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「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
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書籍: 文庫(510ページ)
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目次: 政治家ヒトラーの誕生
ビヤホール蹶起
著書『わが闘争』を出版 ナチス党大躍進す “千年王国” 構想 遂に第一党に ドイツ=第三帝国発足す 独裁体制確立 粛清 オーストリア首相暗殺事件 国家元首 再軍備法案公布 ラインラントを奪回 日独防共協定の締結 |
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ベルサイユ条約の欠陥
「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、
自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった」
フランスの作家J・バンヴィルも同様の感想を述べて、
「この条約は苛酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、
手ぬるい点があるにしては苛酷にすぎる」
引用賠償問題について、ドイツは修正または延期を求め、連合国内でも英国が態度を軟化させはじめた。
フランスは、しかし、強硬に賠償金支払いを主張して、一九二三年一月十一日、ベルギー軍とともにルール地方を占領した。
賠償金を支払えば撤兵する、という。
フランスにも内部事情があった。
フランスは戦費を英国、米国に借りていたが、英米は対ドイツ賠償の減額をフランスに勧誘しながら、
フランスの債務はきっちりと請求した。
フランスとしては、米英にたいする借金を払うためにもドイツから賠償を取り立てる必要に迫られたのである。
だが、ドイツにとっては、フランスの行動は明らかに独立国の主権侵害であり、侵略である。
ドイツは怒り、左右の主義主張を越えて団結した。
ルール地方のドイツ人労働者はフランス軍への協力を拒否して、村、町、都市から退去した。
生産と輸送機関は麻痺し、交通事故が頻発した。
ドイツ・1923年のインフレ
引用一九二三年のドイツは、インフレという一言で描写されるであろう。
そのインフレのすさまじさは、たぶん世界史上空前であり、そのごも記録は破られていない。
発端はルール占領にともなう住民のサボタージュ抵抗にたいして、ドイツ政府が一日四千万マルクの補助金の支出を決定したことにある。
ルール地方のドイツ人市民は職を捨てての抵抗をしているのだから、
その生活維持のための資金援助は当然だが、政府は、一日四千万マルクにみあう財源がないままに、
紙幣増刷だけの措置をとった。
とたんにインフレは激化した。
それまでにもすでにインフレ傾向は現出していて、マルクの対米ドル為替レートは一月はじめに七千五百二十五マルクに下り、
さらにルール占領と同時に一万八千マルクになっていたものが、急速度で下降線をたどりはじめた。
一日四千万マルクの紙幣増発は、一ヵ月では十二億マルク、半年では七十二億マルクとなるが、
インフレはその増刷ぶんだけにはとどまらず、
紙幣が紙幣を呼ぶ形で幾何級数的に昂進するのである。
八月には、国立ドイツ中央銀行は一日四十六兆マルクを印刷しても間にあわず、
地方政府や大企業が自製の紙幣を発行したり、千マルク紙幣に一億の数字を赤くスタンプして流通させる始末になった。
為替レートは、七月一日に一ドル=十六万マルク、八月一日に一ドル=百万マルク、
さらに十月一日には一ドル=二億五千万マルクと下り、十一月一日にはなんと一ドル=四兆二千百五億マルクという、
文字どおり無意味な相場になってしまう。
政府は、そこで、十一月十五日、一兆分の一に平価を切り下げた「レンテンマルク」を発行して、
インフレをデフレに転化させる。
したがって、ドイツの狂気じみたインフレもほぼ一九二三年一年間にとどまったわけだが、
その間のドイツ社会はまさに狂乱という形容がふさわしい状態であった。
引用ドーズ計画は、財政家としても著名な米国のC・ドーズ准将を長とする委員会が立案したものである。
その背景には、賠償にかんする連合国側の反省があった。
ルール占領は失敗とみなされた。
その種の「差し押さえ型取り立て方式」よりは、ドイツを復興させて「几帳面な債務国」にしたほうが有利だ、という考えが、
英米両国に有力化した。
英国がH・シャハトの融資要請に応じたのも、その発想にもとづく。
とくに米国にとっては、ヨーロッパの大国であるドイツは巨大な資本市場である。
