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「山本宣治(下)」
参考書籍
発行: 汐文社(1976/02/20)
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書籍: 単行本(398ページ) 目次: はじめに
10 プロレットカルトに身を投じて (大正一三年一月~一〇月)
11 社研のプロカル参加と京都学連事件 (大正一三年一〇月~一五年三月) 12 「無産者生物学」確立の努力 (大正一三年二月~昭和二年四月) 13 労農党支部教育出版部長として (大正一五年二月~昭和二年三月) 14 選挙戦における労農党の初陣 (昭和二年四月~一二月) 15 代議士当選 (昭和三年一月~三月) 16 労農党解散と新党準備会 (昭和三年四月~一二月) 17 第五六議会と闘う (昭和四年一月~三月) 18 山宣の虐殺と労農葬 (昭和四年三月一日~三月一五日) 19 エピローグ あとがき |
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京都労働学校校長としての山宣
引用大正一三年末、桂信三に代って京都労働学校の主事となった谷口善太郎は、
「大正一三年末頃から私が主事になったんですが、その当時の山宣は校長としてもまったく献身的にやっていました。
単に校長、講師としてだけではなく、金は出してくれる、生徒の世話をしてくれる、
そして、われわれ労働者の思想を変革する上であらゆることをやってくれました。
山宣は、労働学校は労働組合に入ってまだ間のない労働者や、未組織の労働者のくるところだから、
その思想変革にはまず最初に一つドカンとやる必要があるという考えをもっていました。
あるとき、君たちのうちだれか精虫を持って来いという。どんな若い労働者でもこう言われてたじたじしないものはない。
みんな驚いたが、勇敢なのがいて、精虫を持って来る。
するとそれを顕微鏡で見せた。
無数の精虫が顕微鏡の上で動いている。
いや驚きましたねえ。これがもし卵子に合えれば一ぴき一ぴき人間になるんだと言うんだな、山本君は。
そうしておいて学生に向って『センチになるな』と言う。
誰だって変な気になるのはあたりまえです。しかも意地が悪い。
その次の週には夜、花山の天文台へつれて行きました。
そして望遠鏡をのぞかせました。
私ははじめてあの輪のあるでっかい土星を見ました。
そして彼はニタニタしながらまたいうんです。
『センチになったらあかんでえ。』みんなかわるがわる望遠鏡をのぞいて黙りこくってしまいました。
一適二億の精虫と大宇宙―一体人生とは何だろうとみんな考えだしたのです。
山宣は『生物学的人間の範囲の思考ではダメなことがわかったろう。歴史をつくることに生きがいがあるんだよ。』と学生に話した」。
と当時の山宣の思い出を語っている。(昭和四六年八月一三日談)
京都労働学校は校長山宣、主事谷口善太郎を中心として、経営上の問題はありながらも着実に発展していた。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.55
山宣の講演「産児調節は天理にそむくか」
引用二月二七・八日の両日にわたって東京日日新聞にのった寄稿は「産児調節は天理にそむくか」という題のものであるが、そこでは、
「『豊葦原瑞穂の国にうまれきて米が食へぬとは嘘のやうな話し』、くふやくはずの折り柄にめぐまれすぎた子宝にとりかこまれて、
四苦八苦の両親の数は多い。
・・・・・・もちすぎたものの苦しみ、産児無調節の結果は、今われわれの目の前に色々な家庭悲劇と街頭寒風に吹きさらされている失業者の群れと、
それから毎年六十万以上も殖えて行くが、満蒙、北南米にも全部送りかねる過剰人口とに明らかに現れている。」
「調節論者の立場から、わが国の子供命名に就いての習慣を見るに、特に子沢山な無産階級の間において、
親たちの望まぬ児がうまれた時、留吉、お末など最早これ以上うむまいといふ親の態度を告白する。
が、さてさうは決心しても、また続いて出来た時は、捨吉なぞとかなり薄情な名をつける人もある。
かうまで名前で駄目を押しておいても、なほ出来た時、ああ又かと嘆声もろとも又吉とでもしておけといふに至っては、
一種絶望的な『あきらめ』の叫びに同情せざるを得ない。」「不幸にしてそんな名を持あはせてる人が憤慨して、
親孝行の要求を鼻であしらひ、或ひは祖先崇拝の宣伝を尻目にかけても、
親からあまりエラさうなことの申せた義理ではない。
所が調節反対論者にいはせると、内心イヤイヤでも構はぬから何にもせよ縁あって宿ったものを産んで育てなければ天理に悖り、
且又国家の前途に害があるさうだ。」
「運命の与ふるがままに、たとへば一年の間にあけずに、ひっきりなしに産めば、その児の生後一年間の死亡率は百分の三五・五、
若し二年間の余裕がはさまれば百分の二五・五となる。
また調節するか、或は自然の成行きで幸にも二年以上間があいた後の子に就ては、乳児死亡率は一八・五である。
