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「マッカーサーの二千日」
参考書籍
著者: 袖井林二郎(そでい・りんじろう)
この本を入手
発行: 中央公論社(1976/10/10) 書籍: 文庫(363ページ) 定価: 450円(?) 目次: 「オレンジ戦略案」の長い影
アイ・シャル・リターン
補足情報:青い眼の大君 「解放軍」の虚実 勝者は裁く 法を与えるもの 「改革」をめぐる人間力学 神と人とに奉仕せん 「マイ・デア・ゼネラル」 「逆コース」という名の協奏曲 勝利に代るものなし? 老兵は消えゆかず あとがき
日本占領に絶対的支配者として君臨したマッカーサー。
その謎に満ちた個性と五年八ヵ月に及ぶ支配の構造を、新資料で解明し戦後史の盲点に新しい光を当てる力作。
毎日出版文化省受賞。(裏表紙)
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マッカーサーの人間性
引用ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。
しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。
それは、「自分の領域と見なしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、
そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。
この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう
―「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた
―とにかくその息子に会うまではね」
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.12
桂・タフト協定/高平・ルート協定
引用奉天大会戦、日本海海戦と相つぐ勝利は、日本に対するローズベルト大統領の警戒心をつのらせた。
勢いをかった日本軍が南方進出を企てるのではないかと恐れた大統領は、
七月に陸軍長官タフトを「フィリピン視察」の名目で日本に派遣し、桂首相との間にひそかに「桂=タフト協定」を結ばせた。
一口にいってその目的は、アメリカが韓国における日本の権益を保障するのと引換えに、
日本はフィリピンに関して絶対の保障を与えるというものであった。
こうしてアメリカのアジアにおける植民地は、日本にとって人質の役割を果すことになる。
そのうちにアメリカは「桂=タフト協定」でも安心できなくなり、三年後の一九〇八年、
ルート国務長官と高平全権大使との名で「高平=ルート協定」を結び、
再び日本にフィリピンとハワイの権益保存を保障させようとする。
このとき日本が反対給付としてかち得たのは、日露戦争で手に入れた満州の権益を保全するという約束であった。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.14
オレンジ戦略
引用フィリピンはアメリカにとって戦略的負担であった。
セオドア・ルーズベルト大統領は、この群島をアメリカの戦略体系における「アキレスの踵」と呼んだ。
日本の脅威を絶えず心配しなければならないこのフィリピンの地位について、アメリカ政府は外交交渉一本槍でのぞんだのではない。
一九〇四年日本がロシアを攻撃した直後に、米陸海軍統合会議は一連の戦略計画をたてはじめた。
これがやがていわゆる「カラー・プラン」に発展するのである。
仮想敵国を色名で呼ぶこの計画の中で、日本にあてられた色はオレンジ。
日本の脅威から太平洋の米領土を防衛することを中核とする、この「ウォー・プラン・オレンジ」すなわち「オレンジ戦略案」は、
カラー・プランの中で圧倒的な比重と現実感を持っていた。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.14
引用日本に対するアメリカの利害は単純ではなかった。
政府が日本の進出を恐れる一方で、日本が得た満州の権益に割りこもうとする米資本の動きは活発だった。
タフトの訪日に続いて、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンは駐日アメリカ大使グリスコムの招待というかたちで
一九〇五年八月三十一日日本を訪れる。
日露戦争の戦費をまかなうため日本が海外で募集した戦時公債を五百万ドルも引受けた実績を持つハリマンが、
このとき日本へ乗りこんできた真の目的は、南満州鉄道の買収にあった。