融資は「ビジネスライク・ディール」(実務的取り引き)だとみなして、ドーズ准将を専門委員会の委員長に派出した。
ドーズ計画は、賠償支払いとドイツの通貨安定のための五ヵ年計画、ともいうべきもので、
主に米国からドイツに八億金マルクの借款を供与する。
この八億金マルクで「レンテンマルク」を清算して金本位制を確立し、新たにドイツ中央銀行を設立する。
賠償は、初年度の十億金マルクから毎年増額して五年目には二十五億金マルクとするが、
その額はドイツ経済の健全化、産業の振興にあわせてきめる。
また、計画実施のために鉄道、国立銀行を連合国の管理下に置き、
総監督官として米国の財政家P・ギルバートをベルリンに駐在させる・・・・・・。
このドーズ計画は、いわば破産に瀕した大会社を更生させるために債権者集団が強力なテコ入れを決意したようなものである。
ドイツ側からいれば、復興が目的である以上は八億金マルク以上の融資も当然に期待され、
こんごの「借金生活」が約束されたといえる。
世界恐慌のドイツ
引用一九二九年~一九三〇年の冬は、ドイツ国民にとってはまたしても暗く厳しい雰囲気につつまれ、
どの街でも職業安定所、質屋、無料スープ供給所に長蛇の列がつづいた。
飢えた市民の表情に生気はなく、とくに妊婦は栄養失調のために難産例が多くなった。
だが、この冬、外科医F・ザウエルブルヒは「異常な新現象」の多発を報告している。
そういう難産の患者が、苦痛に耐えるためにヒトラーの名前を呪文のように唱え、
あるいは出産と同時に絶え入るような声をふりしぼって叫ぶ女性が増えた、というのである。
「ハイル・ヒトラー」―と。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.115
党歌「旗を掲げよ」
引用党歌は一般市民の愛唱歌となり、褐色の制服を着て歌いながら行進する若いSA隊の姿は、
とくに女性たちの評判を良くした。
鉤十字を下腹部にいれずみするのが女子学生の間に流行し、ヒトラーあてにラブレターや、
理由は不鮮明だが刺繍入りのクッションの贈物が続々と届けられるようになったのも、
党歌『旗を掲げよ』が街々で高唱されはじめてからのことである。
ナチス党員は、前年末には十七万六千四百二十六人に増えていたが、この年、
一九三〇年末には三十八万九千人に激増している。
歌と女性が、党勢拡大に少なからぬ役割をはたしたのである。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.121
引用三月二十三日午後二時五分、ベルリンのクロル・オペラ劇場に仮設された議会本会議場で、議長ゲーリングが開会を宣言した。
出席した議員は、五百三十五人であった。
共産党議員八十一人全員、社会民主党議員二十六人、諸派五人が「逮捕、逃亡、病気」などの理由で「欠席」した。
議場の外にSS隊がピケラインを張り、議場内の廊下にSA隊員がならび、議場の正面の壁は巨大な鉤十時旗でおおわれていた。
ヒトラーは、同じく褐色の党服装でその右手の波に右手で応え、とどろく拍手の中で演説をはじめた。
演説は一時間つづいたが、焦点はむろん全権賦与法案の提議であった。
正式には『人民と国家の苦悩を除去する法案』を提出するにあたって、ヒトラーは、
とくに同法案が「大統領の地位と権力」「連邦各州の存立」「教会の権利」「国会の存在」をおびやかすものではない、
と強調した。
だが、五ヵ条の法案の内容は、予算監督権をふくむ立法権、外国との条約の承認権、
憲法修正の発議権を議会から政府に移し(第一、第二、第四条)、
憲法の範囲外のものをふくむ法律の作成権を大統領から首相に移管する(第三条)ことを規定している。
有効期間は四年間かつ現内閣の存続中(第五条)と定められているが、
文字どおりの「全権」の賦与であり、大統領、国会ともにその権限の骨幹を奪われることになる。
それでも大統領、国会の存立をおびやかさないとは、奇異な白々しさを感得させる発言である。
三時間の討議中に、さすがに社会民主党は反対を議決して、午後六時十五分に本会議が再開されると、
党首D・ヴェルスは、民主主義にたいする信仰を告示する形で法案反対の態度を表明した。
「与党は、選挙によって多数を獲得し、憲法に従って統治する可能性を得た。
その可能性の存するところ、義務もまた生ずる。批判は有益であり、これを迫害しても無益である」
ヒトラーは、社会民主党首ヴェルスを指さしたまま、
ナチス党はほかならぬ社会民主党政府から迫害と批判をうけつづけた、いまさらなにをいうか、
自分を「ペンキ屋の職人」だとさげすんだのは誰か、といった趣旨を怒号したのち、一段と声をはりあげた。
「諸君はもはや不要だ・・・・・・ドイツの星は昇るが、諸君の星は沈む・・・・・・私は諸君の投票をあてにはしていない。
ドイツは自由になる、だが、それは諸君によってではない・・・・・・」