・・・・・・つまり反対論者のいふ通り、無制限に産んで多く殺し、子供の棺と母の涙とを濫造するのが果して天理にかなふか。」
などとのべている。
この一文からも判るように、当時の山宣の講演は庶民性まるだしであったし、
しかも関西弁で、話のなかであげる実例はみな卑近なものであった。
関西の労働者・農民はヤンヤと喝采したし、山宣の講演はすばらしい人気であった。
しかしアナーキストや公式主義的マルキストなどの中には、山宣の講演や原稿を下品な漫談だと馬鹿にし、
ヨターリンとか高級猥談家とあだ名し、階級的に信頼できない人物だとレッテルをはるものも多かった。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.57
引用京都府警当局は、七月京大で開かれた学連の第二回大会以降、社研の活動の弾圧の機会をねらっていた。
特に当時京都の特高課長久保田俊は大正一二年の第一次共産党事件で偉功をあげ栄転してきた男であり、
社研の活動のなかに「第二次共産党事件」の種をみつけようとやっきになっていた。
「京都学連事件」の発端は、大正一四年一一月一五日同志社大学構内の掲示板に発売頒布禁止処分になっていた朝鮮自由労働団体外四団体の
『狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ』と題する軍事教育反対運動のビラが貼ってあるのを特高がみつけたことである。
このビラを貼った大浦梅夫(同志社高商三年)を一八日中立売署に同行して取調べ、同時に家宅捜索をした結果、
「無産階級の独裁」「全国教程」「プロレットカルト運動に関するテーゼ」などの印刷物を発見し、
一二月一日払暁京都市の特高刑事を総動員して京大、同志社の社研の中堅メンバー三六名を検束した。
これが京都学連事件の第一次の検束である。
三六名の大部分は二日夜釈放、おそくとも七日までには釈放された。
家宅捜索の結果出てきたものは、スターリンの『レーニン主義の基礎』のなかの
「プロレタリアートの独裁」の章を翻訳した研究会用のプリント以外はめぼしいものはなにもなかった。
一二月四日の京都日日新聞も「泰山鳴動してネズミ一匹も出ぬ有様に府警察部の焦慮深し」と報ずるほどだった。
しかもこの検束と家宅捜索には多くの問題があった。
京大社研の熊谷孝雄を検束するため寄宿舎に乗りこんだ川端署員は、本人の不在中に大学当局に無断で部屋に押入り、
立会人なしで部屋をひっかきまわした。
一二月三日早速京大と同志社の社研は「家宅捜索・検束問題に就て全学生に伝ふ!!」という声明を発表し、
警察の不法行為を糾弾し、池田知事の責任を追及した。
全員が釈放される中で、岡本忠文(医学部三年)が病臥中を検束され留置場で喀血して再起不能となったこと、
柴田平治が拷問にあい全治三ヵ月の傷をうけたことが判り、学生は殺気だった。
一四日京大では約一〇〇〇名の学生が集り学生大会を開き、「一、今回警察当局の採りたる処置に対し府当局並に内務大臣の弁明を求む、
二、今回の事件に関し大学当局の蹶起を望む」という決議をし、大学当局も鈴木事務官、花田学生監が二日知事を訪れ、
四日検事正を訪れて抗議した。
警察の不法を非難する世論がたかまり、警察当局は窮地に追い込められた様だった。
そこに一二年二四日京大法学部教授一同と経済学部教授団による二つの長文の意見書が発表された。
佐々木惣一法学部長がみずから執筆した法学部教授団意見書は、まず行政上の検束で犯罪捜査のための拘留捜査をしたことの不法を非難し、
ついで学問の自由の問題におよび、学問の自由とは研究の手段の自由を含むものであり、
研究の手段として蒐集した資料を捜査の対象としたことは、研究の自由を否定するものであると、
きびしく当局の態度を批判した。
一方経済学部教授団の意見書は、学問の自由をその中心におき、学問研究の自由は、手段の自由、結論の自由、発表の自由が含まれるとし、
手段の自由、結論の自由はいうまでもなく、「発表の自由も亦自由でなければならぬ。
何故ならば吾々が学問の研究に従事するのは単なる論理的遊戯を事とするのでなく、
これによって聊かなりとも国家社会の進運に真の貢献をなさんとする素志に基づくのであるから、
自然吾々は自信ある研究の結果につき発表の自由を要求せざるを得ない。
ところでその主張が往々世論と相容れざることあるは寧ろ当然である」と論じ、
これらの研究の自由は「教授および学生の共に享受する所であらねばならぬと信ずる」(帝国大学新聞、大正一五年一月一日)と、
学生の研究、発表の自由を認める主張を展開した。
この京大の二つの意見書は、東大の美濃部達吉、大内兵衛をはじめ数多くの学者の支持をえた。
そして世論全体が警察を非難しているようにみえた。
大正一四年末の時点では、この事件は同志社社研関係者数名の出版法違反事件程度で終結するだろうと考えられていた。
しかし京都府警当局は手続の合法・非合法など問題にしていなかった。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.84