当時日本の政府には日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、元老をはじめ桂内閣もアメリカ資本の導入を
渡りに船と歓迎したのである。
ハリマンの計画は単に南満州鉄道を買収するだけでなく、それを起点にシベリア鉄道を経てヨーロッパへ、
さらに汽船連絡によって世界一周鉄道を実現するという壮大な構想であった。
話合いは、順調に進み、十月十五日には、かたちだけ日米平等のシンジケートを経営体とする南満州鉄道運営に関する予備覚書が、
桂首相とハリマンの間に交換された。
ハリマンは勇んで帰国の途についたが、ポーツマス講和会議から入替りに帰国した首席全権小村寿太郎は、
これに猛然と反対し、ついにその契約を破棄させることに成功する。
小村がそうした強硬な発言ができたかげには、満鉄の自主経営を可能にする資金の手当がモルガン系銀行によって
保証されていたからであるが、ともあれハリマンは船がまだサンフランシスコへ着くまえに、
予備協定破棄を電報で知らされる。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.15
マッカーサー、最初の来日
引用八月アーサーは、ポーツマス会議の開始とともに妻メリーの待っている東京へ行き、
駐日アメリカ大使館付武官のポストにつく。
タフト長官の滞日中にアーサーは、息子のダグラスを自分の副官として日本へ派遣するように取りはからって欲しいとたのみこんだ。
フィリピンでは対立した仲であったが、タフトはそれを聞入れ、ダグラスは十月十日サンフランシスコを出港して日本へ向かうのである。
日露の講和条約はすでに九月五日ポーツマスで調印されていた。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.16
引用大統領に当選したフランクリン・ルーズベルトは、 【中略】 マッカーサーの姿に独裁者の影を見出し、
「稀代のデマゴーグ」ヒューイ・ロング上院議員と並んで「アメリカで最も危険な二人の人間」に数えた。
その言明を直接聞いたタッグウェル(のちの大統領顧問)によると、
ルーズベルトは次のように語ったという―この国の企業家や影響力ある人々は、
この三〇年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。
アメリカでシーザーになり得る人間の中で「マッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」
フーバーの古典的な自由主義を奉ずるマッカーサーにとって、ルーズベルト政権下に参謀総長として五年の月日を過すことは、
かなり辛いことだったに違いない。
思想的にはニューディール政策に一貫して反対だったし、ますます緊縮を強いる議会から軍事予算を守ることが、
彼の最大の任務だったのである。
彼はニューディール政策の一つとして行なわれた青少年の失業対策である「資源保存民兵隊」の訓練に、
軍の全施設をあげて努力しているが、これは大統領のお気に入りの計画を推進することによって、
軍に対する予算の確保をねらった政治的な動きだったと見られる。
ルーズベルトはマッカーサーを警戒しながらも、参謀総長としての彼の任期を一年延長し、
また保守派の代表とみなして、自分の政策の効果を打診するために、彼にさまざまの助言を求めていた。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.33
マッカーサーの日米開戦
引用ハワイ奇襲をマッカーサーが知るのは、現地で攻撃の第一報が発せられてから一時間四十分後。
それもラジオ・ニュースで知ったササランド参謀長が電話で知らせて来たのが最初なのだから、
米軍の連絡網はたしかに混乱していたということがいえる。
マッカーサーの最初の反応は「日本軍部隊はおそらく手きびしい敗北を喫したに違いない」というものであった。
この誤った判断から、それ以後の作戦の食いちがいのすべてがはじまる。
日本の一式陸攻と零戦計三百余機がクラーク・フィールドの飛行基地を襲ったとき、
フィリピン防衛空軍力の主体であるB17三十五機のうち二十四機までが地上にあり、乗務員は昼食の最中であった。
一瞬のうちに十八機が爆破炎上し、残る六機も損害を受けた。
これはあとで査問会が開かれ責任が追及されたほどの大失策であったが、日本軍戦力の過小評価、
命令の不徹底など多くの理由があったにしろ、要するにマッカーサーにとって日米戦争が早く始まりすぎたということが、
この緒戦の敗北の大きな原因であるといえよう。
こうしてフィリピン防衛のマッカーサー戦略にとって最大の支えである空軍力は、
