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「坂の上の雲(6)」
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書籍: 文庫(375ページ)
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目次: 黒溝台(承前)
黄色い煙突
大諜報 乃木軍の北進 鎮海湾 印度洋 奉天へ |
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引用明治八年、いま第四司令官になっている野津道貫の家に書生として住んでいた旧藩(薩摩)の秀才が陸軍士官学校に入ったので、野津は、
「おまえは日本の工兵を本格的なものにするため工兵科に入れ」
上原は、好古が騎兵を本格的なものとしておこしたように、工兵をそのようにした。
かれは少尉のときにフランスに留学し、イタリア国境に近いグルノーブルにあった工兵第四連隊の隊付になった。
この明治十四年のころ、グルノーブルのような田舎では世界の地図に日本というような国があることをうすうすでも知っているのはよほどの知識人で、
上原は停車場付近の食堂でめしを食っていると、大ぜいあつまってきて、
―汝は何人種なりや。
と、めずらしがった。上原はフランス陸軍の軍服を着ていたから、
ひとびとはいっそう珍奇におもったらしい。
上原が日本の地理的位置を説明すると、
「そんな遠いところから徴兵されてきたのか」
と、口々に声を放って気の毒がった。
日本がどういう国かは知らないが、極東におけるフランスの植民地だろうとかれらはおもったのである。
この上原が帰国後、工兵の育成にあたったのだが、
ただ陸軍は好古を騎兵に専念させたのとはちがい、上原を他にも転じて用いたため、かれが軍政的に工兵に本腰を入れだしたのは、
工兵監になってからであり、その期間は日露戦争の前わずか二年半ほどの期間であった。
この期間に、日本の工兵技術はたしかに面目を一新している。
ただあまりにも多岐にわたって革新しなければならなかったため、要塞攻撃に対する坑道掘進の技術だけはおろそかにした。
上原はのちに、
「あれが失敗であった。
工兵の坑道掘進術と技術がしっかりしておれば、旅順要塞の攻撃法もちがったものになっていたろうし、
あれだけの犠牲をはらわずに済んだろう」
と語り、戦後ただちに「坑道教範」をつくり、明治三十九年、小倉工兵隊において坑道戦に関する最初の特別演習をやっている。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.19
引用ウィトゲフトは東郷艦隊とよく戦い、かれの目的であるウラジオへの遁走があるいは成功するかもしれないという日没ちかくまで奮戦したが、
午後六時三十七分、【中略】 三笠から放たれた「運命の一弾」がツェザレウィッチの司令塔付近に命中し、
ウィトゲフト提督およびその幕僚たちを吹っとばしてしまった。
その直後、第二弾が爆発し、艦長、操舵員など全員を戦死させた。
死んだ操舵員が、死の直前、舵にとりついたまま苦悶して身を左へよじったため、
この大艦が燃えながら左へ左へと方向をとりはじめ、このため二番艦以下が混乱し、陣形がみだれ、艦隊は四分五裂する結果になった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.105
明石への評価
引用明石のしごとは、【中略】 気流を洞察するところからはじまり、それにうまく乗り、
気流のまにまに舞いあがることによって、一個人がやったとはとうていおもえないほどの巨大な業績をあげたというべきであり、
そういう意味では、戦略者として日本のどの将軍たちよりも卓絶しており、
―君の業績は数個師団に相当する。
と、戦後先輩からいわれたことばは、まだまだ評価が過小であった。
かれ一人の存在は在満の陸軍のすべてか、それとも日本海にうかぶ東郷艦隊の艦艇のすべてにくらべてもよいほどのものであった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.187
引用プレーヴェは革命勢力への弾圧を熱狂的にやったため、開戦後五ヵ月目の夏、ペテルブルグの路上で殺された。
殺したのは社会革命党員であった。
下手人は爆弾を投げてプレーヴェの五体を吹っ飛ばした。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.222
引用ガポン神父というのは、どの国の革命期にもあらわれる魅力的な煽動者である。
かれは南ロシアのポルタヴァの農村でうまれ、僧侶を志して神学校に入ったが、在学中、トルストイの思想の影響をうけた。
かれは卒業後、司祭になり、ペテルブルグに出て伝道生活をするうち、工場労働者の暮らしむきの悲惨さに同情し、
「ペテルブルグ工場労働者クラブ」
という団体をつくった。 【中略】 「血の日曜日」の二年前である。
その結成についての資金は、奇怪にも憲兵大尉のズバートフを通じて政府の機密費から出たといわれるが、