引用一五日午前三時、京都市内の全刑事が川端、中立売署に召集され、六時活動を開始した。
七時半までに京大社研の淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経三)、石田英一郎、熊谷孝雄(経二)、栗原佑、太田遼一郎、
泉隆、白谷忠三、黒田久太(経一)、山崎雄次(法三)、橋本省三(法二)の一二名と同志社社研内海洋一(経一)、
大浦梅夫(高商三)の合計一四名を検挙し、同時に京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治の私宅、
農民組合事務所、京都地方評議会事務所をはじめ評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、
農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫などの私宅が一斉に家宅捜索をうけた。
兵庫県でも関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道などの私宅など十数ヵ所が家宅捜索をうけた。
同じ一五日東京では村尾薩男(東大文三)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙され、
一八日には京都で鈴木安蔵(京大経一)が追加された。
そして不敬罪にもとわれている石田を除く一七名は一月二六日出版法違反ならびに治安維持法違反で起訴、予審に付せられた。
しかし検挙はこれで終らず一月二七日午後から第二次検挙が開始され、
同日夕刻までに京大社研逸見重雄(経三)、鷲谷武二(文二)、古賀二雄(法一)、藤井米三(経卒)、
同志社社研宮崎菊二、沢田政雄(経一)のほか小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の八名、
翌二八日には黒川健三、原田耕(大阪外語)の二名が検挙された。
その後検挙は四月中旬まで続き、その間に京都社研では武藤丸楠(経一)、池田隆(医二)、大橋積(経卒)、
東大新人会では是枝恭二(文二)、松本篤一(文二)、後藤寿夫(法三)、その他に実川清文(日本大)、
秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙された。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.87
佐山村の年貢
引用城南小作争議の中心は日農京滋連合会執行委員長阪本兵蔵の住んでいる佐山村であったが、
当時の佐山村の年貢は、反当平均収穫高二石五斗に対し、上田一石五斗より下田一石二斗二升までの一升下りの二七階級に分れており、
さらにその上に端枡といって一石につき五升ないし六升を計りべりを補うために地主におさめなければならなかった。
この高率の年貢のため小作農は端境期には米を買わねばならず、農閑期には、出稼しなければ生活できなかった。
不作の年は小作米減免を地主に歎願しなければ生活できず、日農の組織ができる以前は、
歎願の代表をえらぶのに数日もかかり、しかも代表が地主の庭先きに土下座して、頭をすりつけ、
仲介人に口をきいてもらって、希望額の三分の一もききいれてもらえれば上等という状態であった。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.131
城南小作争議での山宣
引用谷口善太郎の話すところによると、当時山宣は大学を辞めさせられたあとでもあり、
宇治の自宅から争議の現場へ長靴をはいて毎日のように出かけ農民の指導に行っていた。
特に谷口が驚いたことは、性教育と産児制限問題の専門家と思っていた山宣が、農民と土質のこと肥料のこと、
トマトやイチゴの栽培法について話し、しかも農民にその指導さえしていたことだったという。
ここでも山宣の青年時代の園芸や蔬菜栽培法の勉強が生きていた。
農民も産児制限の話をしてくれた先生がまさかトマトやイチゴの栽培法や肥料のことにくわしいなどとは思ってもいなかった。
料亭「花やしき」の若主人、京大や同志社の先生という近よりがたい感じはなくなり、
農民は一緒に農業のこと生活の苦しみのことを考えてくれる一人の指導者をみた。
しかも犠牲者がでるとすぐ山宣は早速に差入れをするやら、生活に困っている家族への援助を開始し、救援活動の先頭に立った。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.137
若槻内閣①に対する政友会の中国出兵要求
引用大正一五年七月広東の国民政府軍は、中国統一と帝国主義列強の走狗張作霖打倒のため北伐を開始した。
北伐は急速にすすみ、九月には漢陽と漢口、一〇月には武昌を陥し、一二月には首都が広東から武漢に移され、
国共連立の武漢政府が樹立された。
昭和二年一月の漢口のイギリス租界占領後、イギリスは日本に共同出兵を求めてきた。