開戦第一日で大半が失われた。
支援の海軍力はといえば、太平洋艦隊はハワイで痛めつけられ、アジア艦隊は南方洋上に撤退してしまっている。
彼はいまや陸軍力だけでフィリピンを防衛しなければならない。
それでも強気のマッカーサーは、改訂レインボー戦略案に固執し、上陸する敵を波打際で撃退せよと命令した。
十日日本軍はルソン島北端のアバリとビガンの両地点から上陸を開始、十二日にはレガスピーにも上陸が行なわれた。
それにしても、本間雅晴司令官の率いる第十四軍の主力部隊が西北部のリンガエンに上陸するだろうと、
マッカーサーが推測したのはさすがである。
日本軍の主力は思わぬ巻波に悩まされながらも同月二十二日、上陸を完了、一気にマニラを目指して進んだ。
ウェインライト将軍の防衛軍はひとたまりもない。
波打際作戦がもろくも破れてはじめてマッカーサーは、翌二十三日、伝統の「オレンジ戦略2号」に戻ることを決意する。
つまり首都マニラを捨て、司令部をコレヒドール要塞に移し、バターン半島に拠ってそれを守るという作戦である。
十二月二十六日、マニラは「非武装都市」と宣言された。
日本軍が一月二日に無血入城できたのは当然である。
この間にルソン島の米比軍は寸刻を争ってバターン半島へ戦略的後退を急いでいた。
それを単なる敗走と考えていた日本軍は、追撃の機を逸し、マニラとバターンを結ぶカルムピット大鉄橋は撤退を終った米軍によって
爆破されてしまうのである。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.46
ルーズベルトの作戦調整会議
引用加速度を増しつつ、確実にマッカーサーの反攻は進んでいた。
ブナからラエ=サラモア地区を落し、アドミラルティ諸島のマヌス島へ、そして一九四四年四月には一千キロを一跳びにホーランディアに上陸、
ここにフィリピン奪還のための司令部を確立する。
だがこのころ、ワシントンではマッカーサーとは異なった戦略をたてていた。
ニミッツ提督の指揮する太平洋方面軍にマッカーサーの兵力を吸収、フィリピンを素通りして、台湾を攻撃させようというものである。
七月下旬マッカーサーは突然ホノルルの司令部に呼び出された。
ルーズベルト大統領直々の作戦調整会議である。
マッカーサーは「副官一人を連れただけで、報告書や計画や地図などの資料はいっさい携えて来なかった。
マッカーサーが持っていたものといえばフィリピンを奪還するという決意だけであった」
マッカーサーの主張は二点だった。
フィリピンを確保することによって「軍事的にみて・・・・・・南方から日本への一切の補給物資の流れを空海からの封鎖でせき止め、
それによって日本の産業をマヒさせ、早期降伏を強いることができる」
しかしもっとも大きな―なによりも彼にとって―理由があった。
「この友好的な地域を敵から解放することは、それが可能になったいま、われわれの道義的な義務であって、
われわれがそれを果さないということは東洋人の気持には理解できないだろう・・・・・・それにフィリピンを解放しなければ、
フィリピンの捕虜収容所にある何千人という米人男女、子供を死なせてしまうことになる。
千七百万のフィリピン人はほとんど一人残らず忠誠であって、
われわれが救援の手をさしのべなかったばかりにいま恐るべき苦難を経験している・・・・・・」
「アイ・シャル・リターン」の誓約が戦略上の理由から拒否されるかもしれない瀬戸際である。
マッカーサーは説きに説いた。クラーク・リーはいう―
「ルーズベルトに三時間も耳を傾けさせたというのは、それだけで歴史的な出来事である。
じっと聞き入ったあとでルーズベルトは、『ダグラス、
君は太平洋について私が自分でこれまで学んだ以上のことを教えてくれたよ』と語った」。
だがリーはそのエピソードを次のように結ぶ―「しかし、侍医と二人きりになったとき大統領はいった。
『ケリイ、寝る前にアスピリンを一錠くれないか。いや明日の朝のむ分ももう一つだ。
これまでの生涯で私に向ってマッカーサーのような口調でしゃべる奴には会ったことがないよ」
マッカーサーの戦略案は勝ちを占め、彼は一路フィリピン奪還の兵を進める。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.61
マッカーサー、大統領選出馬を否定
引用大統領選にマッカーサー自身が食指を動かしていたのは事実である。
「指名大会に出てもいいが、ただ出馬を求められた場合に限る」という意思表示に共和党の保守派は活気づいた。
だが彼との往復書簡をある下院議員がせっかちに公開してしまったことからマッカーサー神話が崩れてしまう。
その中で彼はニューディールをきびしく批判するこの議員に「自分もまったく同意見である。