社会民主党の支持はいらぬ、というヒトラーの言葉に間違いはなかった。
次いでおこなわれた表決に、社会民主党議員九十四人は全員が反対投票した。
が、賛成票は四百四十一を数え、全権賦与法は可決された。
ナチス党議員は起立して、右手をさしのばし、足をふみ慣らして党歌『旗を掲げよ』を斉唱した。
その歌声をぬって議長ゲーリングは無期休会を宣言して、議事を終えた。
「ナチス独裁の覇業遂に完成す―
憲法はその髄を抜きとられ・・・・・・かくてドイツ共和制は成立後満十年にして実質的に圧殺された」
それは、かつて皇帝カイザーも身につけなかった「全能の法力と権力」である。
その必要があったのか―と、後日に自問するにせよ、
六千四百余万人のドイツ国民がそれをヒトラーに与え、開運の期待をこめて「第三帝国」を発動させたのである。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.264
ヒトラー、ナチス入党停止令を公布
引用五月一日、ヒトラーはナチス党の入党停止令を公布した。
ヒトラー政権が誕生していらい、ナチス党にはそれまでの八十五万人に加えて、
わずか三ヵ月間で百五十万人が入党し、さらに百万人の志願者が待機する盛況となっていた。
ヒトラーは、古くからの党員の士気を維持するためと、ただわが物顔に横行したいだけの入党希望者を拒否する姿勢を示すために、
入党停止を布令したのである。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.269
引用四月二十六日には、H・ゲーリングを長官としてプロイセン州内務省政治警察部長R・ディールスを副長官とする
「秘密国家警察」(ゲハイム・シュターツ・ポリツァイ)が、発足した。
まだプロイセン州だけを管轄にしていたが、この発足時から郵便略号である「ゲシュタポ」が一般的呼称になっている。
その使命は、反ナチス分子の摘発であり、労組員も対象となる。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.269
ヒトラー、「大平和演説」
引用五月十六日、米大統領F・ルーズベルトは軍縮会議の継続を求めるアピールを、四十四ヵ国の元首に送った。
爆撃機、戦車、移動式重砲などすべての攻撃兵器の撤廃を呼びかけ、
米国も応諾する用意がある、という。
「ルーズベルト大統領の提案は、ドイツ政府の無常の感激を獲得した・・・・・・大統領の提案は、
平和の維持に協力しようとするすべての者にとって慰めの光である・・・・・・」
ヒトラーは、その翌日、五月十七日、さっそくにルーズベルト声明に呼応する演説を放送したが、
世に「大平和演説」と呼ばれるようにその内容は平和感に満ち満ちていた。
―生存のために必要な経済資源を一国民から剥奪するのは、賢明なことではない。
―ポーランド人およびフランス人をドイツ人たらしめ得ると信じさせた前世紀の考え方は、
われわれには無縁のものである。
―ドイツは攻撃を考えず、ただ安全保障の確保のみを念ずるがゆえに、
いかなる不可侵条約にも賛成する用意がある。
―ドイツは、たとえ完全に成功する場合でも、ヨーロッパにおける軍事行動は
その犠牲が利益よりもはるかに甚大であることを、よく知っている。
ヒトラーは、軍縮会議のSA隊、SS隊にかんする決定にふれ、
もしそれらを軍隊とみなすなら「消防隊、スポーツ団体、監守人」も兵士になるといい、
ルーズベルト提案についても「武装国家」「隣邦諸国」がそうするならドイツも攻撃兵器を棄てる、との条件を明らかにした。
また、多数決による決定をおしつけ、制裁などをドイツにこころみるならば、
ドイツは「軍縮会議」と「国際連盟」にとどまり得ない、という、そのごの事態を暗示する予告も、
さりげなく言明していた。
つまりは、他国が軍備撤廃をしない限りドイツは再武装する、という決意の表明と理解できるはずである。
ヒトラーの著書『わが闘争』は、「生活圏」の獲得と「失地回復」を強調しているが、
この「大平和演説」は、そういう思想の転換を意味するものとさえ理解された。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.272
メフォ手形
引用中央銀行総裁シャハトが考案した方法は、ケインズ経済学の古典的応用例ともいえるやり方であった。
まず「金属調査会社」なるダミー会社をつくり、兵器発注はこの会社からおこなう。
支払いは同社発行の手形でするが、中央銀行が保証する。
手形の期限は三ヵ月。ただし、期限がくると自動的に三ヵ月延長され、五年まで延期をくり返せる。
割引は、中央銀行でのみおこなう・・・・・・。
一種の国債による方式で通貨の増発をともなわないので、インフレの心配はない。
シャハト案は即諾され、翌日、シャハトとミルヒも役員に加わる「金属調査会社」が設立された。