政友会や軍部はこれに賛意を表し、若槻内閣に出兵をせまった。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.184
山宣のブタ箱体験
引用山宣は父の死後二週間目の八月二四日、突然宇治署に召還された。
呼び出しの理由は当時山宣が共産党系の理論雑誌『インタナショナル』の発行印刷人であったが、
そのことについて聞きたいことがあるというものであった。
出頭すると、用件はそのことでなく、特に理由を明示せずにただちに検束された。
宇治署では「京都府警察本部の命令だから検束の理由は何であるか分らぬ、兎に角居ってくれ」といって、
二四日から二九日まで六日間宇治署のブタ箱に入れられた。
これは山宣にとってはじめてのブタ箱生活でもあった。
検束は翌日の日没までという法規があるので、毎日夕刻になると係官が「山本さん一寸来て呉れ」といってブタ箱からつれ出し、
宇治署の門前につれて行き、「そこらを半町程ぶらついて帰って来い」といって放され、
それがすむと再びブタ箱に入れられるという日が続いた。
山宣が二九日宇治署から出るときに見た検束文によると、
「山本宣治、右は宇治町塔の島附近を徘徊し、公安を害する行動あけたるに依り云々」という第一日目にはじまり、
第二日目は県神社の社内、第三日目は別の所という具合に、「六日間警察の中で風光明媚の宇治町を悉く徘徊して廻った事になって居る」
という始末であった。
しかも、毎日夕刻散歩に出るのが邪魔くさくなった山宣がある日、
日課をやらずに早寝してしまったため、係官は検束の規定に違反することになるため、
翌朝山宣に懇願して外に出たことにしてもらい帳面づらを合せてもらうということもあった。
あまりにも馬鹿らしい毎日が続くし、しかも山宣の家では父の死後の雑務も多く残っているので、
山宣は宇治署長に圧力をかけることを考えた。
差入れに訪れる母や山中と相談し、宇治署に父の墓標を持ち込ませた。
「丁度三十日は父の埋骨をしなければならないと云ふので、墓標を書く人間が無い、墓標を警察に擔ぎ込んで、
留置所から暫時出まして父の墓碑名を私が書いたと云ふ風な一場」を演じ、
「埋骨式にも現在子供がありながら列せられないと云ふならば警察署それ自身が甚だ先祖崇拝の此孝道を完うするのを阻害するやうなことであるから、
大いに外に出て警察署の不届を宣伝する」とつめよった。
結局山宣は二九日夕刻に釈放されたが、その時、「当分家に籠って居って、支那地方に行かない」という始末書を書くことを求められた。
行きたければ行っても構はぬが、これを書いてくれると出所するのに好都合であるというので、
山宣は一札入れて出所した。
出所してから山宣は同志に聞いて自分の検束の真の理由が判った。
山宣は「支那視察団」の団長に選ばれており、山宣を中国に渡らせないための予防検束であったのである。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.191
引用昭和二年七月一五日、コミンテルン日本問題委員会で「日本問題に関する決議(二七年テーゼ)」が採択された。
テーゼは日本の情勢を、民主主義革命の客観的諸前提も、それの社会主義革命への強行的転化の客観的諸前提も備っているととらえ、
それゆえまず封建的専制勢力を打破して民主主義革命を実現し、ついで社会主義革命へ転化させねばならないという戦略を規定した。
しかも日本の革命の遂行にあたっては、革命の主体的勢力が情勢にたちおくれていることを指摘し、
共産党の質的量的発展と大衆活動の展開を強調し、山川イズム、福本イズムをきびしく批判した。
労農党においても評議会においても実践のなかで次第に福本イズムを克服しつつあったが、
「二七年テーゼ」の方針が具体化されるのは
コミンテルン派遣団(徳田球一、渡辺政之輔、鍋山貞親、中尾勝男、河合悦三、福本和夫、佐野文夫)が一一年帰国し、
一二月初旬に共産党拡大中央委員会を開いてからである。
「二七年テーゼ」は山川イズムに対して「共産党を労働組合の左翼フラクションもしくは広範な労働者農民政党によって
いくぶんでも代用させうるという考えは、根本的に誤謬であり、日和見主義である」と非難するとともに、
福本イズムに対しては、「同志クロキ〈福本〉が提唱した『分離結合』の理論は」
「プロレタリアートの大衆諸組織から党の孤立をまねくような方針」であり、「レーニン主義とは決定的にまた根本的に矛盾している」と非難した。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.207
山宣の総選挙
引用演説会は一月二九日夜七時から山宣の地元宇治の莵道小学校ほか二ヵ所での第一声ではじめられた。
莵道小学校では一二〇〇名にのぼる聴衆を前に応援にかけつけた河上肇も熱弁をふるった。
二月一日には伏見第一、深草第二、竹田小学校で開き、大山郁夫が演壇に立った。
郡部での演説会には補選の教訓が徹底的に生かされた。
糺察隊は弁士隊とつねに連携して、他候補の演説会場に紛れこみ、詳細に各弁士の演説要旨を筆記し事務所に送る、