それこそ<現代の混沌と混乱を生んだ不吉なドラマ>だ」と述べていたのである。
結局マッカーサーは「最前線の高級指揮官が大統領選挙に出馬すべきではないと考えるから、
たとえ求められても自分には指名を受諾する意志はない」という声明を発表してルーズベルトを安心させる。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.63
引用一言でいえばホイットニーはマッカーサーの「アルター・エゴ」、つまり分身であった。
ホイットニーのマッカーサーに対する献身ぶりは完璧であり、それはものの考えから書体までほとんど見分けがつかないほどである。
マッカーサーの名による『山下裁判判決再審理決定書』の原稿は、太い大きな字のペン書きで彼の書体を思わせるが、
それが実はホイットニーの書き下したものであることを告げることができる人は、きわめて少い(マッカーサー記念館の司書、
アレキサンダー大尉はその一人である)。
またマッカーサーの『回想録』は、ホイットニーの『マッカーサー―歴史とのランデブー』からの引きうつし
(もちろん断りなしの)がやたらに多いが、それはケーディス元民政局次長の言によれば「二人は全く同じような考え方をしていたのだから、
マッカーサーはホイットニーの本を引用したというよりは、自分自身を引用していたのだといっていい」ということなのである。
もちろんホイットニーはマッカーサーにないもの、つまり法律家としての訓練と経験をそなえていたが、
その素養はマッカーサーの考え方を補強しこそすれ、あらためさせることは決してなかったことは確かであろう。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.132
マッカーサーの軍事法廷へ、マーフィ判事の警告
引用二月十一日「紀元節」の日、本間は銃殺刑を宣告された。
弁護団は山下の例にならって合衆国最高裁に提訴したが、最高裁は訴願を審理することを拒否した。
だがここでもマーフィ判事は、ラトレッジ判事とともに鋭く異議をとなえて、マッカーサーの指令に基づく裁判の不法性を衝いた
―「犯罪のより明確な証拠も、日本部隊の残虐行為も、
裁判進行の不当な迅速さ或は明瞭に反憲法的規定を含む指令の発布の口実にはならない」。
そしてマーフィ判事は警告する―「今日、戦場で敗北した敵軍の指導者である山下と本間の生命が、
法の正当な手続きを無視して奪われる。
それに抗議するものはない。
しかし、ここにうち立てられた先例は明日他の者にふり向けられるのである。
法の正当な手続きを無視した法律的リンチが、今後ひきつづいてぞくぞくと発生するかも知れない」。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.147
マッカーサー対本間富士子
引用マニラ軍事法廷の判決を再審査する権限はマッカーサーにしかない。
三月十一日、本間夫人は弁護士の一人ファーネス大尉にともなわれてマッカーサーをGHQに訪れた。
めったに日本人に会うことをしなかったマッカーサーではあったが、さすがにこの訪問客を拒否することはできなかったのであろう。
日本の一女性と占領軍最高司令官とが一人の人間の生命をめぐって対決する場面はこうして実現した。
『回想記』の中でマッカーサーはその時のことをこう書いている。
「本間夫人が直接寛大な措置を訴願する機会を得たいといってきたので、
私は夫人に会うことを承諾した。
・・・・・・教養のある非常に魅力的な人柄の夫人で、この会見は私の生涯でいちばんつらい時の一つとなった。
私は夫人に、個人的には心から同情し、夫人の深い悲しみがよく分ると述べた。
私はまた、戦争というものが、いかに邪悪に満ち、それに何の関係も打つ手ももたない夫人のような人たちにいかにみじめな結果を及ぼすかが、
これほど深刻に示されたことはないと語り、夫人の発言を深く考慮することをつけ加えた」
しかし富士子の語るところによると、彼女は後世のために裁判記録のコピイが欲しいという要望をするために行ったのである。
「私は決して命乞いのために元帥に会ったのではありません。
そのことについてはひとこともふれませんでした。
なぜなら、敵将の前でそんな態度をとることは、主人の最も嫌うことだと知っていたからです。
ただ最後に『あなたが最後の判決をなさるそうですが、そのときは裁判記録をよくお読みになって、
慎重にしていただきたい』、こう言いますと元帥は、しばらくだまっていましたが、やがて『私の任務について、
あなたがご心配なさる必要はありません』、つまり女のくせに口を出すなという意味のことをいわれたのです」
