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コートニー・ホイットニー
1897 - 1969
GHQ民政局局長、米陸軍太平洋軍民政部長、弁護士、陸軍少将 / アメリカ
エピソード 1ホイットニーはマッカーサーの分身。
どこでマッカーサーが終わり、どこでホイットニーがはじまるかわからないと言われ、
その書体までが専門家でなければマッカーサーのものと区別できないという。
マッカーサーがホイットニーの著書をリライトして自らの回顧録としたことに関して、
彼らの部下だったケーディスは、
「二人は全く同じような考え方をしていたのだから、
マッカーサーはホイットニーの本を引用したというよりは、自分自身を引用していたのだといっていい」と言っている。
おそるべしホイットニー。
引用GSの局長コートニー・ホィットニー代将は、一八九七年にうまれ、はじめ軍籍に入ったが、まもなく退官し、
一九二七年から四〇年までをマニラで弁護士としてすごした。
よく切れるので名があり、マニラで活躍中にマッカーサーの知遇を得た。
開戦当時はアメリカに帰っていたが、やがて空軍将校としてふたたび軍隊に入り、一九四三年、
マッカーサーによってオーストラリアによびよせられた。
フィリピン奪回をめざすマッカーサーがまず日本軍へのフィリピン人の抵抗を組織しようとしたとき、
その指導にあたったのはホィットニーであった。
日本占領後、彼はマッカーサー側近の第一人者となり、「どこでマッカーサーが終り、
どこでホィットニーがはじまるかわからない」ほどの信頼を得ていた。
あらかじめの打合せなしにマッカーサーの室にノックだけで出入できたのは、彼ひとりであった。
ホィットニーは、いわばマッカーサーの「国務長官」であった。
彼は、その配下に故ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策に参画したニュー・ディーラーをはじめ、
IPR(太平洋問題調査会)系統の左派の日本研究家ビッソンからミネソタ大学のクィグリー教授や
ノースウェスタン大学のコールグローブ教授のような日本研究の政治学者にいたる多数の専門家をかかえこみ、
日本の民主化政策の中心としてたっていた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅰ」
P.154この本を入手
引用一言でいえばホイットニーはマッカーサーの「アルター・エゴ」、つまり分身であった。
ホイットニーのマッカーサーに対する献身ぶりは完璧であり、それはものの考えから書体までほとんど見分けがつかないほどである。
マッカーサーの名による『山下裁判判決再審理決定書』の原稿は、太い大きな字のペン書きで彼の書体を思わせるが、
それが実はホイットニーの書き下したものであることを告げることができる人は、きわめて少い(マッカーサー記念館の司書、
アレキサンダー大尉はその一人である)。
またマッカーサーの『回想録』は、ホイットニーの『マッカーサー―歴史とのランデブー』からの引きうつし
(もちろん断りなしの)がやたらに多いが、それはケーディス元民政局次長の言によれば「二人は全く同じような考え方をしていたのだから、
マッカーサーはホイットニーの本を引用したというよりは、自分自身を引用していたのだといっていい」ということなのである。
もちろんホイットニーはマッカーサーにないもの、つまり法律家としての訓練と経験をそなえていたが、
その素養はマッカーサーの考え方を補強しこそすれ、あらためさせることは決してなかったことは確かであろう。
袖井林二郎 「マッカーサーの二千日」
P.132この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ホイットニー」は「ホィットニー」とも表記されることがあります。 http://www.c20.jp/
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