それに対する反論の原稿をすぐに分担して書いて、翌日同じ会場で演説する弁士に渡し、
「昨日ここで政友会の、民政党の、誰それがこんなことを言ったが、それはこうだ」という具体的な反駁をした。
また他候補の選挙違反を監視し、買収の摘発、臨監の警官の極端な選挙妨害の告発などをやった。
また村から村へと移動する郡部の演説会では、黒っぽい服を着て演説会場の門の両側のワラの中にかくれ、
演説会を聞いて帰る人々の反響を聞き、すぐに次の会場で演説の仕方を是正するなどの努力をしている。
この選挙の時弁士隊長兼糺察隊長であった田村敬男の語るところによると、
南桑田郡の千代川村の時などは、田村の前の弁士はすべて中止になり、
山宣の自動車は途中でパンクして、待てどくらせど候補者は来ず、
田村は資本主義のからくりの話を五時間もしたこともあったという。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.225
河上肇の政治活動
引用河上肇が実際の政治運動に直接関係をもったのはこの第一回普選の労農党応援が最初である。
河上は水谷と山宣の推薦状を書き、演説会に応援弁士として立ったばかりでなく、
大山郁夫を応援するために香川まででかけている。
(この第一回普選で労農党の応援をやったことと、三・一五事件に京大社研の学生が関係していたことなどが理由で、
四月中旬京大を辞めさせられることになる)。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.226
山宣陣営の票読み
引用票読み活動は各地の日農の支部を中心に行なわれた。
市部の労働組合員の家庭では嫁を里帰りさせ、親類、知人、隣家の工作にあたらせ、
その結果を選挙対策本部に報告する、本部からの連絡をうけた日農の支部が再確認するという(当時「ノコギリ引き」といった)労働者、
農民の協力による票がためも行なわれた。
その結果日農が確認した票は一万四千票をこえたという。
弁士隊長の田村が票読みの結果を聞いて「それなら当選じゃないか」といった時、
日農の組合員が「あんたは当選せんと思ってたのか、
わしらは山宣さんに当選してもらうため夜も昼もなく必死でがんばってるんや」といって真赤になっておこったという。
補選の時を上まわる自転車部隊が僻地の農村にビラ、ポスターを持って派遣され、
親戚や知人をたよりに票読みがすすめられた。
開票され発表された得票と票読みの票とでは三百票ほどの差しかなかったという。
その背後には足でかせいだ日農組合員の血のにじむような努力がうかがえる。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.226
引用日本共産党は第一回普選に徳田球一、山本懸蔵、南喜一、杉浦啓一などを労農党から立候補させ、
独自の選挙スローガンをたてて闘った。
そればかりでなく、二月一日には「二七年テーゼ」にもとづく共産党の大衆的基礎確立の方針にしたがって非合法機関紙『赤旗』を創刊し、
労働者・農民の前に公然とその姿をあらわし、
さらに選挙戦のなかでは「天皇と結びついた資本家と地主の議会を破壊し、
労農の民主的議会を作れ!」などの方針をかかげたビラ・ポスターなどを街頭に貼付するなどの活動を通じて、
前衛党である共産党の存在とその方針を大衆に訴えた。
【中略】 しかし一方では総選挙のなかで党の公然化を実行したことのマイナス面も出てきていた。
それは官憲側が党の存在ばかりでなく組織についても相当の知識をえたことであった。
そのために日本共産党は党組織の防衛の対策をたて三月一〇日には「細胞活動の報告についての指令」、
その前後に「組織上に関する指令」を発し、合法と非合法、公然と非公然の問題に関する詳細な指示を与えたが、
その時期には政府・警察当局は一斉検挙方針を決定していた。
三月一五日未明、田中内閣は全国二一の検事局を動員し、全国一斉に大検挙を行ない、
一〇〇〇人をこえる戦闘的労働者、農民、インテリゲンチャを検挙し、
四〇〇以上の労農党、評議会、日農その他左翼団体の事務所を捜索し、数十万点にのぼる書類を没収した。
京都では、三月一四日内務省より一斉検挙の指令を受けた警察当局は検事局と協議し、
一五日午前三時各警察署に刑事を集め打合せを行ない、六時を期して一斉検挙、家宅捜索を開始した。
捜査が行なわれたのは労農党の各事務所、評議会、京大社研合宿所をはじめ三九ヵ所、検挙者は一五日だけで八〇名をこした。
そして警察当局は徹底した拷問によって党員であるかどうかの自供、他の党員名の自白、
党員名簿の隠し場所などの自供をせまり、その自供にもとづいてさらに一八日、二二日に家宅捜索と検挙を行なった。
この間に検挙された者は一〇〇名をこえ、起訴された者は谷口善太郎、宮崎菊二など三一名である。
しかし、事件の内容に関しては四月一〇日の警察当局の発表が翌日の新聞にのったほかは、
九月一〇日三一名の被起訴者の予審終結決定まで記事掲載禁止になっており一般には報道されなかった。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.232
