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インパール作戦開始
1944/03/08
taro's トーク
源義経は軍事の天才である。中でもひよどり越えは、天才がおのれの天才性を天下に示した歴史的飛越である。
そんなものは凡人のためのお手本にはならない。
ところが陸軍に、自ら企図する作戦をひよどり越えになぞらえた者がある。
彼は自分を義経だけでなく、ジンギスカンにも重ねあわせた。
良識ある人々の反対を押し切って行われたその作戦は、ただ累々たる屍の山を築いた。
いや屍の道、というべきか。
日本兵の逃げ帰ってくる道沿いに、延々と屍が続き、それは「白骨街道」と呼ばれた。
愚行は戦後も続いた。
彼は、自らを正当化し、責任を一人の旧部下に押しつけるということを組織的に行なった。
いわば歴史の改竄である。彼の名は牟田口廉也。taroが知る日本史上最も醜悪な人物の一人である。
引用牟田口は、第一八師団長当時、
作戦地域の困難を指摘して二一号作戦に反対した。
しかし彼が第一五軍司令官に就任したとき、彼の判断は一八〇度の転換をとげていた。
すなわち、連合軍の三正面からの総反抗準備が進んでいるとの情報を得、
ウィンゲート旅団の挺進作戦を見た彼は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、
攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのである。
彼の判断によれば、ウィンゲート旅団の行動からしてジビュー山系に設定した現在の防衛第一線ではもはや安全ではないので、
これをチンドウィン河の線まで推進する必要があるが、
チンドウィン河ですら乾季には敵の進攻に対する障害とはなりえず、かつ防衛正面も広くなるので、
むしろこの際初めから攻勢に出、連合軍反抗の策源地インパールを攻略すべし、というのであった。
しかし、彼の構想は攻勢防禦によるビルマ防衛という軍事的判断だけにとどまるものではなかった。
彼の構想は単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍した。
彼は第一八師団長当時に二一号作戦に不同意を唱えたことを、「必勝の信念」に欠けた態度であり
軍の威信を汚す結果となったと反省し、今後はけっして消極的な意見具申を行なわず積極的に上司の意図を体して
その実現を図ろう、と決意していた。
【中略】 二一号作戦は明確に中止されたのではなく単に実施を保留されていただけであったから、
牟田口としては、その実施に備えることは当然、上司の意図を体するものとみなされたのである。
さらに、彼のインド進攻論には、個人的な心情もからんでいた。それは、
盧溝橋事件の当事者(連隊長)であった自責の念に基づき、次のような内容をもつものであった。
私は盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。 もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、 今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つであろう。 牟田口がアラカン山系への防衛線推進構想からインド進攻論へと飛躍することを最も強く支えたものは、 このような彼の個人的心情であったかもしれない。 戸部良一他 「失敗の本質」
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