本間夫人は訴願をしたのではなく、記録を忠実によめば夫の正しいことがわかるに違いないという信念を表明したということなのであろう。
しかし、マッカーサーに全記録を大ざっぱにでも読む時間があったとは思えない。
要するに彼の心は決まっていた―本間は殺されなければならない。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.147
近衛文麿の憲法改正
引用京都大学時代の恩師で憲法学の権威佐々木惣一博士に同じく内大臣御用掛の任についてもらい、
具体的な改正案の起草にとりかかった近衛は、二十一日、AP通信の東京特派員ラッセル・ブラインズを通じ、
自分がマッカーサー元帥のすすめによって憲法改正に着手するにいたったと、世界に告げたのである。
「元帥は会見劈頭日本憲法を自由主義化する必要のあることをはつきり言明し、
自分にその運動の先導をするやう示唆した。
自分は憲法改正は天皇陛下の御発意によつてのみ行ひ得る旨を答へたが、
元帥の意志を陛下に御伝へすることを約束した。
そしてこのことを御報告申上げたら、陛下は自分に憲法改正に着手せよと命ぜられ、
自分は内大臣御用掛を拝命した。
改正草案は十一月中に完成したいと思つてゐる。
米軍当局には随時詳細に亘つて報告されよう。
マ元帥からは特殊の問題はすべて最高司令官自身へ持つてくるやう要求されてゐる・・・・・・」
この記事がGHQの事前検閲を経て掲載されたのだということを考えると、
この段階ではマッカーサーは自分が近衛に憲法改正のイニシャティブをとらせたという事実を完全に認めていたことになる。
当時中国でもまたアメリカ国内でも、近衛は戦争犯罪人として逮捕されるべきだという声は高かった。
それなのにマッカーサーはなぜ近衛を重用したのだろうか。
マッカーサーの貴族趣味というだけでは解答にならない。
おそらく天皇制をその権力を弱体化しつつもかたちとして守ることをすでに決意していたマッカーサーは、
その目的のために、天皇家の最良の理解者であり、最大の忠臣である近衛を利用しようとしたのではないだろうか。
マッカーサーが近衛を天皇と同じように戦犯リストから除外することができると思っていたかどうかは明らかでない。
APの記事は近衛にとって命とりになった。
十月二十六日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は近衛が日本の憲法を起草するにふさわしいというなら、
[ナチスの]ゲーリングもアメリカ合衆国の首相になれる、というきびしい社説をかかげた。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.163
引用二月四日ホイットニーは民政局の全員(朝鮮部担当を除く)を集め、次のように告示した。
「これからの一週間は、民政局は憲法制定会議の役をすることになる。
マッカーサー将軍は、日本国民のために新しい憲法を起草するという、歴史的意義のある仕事を民政局に委託された。
民政局の草案の基本は、マッカーサー将軍の略述された三原則であるぺきである」
「二月十二日までに、民政局の新憲法草案が完成し、マッカーサー将軍の承認をうけることを希望する。
二月十二日に、自分は日本の外務大臣その他の係官と、日本側の憲法草案についてオフ・ザ・レコードの会合をもつことになっている。
この日本側の草案は、右翼的[=保守的]傾向の強いものだろうと思われる。
しかし自分としては、外務大臣とそのグループに、天皇を護持し、
かつ彼ら自身の権力として残っているものを維持するための唯一の可能な道は、
はっきりと左よりの[=進歩的な]道をとることを要請するような憲法を受け容れ、これを認めることだ、
ということを納得させるつもりである」
この言明は占領軍の政策が既存の権力機構を弱体化しつつも、
それを利用しながら改革をおし進めることにあることをハッキリと示している。ホイットニーはさらにいう。
「自分は説得を通じてこういう結論に達したいと希望しているが、説得の道が不可能なときには、
力を用いるといっておどかすことだけではなく、力を用いること自体の授権を、マッカーサー将軍からえている」
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.176
引用彼はハーバード大学で法律を学んで弁護士となり、
第二次大戦前は財務省に勤めていたが、開戦後歩兵将校としてヨーロッパ戦線に参戦して中佐となり、
日本降伏の時点では陸軍省民政部に勤務していた。
「マニラにいるマッカーサー元帥から、私のポスであるヒルドリング少将に長い電報が届いた。
日本占領のための幹部要員を送ってくれというもので、詳しい資格要件が書いてあった。
