使って直接州民に語りかけた。
再選は圧倒的勝利だった。
余勢をかって一九三二年の民主党の大統領候補に指名された。
選挙では「アメリカ人民のためのニューディール」を訴えて、共和党の現職大統領ハーバート・フーヴァーを大差
(獲得選挙人数四七二対五九)で破った。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.144
引用第一次大戦では現地指揮官として数々の戦功を重ね、一九年、三十九歳の若さで陸軍士官学校校長、
三〇年、ハーバート・フーヴァー大統領によって史上最年少の五十歳で陸軍参謀総長(これは父親が自ら念願しながら果たせなかったポストである)
に任命されるなど、目覚しい昇進をとげた。
当時フランクリン・ローズヴェルトが「マッカーサーほど魅力と伝説と堂々たる風貌に恵まれた男はほかにいない」と評しながら
警戒していることが注目される。
三五年、マッカーサーは新設の軍事顧問(正規の在比米軍とは別)として四度目のフィリピン勤務に臨むが、
これ以後、三七年に一時帰国しただけで、五一年までアメリカ本土に帰っていない。
この軍事顧問時代に彼は退役しており、そのまま軍歴を終えるはずであった。
しかし日本軍の南進で日米関係が危機に瀕するや、一九四一年七月、彼は現役に復帰し、
米極東陸軍司令官として対日戦を指揮することとなる。
太平洋戦争初期、バターンとコレヒドールで日本軍の猛攻を受け、本国の決定で四二年三月オーストリアに撤退する屈辱を味わうが、
その後ニューギニアから島伝いに北上する対日反攻を展開、
四四年十月のレイテ島上陸で「アイ・シャル・リターン」という撤退時の有名な公約を果たした。
戦時の熱狂のなか、マッカーサーは栄光ある英雄に相違なかった。
四四年末、五つ星の元帥に昇進、日本の敗戦に際しては米太平洋陸軍総司令官と連合国最高司令官を兼任する。
かくして四五年八月三十日、征服者として日本に進駐し、ワシントンの指令に基づき、
公職追放、憲法改正、戦犯裁判、財閥解体、農地改革、教育改革ほか多岐にわたる占領政策を実施していく。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.172
引用一九三六年、地方検事選挙で民主党候補として出馬したが落選。
一九三九年、巡回裁判所判事の選挙に出馬、支持を求めて地域を精力的に回ったが、
対立候補の年齢や資産を実際よりも多く歪曲して攻撃するなどして当選を果たした。
野心的、活動的で人心をつかむ才に長けていながら、誠実さには欠如しているマッカーシーの姿がすでにあった。
第二次世界大戦が始まると、マッカーシーは海兵隊に入隊、一九四四年、海兵隊在籍のまま、
共和党から上院議員に立候補したが落選。
一九四六年、再び上院に立候補し、自らの「戦功」を強調するなど激しい選挙戦の末に当選した。
上院議員としてのマッカーシーは凡庸で、一九五〇年に至るまで、二年後の再選につながる程の業績はなかった。
一九五〇年二月九日ウェストヴァジニア州ホイーリングにおいて、マッカーシーは、国務省で働いている共産党員二〇五名の名簿を入手したと発言し、
一躍世間の注目を浴びることになった。
二月二十日、マッカーシーは、上院においても、この発言を繰り返した。
彼の挙げた証拠は不確かで人数も曖昧であり、国務省内の共産党員の存在を証明するに足るものではなかった。
しかし、アルジャー・ヒスのスパイ容疑、中国の共産主義化、ソ連の原爆保有、さらには、朝鮮戦争の勃発へと続いていく内外の一連の出来事で、
人々はアメリカの未来についての不安や疑念をかきたてられていた時であった。
これ以降、マッカーシーは、無任所大使フィリップ・C・ジェサップ、中国研究家でジョンズ・ホプキンズ大学教授オーウェン・ラティモアなどを、
共産主義者、ソ連側スパイとして次々に名指ししてセンセーションを巻き起こした。
一九五一年にはマッカーシーの批判の鉾先はジョージ・C・マーシャル前国務長官にまで及んだ。
一九五二年の共和党全国大会やアイゼンハワーの大統領戦でも、マッカーシーは、共産主義に対して弱腰であると民主党批判を展開した。