真相がどうであったか、いまでもよくわからない。
かれは労働者に圧倒的な人気を得た。
かれほどに労働者から尊敬され、その心を魅了した人物は、ロシア革命史を通じていなかったかもしれない。
その魅力の源泉は、かれの聖者をおもわせるような風貌と、その蠱惑的でさえある煽動演説のうまさによるものであろう。
「どうも怪僧だ」
と、あとで宇都宮太郎に漏らしたところをみても、まともな人物とはおもっていなかったらしい。
大衆を蠱惑するような教祖的人物というのは、多分に催眠術師的であり、
自分自身に対しても華麗な自己催眠をほどこしうる妖しさをもっているのであろう。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.224
引用ガポンにひきいられた民衆は、
「広場にさえゆけば皇帝は会ってくださる」
と、信じきっていた。ロシア大衆は教育の程度がおそろしく低く、それだけに彼等自身、自分の判断力を信じてはいなかった。
そのために信頼しうる宗教的指導者をつねにさがし、いったん信じればその人物を偶像視した。
「ガポン様のいうことなら、皇帝はきいてくださるにちがいない」
と、信じていた。
皇帝はきっと工場主の強欲と官吏の怠慢をこらしめてくださるにちがいない。
かれらの要求はその二つだった。ガポンが起草した、
「請願書」
には、最初その要求しか入っていなかった。
が社会民主主義勢力から個人の資格で参加したひとびとが、それへ革命的要求を帯びた諸条項を挿入した。
この条項が、ロシア宮廷と政府に対し必要以上の警戒心を抱かせてしまった。
ついでながらこの「革命的欲求」とは具体的にはさほどのものではない。
言論と出版の自由、憲法制定議会の召集といった程度の、西欧社会では常識的な内容のものであった。
雪を踏んで冬宮へ近づいてゆくガポンは、どうやら一個のピエロになってしまっているようであった。
かれはかつては労働者に同情した。
しかしながら革命を好まないという立場をとるガポンは、のち秘密警察の手先になり、
労働者を一定のオリに入れて暴発することのないようにするための牧童になってしまった。
その牧童が、時のいきおいに押され押されて、いまや大衆をひきいてその先頭に立っているのである。
ガポンにすれば、冬宮にいる皇帝が、広場の自分たちに対して顔を見せてくれるだけでよかった。
そのだけでかれの面子もたち、大衆の熱気もしずまるであろう。
ガポンは、皇帝が会ってくれれば請願書をうやうやしく奉呈し、あとは雪の上にひざまずいて皇帝を祝福する祈祷でもして解散する。
要するにこの僧侶はその程度のものとしてこの請願デモを考え、その先頭に立ち、賛美歌のほかに国歌を合唱した。
「神よ、ツァーリをまもり給え」
というこのロシア帝国の歌は、ガポンとその民衆の大多数にとって、心からのものであったであろう。
ところが、冬宮広場には近衛連隊の歩兵が待っていた。かれらは、
「この広場に入ることは禁じられている」
と、叫んだ。
叫び声は先頭のガポンにさえよくききとれず、デモの列はそのままの歩度ですすんできたのである。
そのとき、広場の横にあるナルヴァ門から、数十騎のコサック騎兵がサーベルを抜いて駈けこんできたのである。
満州では評判ほどの武威を発揮していないコサック騎兵は、武器をもたないかれらの同胞に対しては途方もなく強かった。
たちまち血しぶきが雪を染め、群衆は逃げまどい、逃げおくれた者は馬蹄で踏みにじられた。
歩兵部隊の一斉射撃は、このコサックの襲撃にひきこまれてはじまったらしい。
襲撃と一斉射撃は、執拗をきわめた。いずれも一度や二度ではない。
くりかえしおこなわれた。場所も、一つ場所ではなかった。
コサック騎兵は、一角を切りくずすと、さらに跳躍して他の一角へとびかかるというぐあいだった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.231
南ア戦争
引用南阿戦争というのは、イギリスが南アフリカに住むボーア人の国を武力で強奪し、半ば成功した戦争である。
ボーア人というのは、十七世紀にオランダから南アフリカに移住してケープ植民地という農業社会をつくったひとびとで、
アフリカーンスと自称してつよい白人意識と宗教心と連帯意識をもつ連中である。
一八一四年に英国はケープ植民地をその版図に組み入れた。
ボーア人はこれをきらい、他に大移動してふたつの共和国をつくった。
トランスヴァール共和国とオレンジ自由国がそれだが、イギリスはさらにこれを合併しようとし、
後世の政治史家がたれひとりほめる者のいない戦争をうかつにもはじめた。
戦争はおもわぬ長期戦になり、悽惨な様相を呈した。
はじめは英国はらくらくと勝った。
開戦後わずか四ヵ月ほどでボーア軍の主力をやぶったために戦争がそれでおわるかにみえた。
戦争は主力同士の決戦的衝突によってカタがつくという伝統的な考え方を当然ながら英国はもっていた。
ところが、ボーア人はその概念をやぶった。
Boersというのはオランダ語の百姓という意味だという。