「金属調査会社」の略称は「メフォ」。そこでその手形は「メフォ手形」と呼ばれ、
一般には会社の性質は秘匿されたまま、再軍備の資金は確保された。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.275
ヒトラーフィーバー
側近者E・ハンフシュテンゲルの息子イゴンの回想によれば、この年の夏、
山荘の前にたむろする男女をみて、イゴンはヒトラーを連れだした。
一同は「卒倒」しそうに感動した。
「一人の女性は、ヒトラーが屋内に入ると、ヒトラーが踏んだ小石を拾ってガラスびんにいれ、胸に抱きしめた。
そのまま恍惚としてびんを抱いていたが、力がこもりすぎてびんが割れた。
女性は、手と胸から血を流しながら、なおも陶然と眼を宙にすえて立っていた」
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.277
引用「(ヒトラー)総裁に国際連盟脱退を決意させたのは、野心でも熱情でもなく、
盲目的な頑固さでも暴力への欲求のためでもない。
それは、わが国民に運命自決権を回復させようとの無条件の使命感によるものである」
著名な哲学者フライブルク大学教授M・ハイデガーが、学生たちにそう説くと、
カトリック教会は神父たちに回状をまわして、ドイツ国民を「戦争とボルシェヴィズムの脅威」から解放し、
「社会秩序の確立と失業者救済を成就」したヒトラーへの支持を呼びかけた。
四千五百万人の有権者の九六%が投票し、うち九五・一%が連盟脱退に賛成した。
ダハウ強制収容所に収容されていた政治犯二千二百四十二人も、うち二千百五十四人がヒトラー支持票を投じた。
同時におこなわれたナチス党を単一政党とする総選挙投票でも、
ナチス党は九二・二%を獲得した。
選挙には政府とナチス党の干渉も記録されているが、まだ当時のヒトラーには弾圧だけで九五%のドイツ国民を懾伏させる力はなかった。
国民の自発的支持の結果とみなすべきである。
ドイツ国民は、第一次大戦後の十五年間を耐えてきたヴェルサイユ体制からの離脱を喜び、
その機会を与えたヒトラーに歓呼したのである。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.282
ラインラント進駐前夜
引用三月二日、国防省W・ブロンベルク大将は、ラインラントの「所定の地区に部隊を移動させる平和的作戦」を「Z日」に発動する旨の命令を、
三軍司令官に伝達した。
三日後の三月五日、ブロンベルク大将は「Z日」を「三月七日土曜日」と定めた。
この日、英外相A・イーデンは、ジュネーブでフランス、イタリヤ、ベルギー各国外相との会議を終えて、ロンドンに帰着した。
会議はこんごの世界軍備縮小を議題にしたが、
フランス外相P・フランダンはとくにドイツのラインラント武力進駐の気配が色濃いことを指摘して、その場合は、
フランスは軍事行動をふくむ共同行動を各国とともにする容易がある、と強調していた。
外相イーデンは、フランスの態度を閣議に報告したが、
当時の英国の雰囲気を次のように回想している。
「この頃の英国では、ドイツのラインラント占領にたいして、フランスとともに具体的に対抗すべきだと考える者は、
千人に一人もいなかった・・・・・・英国人の多くは、戦後二十年もたって、
ドイツが自分の領土内で好きなことができないのは不当だと考え、閣僚の間でも同じ考えを持つ者がいた・・・・・・」
ヒトラーにとっては、まことに心強い事情であるが、この種の情報はベルリンには届けられず、
ヒトラーとドイツ軍幹部の耳にはいるのは、場合によっては英仏は一致して積極的行動に出るだろう、といった類のものが多かった。
副官F・ホスバッハ大佐によれば、ヒトラーは五日後、進駐作戦が中止可能かどうかを大佐に訊ね、
可能だとの返事を得ると、大佐に命じた。
「それじゃ、中止を指令できるギリギリの時間を調べておいてくれ」
また、側近者である写真師H・ホフマンは、のちにヒトラーが、あの晩は一睡もできなかった、と告白し、
次のように語ったと記述している。
「何度も何度も、私はくり返して、フランスはどうでるか、と自問した。
われわれの一握りの部隊を阻止するだろうか? むろん、私がフランス人だったら・・・・・・私は攻撃してドイツ兵の一兵も
ライン河を渡らせないはずだ」
三月六日、ドイツ政府はその翌日正午に議会が臨時召集とされると発表し、重大な事態の発生が間近である旨を予告した。
児島襄 「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い(1)」
P.457
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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