自分の再選後も、政府機能審査小委員会の議長として、国務省の海外情報活動などを調査するなど、
共産主義者による非米活動の摘発、批判を続けた。
アイゼンハワー大統領によるチャールズ・ボーレンソ連大使任命にも異議を唱えた。
ついにマッカーシーの批判が、軍隊内に向けられるに及んで、
一九五四年、マッカーシーと陸軍との間で三十六日にわたって公聴会が行なわれることになった。
この模様はテレビで放映され、数百万の人たちが見守った。
マッカーシーと弁護士ロイ・コーンの虚偽と中傷に基づく軍隊批判は人々の反感を招き、マッカーシーの影響力は失われた。
十二月、上院議会はマッカーシーに対し譴責決議を下した。
三年後、一九五七年五月二日、失意のうちに世を去った。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.174
ウォルト・ディズニー
引用長男と次男が父親に反抗して家出してしまい、一家はカンザスシティに移って今度は新聞販売店を始めた。
配達の仕事が嫌ですぐ上の兄ロイも家を出たので、四男のウォルトは朝夕新聞配達をして家計を助けながら、
通信教育や町の美術学校の絵画教室で好きな漫画の勉強を続けた。
一九一七年にシカゴのマッキンレー高校に入学し、校内紙に漫画を掲載するようになり、
シカゴ美術学院の夜間クラスにも通って新聞漫画家に才能を認められた。
第一次大戦には赤十字のトラック運転手として参戦、戦後になってようやく広告会社のデザイナーになった。
ディズニーがアニメーション映画を作りはじめたのは一九二三年で、その頃はまだ未開拓の分野だった。
一九二八年に当時の最新技術だったトーキーを使い、絵の動きと音とをシンクロさせた最初のアニメーション映画『蒸気船ウィリー』を発表した。
彼の生んだキャラクター、ミッキー・マウスが大変な人気者になり、新聞や雑誌にも進出した。
ドナルド・ダックやプルートなど、いまもディズニー・グッズやビデオで親しまれているキャラクターが、
このころ続々と生まれたのである。
映画のカラー化が可能になると、彼は早くも一九三二年に世界初のテクニカラー・アニメーション『花と木』を制作し、
一九三七年には当時の常識を破って長編アニメーション『白雪姫』を完成した。
その後もステレオ音響による『ファンタジア』、立体映画『メロディ』、シネマスコープ『プカドン交響曲』と、
常に前作の収益を投じて最新の映画技術に挑戦した。
彼の完璧主義はしばしば事業を賭に曝したが、共同経営者であった兄のロイに助けられ、合計二十九のアカデミー賞に輝いた。
一九五〇年代になると、彼の夢はフィルムの中だけには納まりきらなくなった。
現実とは遮断され、しかも実際に脚を踏み入れることができるファンタジーの世界をこの地上に出現させるという、
破天荒な計画に夢中になったのである。
この時はさすがのロイも危険が大きすぎると判断し、断固反対した。
しかしウォルトは私産のすべてを注いで別会社を設立し、計画を進めた。
資金は足りるはずがなかった。
彼は発展期を迎えたテレビに注目し、三大ネットワークの一つABCと、遊園地計画への出資を交換条件に番組制作契約を結んだ。
こうして一九五五年、ロサンゼルス郊外に夢の王国ディズニーランドが完成し、ABCには同名のシリーズ番組が誕生した。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.182
引用第二次大戦が始まってパリがドイツ軍に占領されると、彼は『イギリスはなぜ眠ったか』を出版し、
ベストセラーとなってその名を知られるようになった。
戦争中は海軍に入隊し、魚雷艇の艇長として南太平洋で日本軍と戦って負傷する。
この傷は脊髄疾患となって後まで彼を苦しめることになった。
戦後は父や家族の積極的な支援を受けて一九四七年に連邦下院議員となり、三期六年間つとめた後、
五二年にはマサチューセッツ州選出の連邦上院議員に挑戦する。
ケネディ家あげての選挙戦によって辛うじて当選し、任期六年の上院議員としてまず教育福祉委員会に加わり、