連邦政府で経験があり、ヨーロッパ戦線に参加した者で経歴は大佐以上・・・・・・。
私にはわからないのでそれをソルズベリイ中将に報告したら、お前はその資格要件にピッタリだ、といわれた。
しかし私は中佐ですがというと、じゃいますぐ大佐に昇進させてやろう・・・・・・。
そんなわけで日本に赴任することになったのだ。
当時連邦政府で働いた者といえばF・D・R(ルーズベルト)の政権に決まっている。
ということは、ニューディールの実施にたずさわったということだ。
マッカーサー元帥には私の詳しい経歴を提出したのだから、私についてはすべてを知っていて部下にしたに違いない」
(著者とのインタビュー)。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.186
引用化学肥料の王手メーカーである昭和電工に対し復興金融金庫(復金)から融資された三十億円という巨額の融資をめぐって、
まるで密にたかる蟻のようにGHQ係官、政治家、関係閣僚がむらがってワイロをとったというのがこの事件の刑事的側面である。
明らかになったワイロの額だけで七千万円、その他に三億五千万円の使途不明金があるというのだから、
その底の深さははかり知れない。
また「段ボール箱に二箱、綴じにして五十冊以上の東京地検調書がアメリカに運ばれている」という事実は、
GHQが事件によほど深くかかわっていたことを示している。
なかでも経済科学局(ESS)は復金をコントロールしていただけでなく、集中排除法による大会社の分割、賠償指定など、
日本の企業に対して生殺与奪の権限を持っていたのだから、ここが贈賄の対象としてねらわれたのは当然であった。
GHQは大会社のトップ人事にも介入し、昭電の森暁社長が公職追放になった後釜に、
若い日野原節三(日本水素社長)を押し込んだのはGSである。
日野原の義兄が菅原通済で彼は芦田内閣の黒幕だから、GS-ESS-昭電-芦田内閣というつながりが生まれた。
これに対し追放された森派はG2とつながり、そのG2は吉田の自由党を支持していたという関係になる。
日野原が湯水のようにバラまく賄賂の行方をG2はお手のものの諜報網で追跡しGSの勢力失墜をはかった。
だが早々と結末をいってしまえば、昭電事件で命をとられたのはGSではなくて芦田内閣であった。
閣僚のうちから経済安定本部長官栗栖赳夫が逮捕され、またさきに土建献金事件の容疑で辞表を出していたとはいえ、
副総理だった西尾が収容されては内閣はもちこたえられなかった。
一つの内閣を崩壊させた大事件でありながら、昭電事件そのものの結末はかなりあっけない。
日野原、栗栖らは贈収賄で有罪(執行猶予)となったが、西尾は無罪、とばっちりを食ったかたちで起訴された自由党前幹事長
大野伴睦も無罪となった。
GHQ関係者はもちろん一人も起訴されていない。
悪者にされたのは日本側だけである。
事件の渦中にあった西尾は後年次のようにいう。
「G2は事件の拡大をはかり、GSはこの事件を日本政府内部の大疑獄事件として印象づけるため、
捜査上いろいろの指示を与えたであろうことは、常識的にも想像できる」。
つまりGS、とくにケーディスは、自分に火の粉がふりかかって来た以上、それを払うためには、
これまで支持してきた芦田「中道」内閣を犠牲にすることも敢えてしたのであろうというわけである。
この観測は正しいであろう。
ケーディスは鳥尾元子爵夫人との間に浮名を流してはいたが、
昭電事件については「白」だという自信を持ち続けていたようである。
だが、それを証明するには捜査を進めさせる以外なかったということであろう。
「潔白」が証明されたときのケーディスの喜びようを細川隆元(当時社会党の渉外部長としてGHQと党とのパイプ役をしていた)は、
次のように語る。
「ある日ケーディスが司令部にいった筆者をとらえて『細川君、きょうはうれしいニュースがあるから君も喜んでくれ給え。
CIC(対敵防諜部隊)で昭電事件にからんで僕を調べていたが、これこの通り僕には一片の疑いもないことが判明した』と
CICから来た公文書を示して躍り上って喜んでいた・・・・・・」
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.250
ケーディス帰国
引用第二次吉田内閣成立からまだ二月も経たぬ一九四八年十二月八日、ケーディス民政局次長は、
キャンプ座間の基地から一人アメリカへ向けて旅立つ。
荷物は肩からかけたカバン一つだけだった。
今日まで広くいわれてきたことは、ケーディスは昭電汚職にかかわった容疑と、鳥尾元子爵夫人とのラブ・アフェアによって失脚し、
さびしく帰国したということだが、それは事実とは異なる。