代議士山宣の議会認識
引用山宣は全党員、全労働者農民小市民の要望に対して「私は身を挺して戦ふであらう」と答えている。
しかし無産党の代議士が数名当選したからただちに無産者の要求が実現するのではないかという期待に対しては、
「今日の議会は何等の進歩的役割はない。それは支配階級の民衆欺瞞、圧迫の合法的機関たるに過ぎない。
具体的には・・・・・・ブルジョア二大政党たる政友民政が政権掌握の『タライ廻し』をする手品の舞台たるに過ぎない」と
はっきりとブルジョア議会の限界を示している。
しかしながら、無産大衆が即時実現を希望している要求が多いことに対しては、
「彼等はすべてを与へ、而してすべてを奪はれてゐるからである。
しかも今日の民衆はなほ失ふべきものは鉄鎖あるのみ、獲得すべきものは全世界であることを自覚して居らない」からであるとのべ、
民衆の要求の統一的表現である労農党の政策のもとに「私は全身を犠牲にしてその貫徹の為に戦はんとするものである」が、
「資本家地主との取引によって、これ等の政策が即時実現出来るかの如き空想を、民衆諸君にふり撒く事はもとより私のよくせざる所である」
と、自己の議会内での活動の立場をはっきりと説明している。
そして民衆の要求を真に貫徹させる力となるものは「少数の無産派代議士でなく、
・・・・・・真に強力なる労働者農民大衆の議会外に於ける大衆行動である。
私の議会に於ける全行動はかかる議会外に於ける民衆諸君の大衆行動に徹頭徹尾従属するものである。
これを譬ふれば、私は一本の槍であり、民衆諸君は槍を自由自在に操る武士である。
槍に巨大なる力が加へられてこそ、その穂先はよく鉄板をも貫き得るであらう」とのべ、
桂内閣を倒したのも、普選を実現させたのも議会外の民衆の運動であったことを強調している。
そして労農党の代議士として議会内においてなすべき任務については、
「資本家地主の地位を維持し発展せしめる為の一切の政策に反対し」、
議会の現状を民衆に暴露することによって、
「民衆の政治的自覚、自主的政治への啓蒙を最も効果的」たらしめることだ、と説明している。
民衆が政治的に自覚し、みずから政治の変革に立ちあがるようになった時、
「現下の腐敗せる、また資本家地主階級の独裁に帰着するところの政治支配は打開されるのである」とのべている。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.243
鈴木内相辞任
引用第五五議会の第一の問題は内務大臣鈴木喜三郎の悪辣きわまる選挙干渉の弾劾であった。
鈴木は選挙に先だって知事を更迭し、野党の候補に対してあらゆる種類の干渉をおこなった。
そして選挙違反は野党にきびしく、民政党四六九件一七〇一人、無産党一四八件三〇〇一人の検挙をし、
政友会に対しては六三件一六四人という寛大な態度をとった。
政友会は民政党はじめ野党議員を買収し絶対多数をえようとし、再解散を主張したり停会をもって対抗したが、
二八日鈴木内相弾劾決議案が衆議院で可決され、五月三日鈴木の辞職にまで追い込まれた。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.251
引用蒋介石の北伐が再会され国民政府軍が済南に近づくと、
田中内閣は四月一九日久留米師団五〇〇〇名と華北駐屯第九師団の一部を派遣し済南を占領させた。
第二次山東出兵である。
済南の東北軍は国民政府軍と一戦もまじえず撤退したが、済南に勢ぞろいした日本軍と国民政府軍との間に五月三、四の両日戦闘が行なわれた。
日本軍は国民政府軍の内戦不干渉の要求を拒否し、特派交渉員蔡公時などの政府役人を殺害しながらも、
二〇名程の犠牲者が出たことを理由に、田中内閣は第五五議会が閉会した翌五月八日第三次山東出兵をきめ、
第三師団を派遣し、九日・一〇日の両日済南の総攻撃を行なった。
そのため中国側は三六〇〇人の死者と一四〇〇人の負傷者をだし、済南は壊滅した。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.251
引用田中内閣は三・一五の大量検挙を行なったあと、警察の発表や右翼の活動によって共産主義の恐怖をあおり、
治安維持法を改悪し、最高刑死刑とする苛酷な法案を用意した。
しかしこの法案は議会に提出されたが会期が短かくもとより通過の見込みはなかった。
そのため政府は急いで五月七日議会を閉会し、議会でまったく審議も行なわれなかった改悪案を、
六月二九日緊急勅令によって公布した。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.252
引用六月二九日、勅令第一二九号「治安維持法中改正緊急勅令」が公布された。
これは四月二七日政府より第五五議会に提出され、審議未了となったものとほとんど同一のものであった。
その要点は第一条の改悪であり、
