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京都府警、京大寄宿舎などを一斉家宅捜索
1925/12/01
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用京都府警当局は、七月京大で開かれた学連の第二回大会以降、社研の活動の弾圧の機会をねらっていた。
特に当時京都の特高課長久保田俊は大正一二年の第一次共産党事件で偉功をあげ栄転してきた男であり、
社研の活動のなかに「第二次共産党事件」の種をみつけようとやっきになっていた。
「京都学連事件」の発端は、大正一四年一一月一五日同志社大学構内の掲示板に発売頒布禁止処分になっていた朝鮮自由労働団体外四団体の
『狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ』と題する軍事教育反対運動のビラが貼ってあるのを特高がみつけたことである。
このビラを貼った大浦梅夫(同志社高商三年)を一八日中立売署に同行して取調べ、同時に家宅捜索をした結果、
「無産階級の独裁」「全国教程」「プロレットカルト運動に関するテーゼ」などの印刷物を発見し、
一二月一日払暁京都市の特高刑事を総動員して京大、同志社の社研の中堅メンバー三六名を検束した。
これが京都学連事件の第一次の検束である。
三六名の大部分は二日夜釈放、おそくとも七日までには釈放された。
家宅捜索の結果出てきたものは、スターリンの『レーニン主義の基礎』のなかの
「プロレタリアートの独裁」の章を翻訳した研究会用のプリント以外はめぼしいものはなにもなかった。
一二月四日の京都日日新聞も「泰山鳴動してネズミ一匹も出ぬ有様に府警察部の焦慮深し」と報ずるほどだった。
しかもこの検束と家宅捜索には多くの問題があった。
京大社研の熊谷孝雄を検束するため寄宿舎に乗りこんだ川端署員は、本人の不在中に大学当局に無断で部屋に押入り、
立会人なしで部屋をひっかきまわした。
一二月三日早速京大と同志社の社研は「家宅捜索・検束問題に就て全学生に伝ふ!!」という声明を発表し、
警察の不法行為を糾弾し、池田知事の責任を追及した。
全員が釈放される中で、岡本忠文(医学部三年)が病臥中を検束され留置場で喀血して再起不能となったこと、
柴田平治が拷問にあい全治三ヵ月の傷をうけたことが判り、学生は殺気だった。
一四日京大では約一〇〇〇名の学生が集り学生大会を開き、「一、今回警察当局の採りたる処置に対し府当局並に内務大臣の弁明を求む、
二、今回の事件に関し大学当局の蹶起を望む」という決議をし、大学当局も鈴木事務官、花田学生監が二日知事を訪れ、
四日検事正を訪れて抗議した。
警察の不法を非難する世論がたかまり、警察当局は窮地に追い込められた様だった。
そこに一二年二四日京大法学部教授一同と経済学部教授団による二つの長文の意見書が発表された。
佐々木惣一法学部長がみずから執筆した法学部教授団意見書は、まず行政上の検束で犯罪捜査のための拘留捜査をしたことの不法を非難し、
ついで学問の自由の問題におよび、学問の自由とは研究の手段の自由を含むものであり、
研究の手段として蒐集した資料を捜査の対象としたことは、研究の自由を否定するものであると、
きびしく当局の態度を批判した。
一方経済学部教授団の意見書は、学問の自由をその中心におき、学問研究の自由は、手段の自由、結論の自由、発表の自由が含まれるとし、
手段の自由、結論の自由はいうまでもなく、「発表の自由も亦自由でなければならぬ。
何故ならば吾々が学問の研究に従事するのは単なる論理的遊戯を事とするのでなく、
これによって聊かなりとも国家社会の進運に真の貢献をなさんとする素志に基づくのであるから、
自然吾々は自信ある研究の結果につき発表の自由を要求せざるを得ない。
ところでその主張が往々世論と相容れざることあるは寧ろ当然である」と論じ、
これらの研究の自由は「教授および学生の共に享受する所であらねばならぬと信ずる」(帝国大学新聞、大正一五年一月一日)と、
学生の研究、発表の自由を認める主張を展開した。
この京大の二つの意見書は、東大の美濃部達吉、大内兵衛をはじめ数多くの学者の支持をえた。
そして世論全体が警察を非難しているようにみえた。
大正一四年末の時点では、この事件は同志社社研関係者数名の出版法違反事件程度で終結するだろうと考えられていた。
しかし京都府警当局は手続の合法・非合法など問題にしていなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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