ケーディス自身の語るところによれば、彼はマッカーサーの命令を受けて、ワシントンに赴き、
本国政府による対日占領政策の変更に歯止めをかける努力をしたのだという。
彼の敵手ウイロビーのいうところもそれを裏付ける。
「・・・・・・ケーディス大佐が、上司のホイットニー将軍のサインしたTO(旅行命令書)を持ってワシントン入りすることがわかった。
結果を先に記せば、ケーディスにとってはTDY(臨時勤務)のはずの訪問だったのだが、
それが“DEAD END”の旅になってしまうとは予想外のことであったに違いない」
「一九四八年に入るや、GSの対日政策に対するワシントン側の突きあげと政策転換を求めるような干渉が次第に強硬さを増してきた。
ケーディスとしては、この“ワシントンの干渉”をやわらげ、かつGSの方針をつらぬくための説得の必要に迫られた。
ワシントン出張は急を用[要]していたのである」
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.263
トルーマン・マッカーサー会談
引用十月十五日、トルーマン大統領の希望により、太平洋上ウエーキ島でトルーマン=マッカーサー会談が行われた。
それまで二人は顔を合せたことがない(トルーマンが上院議員となった一九三五年には、
マッカーサーはフィリピン軍事顧問としてアメリカをはなれ、以後十五年間一度も帰国していない)。
だからトルーマンがこの厄介千万の現地司令官と一度会って意志を通わせようと考えたのは当然であろうが、
会談の目的は、大統領が翌月の中間選挙をまえにして、勝ち誇る現地司令官と親しく会談することによって、
野党の共和党からの攻撃をかわし選挙の結果を有利に導こうと考えたためだ、というのがいまでは通説である。
マッカーサーはこの会談がなんのため開かれるのかわからないままに、東京を発った。
これまでの史書では、トルーマンの『回顧録』を含めて、会談はきわめてなごやかに行なわれたことになっている。
だが、トルーマンの晩年の回想によると、マッカーサーがこの会談でみせた人を人とも思わぬ行状はほとんど常軌を逸していたという。
トルーマンはサンフランシスコからハワイ経て四千七百マイルを飛んでウエーキ島に到着する。
マッカーサーの東京からの飛行距離は千九百マイルである。
だがマッカーサーはなんとかして大統領の飛行機を先に着陸させようとする。
先に着いた方が迎えに出るかたちになるからだ。
トルーマン機は島の上空を二十分も旋回してようやく後に着陸することに「成功」する。
ところがマッカーサーは迎えに出ない。
大統領は機内で「出てくるまでは地獄が凍りつくまで待ってやるぞ」と坐りこむ。
ようやくマッカーサーが現われたが、総司令官に対する敬礼もせず、やおら大げさな握手をする有様。
とにかく、歓迎式は終ったが、最初に行なわれた二人だけの会談にトルーマンは四十五分も待たされる。
我慢しかねた大統領は入ってきたマッカーサーを怒鳴りつける―「こっちを見ろ。
私は君に会うために地球を半廻りもしてやってきたんだ。
君がハリー・トルーマンという男をどんな風に考えているか、そんなことは私の知ったことじゃない。
だがね、君の最高司令官を待たせるようなことは二度とするな、わかったか」
この会談でトルーマンは単刀直入に、中国共産軍は介入すると思うかと問いただした。
マッカーサーは「どんな事態になっても彼らは介入しないでしょう」と語った
(これまでのどの記録でもマッカーサーは「中共軍の介入はほとんどあり得ないでしょう」と語ったことになっている)。
さらに彼は「大統領閣下、戦争は感謝祭までには終り、アメリカ軍はクリスマスまでには東京に帰還できますよ」
と言いきったという。
マッカーサーの『回想記』では「(次いで行なわれた全員での)会談の終りごろになって、
ほとんどつけたりのような調子で中共軍介入の問題が持出された。
中共は介入する意志はないというのが、会談参加者全員の一致した意見だった」となっている。
ウエーキ島会談は、当時トルーマンが語ったような「極めて満足すべき愉快なものであった」のではなく、
その「成果」は、大統領=最高司令官が現地司令官に対する不信の念をいっそう強め、
現地司令官が最高司令官に対して持っていたもともと少い尊敬の念を霧散させてしまったということであった。
破局は時間の問題であった。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.325
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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