第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ
死刑又ハ無期若クハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ
二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ
十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
というものである。
緊急勅令は「公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ」(大日本帝国憲法第八条)という要件を必要とする。
第五五議会に政府が提案したとき、政友会内部にも反対があり、まして野党や無産政党、学者はこぞって反対の声をあげていた。
政府が議会での成立をさけた法案に二ヵ月もたたないうちに「緊急の必要」が生じたとは誰にも考えられなかった。
その審議にあたった枢密院では、久保田譲、江木千之、松室致などが強硬に反対し、政府に再考をせまり、
年末の通常議会での議案とするようにとせまった。
しかし枢密院の委員会では五対三、枢密院御前会議では一二対五で承認された。
若槻内閣が要請した財政危機救済の緊急勅令を拒否した枢密院が、さほどの緊急性もない治安維持法改悪案を承認した。
しかしさすがに枢密院も、あまりに肩入れしている姿勢なのを感じたのか、
緊急勅令の濫用に警告を発し、社会政策による国民生活の安定に努力するようにとの条件をつけざるをえなかった。
しかし事情はどうあれ、緊急勅令によって死刑法・治安維持法が即日施行されることになった。
これが社会民衆党、日本労働党をより一層右傾化させ、右翼団体の活動をより活発にさせ、
新党準備会の活動をより困難にさせて行くのである。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.256
結党直後の労農大衆党
引用水谷らは、勢力の拡大のために旧労農党のものは誰かれなしに自派であると公表した。
例えば、一月二一日の労農大衆党第一回執行委員会では、日常活動の一つとして水谷と西村信雄両弁護士が無料法律相談所の開設を決めたという
(大阪朝日新聞一月二八日)。
しかし当の西村信雄は、
他人の名前を盗む 水長、神田一派の策動を排せ
労働組合、農民組合員諸君に告ぐ! 京都市御幸町御池に近頃労農大衆党とか云ふ小っぽけな政党? とかが生れました相で、
無産階級の裏切者どもがドサクサまぎれに政党を作ったと聞いて居るが多分其の政党なんでせう。
処が本日の新聞に私の名前を出して此の八人組政党? の法律相談所に私が関係がある様に書いてありましたが、
私はそんなものに何等関係は有りません。
・・・・・・私の名を盗まねばならない程彼等が困って居るのも其れは諸君を裏切った罰でありませう。
今後水長一派の裏切者は色んなペテンをかけて諸君を資本家地主や其の手先官憲に売り渡さうとするでせう。
私は諸君と共に飽くまで階級的立場を守る考にて、水長、神田の如き腐り果てた裏切者と行動を共にする程に堕落して居らない積りです。
以上私は水長等の労農大衆党とは何等関係がないと共に、
それは無産階級の団結を分裂するものであると認めて居る事を諸君に急告致します。
一月二八日
全国農民組合京都府連合会 専任弁護士 西村信雄
と、全くのデッチあげである。と非難している。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.303
山宣、政府の弾圧政策を追及
引用山宣の第三回目の発言は、二月八日予算委員会第二分科会で警察費の用途に関連して発言の機会を作り、
同志たちに加えられた不法検束、不法拘留、拷問の事実をあげ、
政府の弾圧政策を徹底的に糾弾したものである。
そしてこれこそが山宣が議会で命をかけてやった歴史的な暴露演説である。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.318
代議士山宣の決意
引用山宣は議会が終ったあと、東京市議会議員選挙の応援に毎晩のように走りまわっていた。
当時労農同盟は、東京市会議員の候補者として日本共産党の獄中被告唐沢清八を含む八名の候補を立てて闘うことになっていた。
このころの山宣について大山は次のようにいう。
「二月二十四日の夜、私は彼と共に、本所の或る小学校で同志の一市議候補のために応援演説をして、
帰途同じ円タクに乗って省線の上野ステーションまで同行した。
その別れ際に臨んで、彼は何時になく決然として『咽喉を締められて声が出なくなるまでやります』と言い放った。
『もし私の演説が、咽喉をしめられずに終るようなら、それこそ惨憺たる失敗です』彼はこう附け加えて、
晴れやかに笑った。
私はただしっかりと彼の手を握って、短い激励の言葉を発するより外はなかった。
それが彼との最後の別れとなったのであった。」(弔辞)
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.331
