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チャールズ・ウイロビー
1892 - 1972
GHQ参謀第二部長、GHQ民間諜報部長、陸軍少将 / アメリカ
エピソード 1調査中。
引用G2の部長チャールス・ウィロビー代将は、一八九二年にドイツのハイデルベルヒでうまれ、
一九一〇年にアメリカに帰化、軍人としては最下級の兵士からたたきあげて代将(のちに少将)にまで昇進した。
一九四一年にマッカーサー司令部の諜報部長となり、そのまま総司令部の参謀第二部長となった。
もちろんバターン脱出でマッカーサーといっしょだった一人であり、側近としての重要分子であった。
しかし、ホィットニーほどマッカーサーとの関係は緊密でなく、ノックひとつでマッカーサーの室に入ることはできなかった。
彼は、参謀長をとおしてでなければマッカーサーに面接することはできなかった。
どうしてもすぐに面接したいときは、マッカーサーの帰るころをみはからってドアのそとにたち、
マッカーサーが室からでてくるとおどろいた顔をつくって「やあ元帥、お帰りですか、
私はちょうどおめにかかりたいとおもってうかがったところなんですが―」というのだった。
そこでマッカーサーはウィロビーをともなって室にもどることとなるのだが、ウィロビーは、
弁護士あがりのホィットニーとは対照的に軍人精神の権化であり、集権的な官僚独裁の信奉者であった。
マッカーサーについでスペインの独裁者フランコ将軍を尊敬し、フランコ将軍を「現存する第二の偉大な軍事的天才」とほめたたえていた。
ウィロビーは、やがて「占領軍のジョー・マッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風で鳴らした極反動の共和党員)とあだ名をつけられるようになり、
マッカーサーからもときどき冗談まじりに「わが愛するファシスト」とよばれていた。
ウィロビー配下の軍人たちは、
ホィットニー配下のニュー・ディーラーを赤がかったものどもとみて「ピンカーズ」(桃色野郎)とさげすんでいた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅰ」
P.155この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ウイロビー」は「ウィロビー」とも表記されることがあります。 http://www.c20.jp/
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