同州のとくに労働者階級の福祉のために働いた。
その後脊髄疾患の悪化で数ヵ月も入院しなければならなくなり、普通ならば政治生命にもかかわるところを、
ジョンはこの期間に『勇気ある人びと』を書き上げて、なんと伝記部門のピュリッツァー賞を受けたのだった。
ジョンの関心は、身近な州内の問題から全米の問題へと広がるが、やがて外交問題に目を転じ、
上院外交委員会の一員として活躍するようになった。
彼は早くから一九六〇年の大統領選挙を意識していた。
五八年に上院に再選されると、すぐに目標をその点にしぼり、長期的な選挙戦を展開し、
六〇年七月の民主党全国大会では第一回の投票で大統領候補に選ばれた。
対する共和党の候補となったのは、現職の副大統領でまだ四十七歳のニクソンだった。
初めてテレビ討論が行われて話題になったこの選挙戦で、
一般投票では僅か〇・二パーセントの差(選挙人団の票は三〇三対二一九)でジョンは勝利を収めたのである。
そのとき共和党のアイゼンハワー大統領は七十歳になっていたから、
ちょうど親から子へバトンが渡されたほどの、若いイメージがアメリカ全体を包んだ。
一九六一年一月の就任演説でこの新しい大統領は、「諸君のために祖国が何をしてくれるかを問うのではなく、
諸君こそ祖国のために何ができるかを問う」ようによびかけたのは、
多くのアメリカ人を奮い立たせることになった。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.186
引用一九五四年、アメリカ連邦最高裁判所が、
公立学校における法律による白人と黒人の人種分離教育を憲法違反とする画期的な「ブラウン判決」(Brown Decision)をくだしたその同じ年、
キングはアラバマ州都モントゴメリー(Montgomery)にある黒人教会、
「デックスター通りバプティスト教会」(Dexter Avenue Baptist Church)で、牧師としての生活を開始する。
一九五五年十二年、モントゴメリー市営バスにおける人種分離制度の撤廃をめざして、
同市の黒人が大規模なボイコット運動(Montgomery Bus Boycott)を展開するようになると、
牧師生活二年目を迎えていたキングは、その運動の指揮をとるようになる。
約一年にもわたるバス・ボイコット運動を率いたキングは、当時弱冠二十六歳の若さであったが、
この事件をきっかけとして、彼は南部の無名の一黒人牧師から、全国的な知名度を持った黒人公民権運動指導者への階段をのぼり始めることとなる。
このボイコット運動は、キングがその後の公民権運動を推進するにあたりそのエッセンスとすることとなる、
「非暴力・直接行動」(Nonviolent Direct Action=草の根の黒人大衆による運動への参加を呼び掛けるという意味における「直接」行動)の考えを貫いた、
最初のケースとなった。
一九五九年、故郷アトランタへ戻ったキングは、「南部キリスト教指導者会議」(Southern Christian Leadership Conference、略してSCLC)を結成し、
後に「五大公民権運動団体」と呼ばれるようになる諸団体の一つとなるこの「指導者会議」の議長を務めた。
公民権運動指導者としてのわずか十二年の間に、キングは多くの著作、説教、そして演説を残している。
その中でも、一九六三年八月二十八日に十七万人の黒人と三万人の白人参加者を集めて首都ワシントンで行われた「ワシントン大行進」
(March on Washington)でのキングによる基調演説は、おそらく最も有名なものの一つであろう。
「私には夢がある」(“I Have a Dream”)と題されたこの演説において彼は、いつの日かすべてのアメリカ人が肌の色ではなく、
人格によって判断される時が来ることを夢見、信じたのである。
猿谷要 「アメリカ史重要人物101」
P.198
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