引用五日の本会議は午後一時二五分から開かれ、ただちに二日未了に終った事後承諾案の審議に入った。
内ヶ崎の反対討論、新党倶楽部の真鍋勝の警告付賛成、水谷の反対、政友会名川侃市の賛成討論のあと、
政友会原惣兵衛の討論打切りの動議が可決され、山宣の発言は封じられてしまった。
浅原健三など三〇名の要求で記名投票で採決が行なわれ、賛成二四九、反対一七〇で可決された。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.345
山宣暗殺についての警察発表
引用有松特捜課長の報告にもとづいて、ただちに横山警保局長、牛島警務部長、有松特捜課長の談話が発表された。
警保局長は、「取調の結果今の処、政治的には何の意味がなく、単に思想的関係のみの様である。
七生義団に対しては何等処置しようと考へて居らぬ、
また代議士の身辺警戒については特に方針を変更しようとも考えてゐない。」(報知新聞六日夕刊)と語り、
警務部長は、「かかる突発の事件に対しては事あたかも強盗事件が突発する如きものでこれをどうすることも出来ない」(同前)と
警戒の責任をさける発言をしている。
また有松特捜課長は、「私の取調べでは黒田に殺意の作為は無かったが、
若し抵抗したらやらうと思ってゐたやうである。
つまり本人としては殺す意志はなかったが、山本氏に暴行されたので正当防衛の意味で思はず殺してしまったといふことになってゐる。
従ってこれを傷害致死として検事局へ送るべきか殺人罪であるやは甚だデリケートな問題であるが、
若し私がかれを送るものとすれば殺人ではなくて傷害致死で送る」(東京日日新聞六日夕刊)と断定的な発表をしている。
これらの黒田の自白についての発表はすべて警視庁特捜課長有松が五日夜から六日早朝にかけて黒田を取調べた結果として発表されたものである。
まだ山宣の死体解剖すら行なわれる以前のこと、犯行後半日たたぬ時の発表である。
犯罪捜査に責任を負うべき警視庁特捜課長の発言とは思われないほど、あまりにも軽率な発言であり、
あまりにも饒舌である。
さすがに検事局も、警視庁のあまりにも早く発表しすぎた正当防衛論では世論の攻撃に抗しえないと見て、
警視庁の見解をしりぞけ独自の取調べをすると発表した。
また各新聞は警視庁の発表にかえって疑惑をいだき背後関係をあさりはじめた。
有松が饒舌であった理由は、山宣暗殺の糸を引いていた当人が有松であったからである。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.355
多年からの伝言
引用東京の同志たちの最大の悩みは、自分たちが当夜すぐ近くの演説会場に居りながら、
疲れきった山宣を一人で宿に帰らし、むざむざと兇刃に命を堕させてしまったことであった。
上京してくる遺族に対してなんと申訳をしよう、なんとおわびをしようということであった。
夕方東京に着いた山中、奥村の二人は、大山に多年の伝言を伝えた。
「宣治の死は悲しいことですが、全然予期していなかったことではありません。
遺骨は荼毘に附して送り返して下さい。
唯一つのお願いは、宣治の遺骸を旧労農党の党旗でつつんで棺に収めて下さい。
宣治は生前常にその赤旗のことを口にしていましたから、そうして下されば、何にもまして本懐でしょう。」
山宣は議会解散請願運動以来一貫して旧労農党の精神を守りぬいて死んだ、
多年からの伝言を聞いて東京の同志たちは泣いた。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.361
引用山宣ほど民衆に愛され、親しみをいだかれた闘士は少ない。
一度山宣に接した者は、その人柄に惚れ、決して自分たちを裏切ることのない人物と信頼した。
山宣が東大を卒業してから殺されるまでは一〇年もない。
その間に山宣のやった仕事は、「人生生物学」「性教育」「性科学」「産児制限運動」「労働者教育」「無産政党運動」
「左翼の代議士としての議会闘争」「犠牲者救援活動」、実に多方面にわたる。
そしてそれらの各分野がその後多くの人々によって継承され、今日では山宣の闘った当時をはるかにのりこえ発展せしめられている。
しかしそのいずれの分野においても、山宣の果した先駆的な仕事は今日なお光をはなっている。
反動政治は山宣を殺させた。
まさに当時の闘士のなかで、最も惜しまるる最良の人民の子にねらひを定めて殺したといえる。
山宣は「このままでは人民は芋も食えない時代がくる、そんなことのないように戦わなければならない」と話していた。
しかしこのあと、わが国の人民は、芋どころか、芋のツルや南瓜の茎まで食わされる時代がきたのである。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.382
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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