この百姓どもが、ありあわせの武器をとってゲリラ戦を開始し、事態はその後泥沼に入った。
英国はついにボーア人の全人口とほぼ同数の四十五万という大軍を動員し、
ボーア人をみな殺しにする作戦をとり、その家屋を焼き、その土地を焦土にして、英国の財政そのものがへとへとの状態になったあげく、
やっと条件つきの勝利を得た。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.255
連合艦隊のロシア艦名のおぼえ方
引用いざ実戦の場合、射手が射撃目標を誤ってはなにもならない。
たとえば砲術長が号令をくだして、一番右の艦とか、最前端の艦といったぐあいに命じても、
沖合をすすんでゆく敵の艦隊が、二列三列にかさなってくることもあり、ときには混乱してどれが号令の艦であるかわからなくなる。
このため、目標をその敵艦の位置で指定せず、敵艦の固有名詞そのもので命じることにした。
そのために敵の艦型と艦名を教えておかねばならなかった。
ところが、ロシア名称というのは水兵たちにおぼえにくいため、諳記用の日本語をつくった。
たとえば、「アレクサンドル三世」は呆れ三太にし、「ボロジノ」は襤褸出ろ、「アリョール」は蟻寄る、
「ドミトリー・ドンスコイ」が、ゴミ取り権助といったぐあいにおしえた。
毎日、射手をあつめては艦型図を示し、
「これはなんという軍艦だ」
と、水兵にあてさせるのである。
「水漏るぞです」と水兵が答えれば、三一〇六トンの巡洋艦「イズムルード」のことであった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.295
引用ロジェスウェンスキーの容貌は、神が「非凡さ」ということをテーマに彫りあげるとすればこの顔になってしまうだろうとおもわれるほどに
すぐれた造形性をもっていた。
聡明でよく澄みよく輝いた両眼、端正な鼻と品がよくて意志的な唇、といったぐあいに道具だてを個々にとりあげてもすぐれていたが、
それが顔として総合されてもなお、一個の力を感じさせる容貌であった。
かれはロシアの将官にしてはめずらしく貴族の出ではなかったが、
その容貌は貴族中の貴族であることにふさわしいものであった。
かれは抜群の成績で海軍兵学校を出、尉官時代はその有能さで上官から畏敬された。
佐官時代はおもに陸上勤務であったが、砲術の研究者として優秀であった。
ただし独創的な業績やひらめきはすこしももっていなかった。
さらには海軍省にいたときは事務家としても、物事の処理者としても有能であり、部下に対してもきびしく、
上官に対してもいうべきことはいった。
もしかれの生涯において戦争というものがなかったならば、この不戦の提督はロシア海軍の逸材として国家の内外で大切にされ、
幸福な余生を、どこか暖地の別荘で送ったことであろう。
が、かれはロシアの多くの提督のなかから選ばれ、とほうもない冒険と計算力を必要とする戦争にひきだされてしまった。
なぜかれがえらばれたかについては、かれが侍従武官としてたえず皇帝にしたがい、
たえず皇帝の耳もとでロシア海軍のことについて上申し、意見をのべつづけてきたためによる。
その意見のなかには、不幸なことにバルチック艦隊の大回航という、
英国海軍の提督でも尻ごみするかもしれないところの放胆きわまりない大航海作戦も入っていた。
が、かれが意見をのべていたのはあくまでも侍従武官として、海軍省からは局外の立場からそれをやっていたにすぎず、
まさか自分がその司令長官にさせられるとはおもってもいなかったにちがいない。
が、皇帝にすれば、大ロシア帝国の軍事的敗勢を一気に挽回するために、
雄大な作戦と英雄的な提督を必要とした。
ロジェストウェンスキーは多分に意見の英雄だったかもしれないが、
皇帝にはそういう識別はつかなかった。
もしロジェストウェンスキーが独裁皇帝の侍従武官職でなかったならば、
かれにはこのような航海そのものが至難の作戦であるという悲運におち入らずにすんだであろう。
というより、かれの容貌が、かれの本質とさほどかかわりなしに一個の異彩を帯びているということがなければ、
かれの運命もちがったものになっていたかもしれない。
かれにはひとつの信仰があった。
かれの部下の全艦長がすくいがたい馬鹿者だと思いこんでいることだった。
かれは自分の参謀たちの能力をさえ信じていなかった。
自分以外はすべて阿呆であるというこのふしぎな信仰は、他人がかれの容貌を錯覚したように、
かれ自身もそれを錯覚することからうまれたものであるとしか思えなかった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.315
川村景明の戦っぷり
引用川村景明は、なにやらふしぎなところのある司令官であった。
かつて野津軍隷下の第十師団長であったとき、激戦になると、長靴をワラジにはきかえてのこのこ前戦へ出かけた。
ワラジにはきかえるのは、かれの足の裏に魚の目があったからである。
ワラジのほうが、野山を歩きまわるのに都合がいい。
かれは戦闘の前に、どの師団長もそうするように各旅団や各連隊に対し戦闘命令をくだす。
そのあと、師団司令部に参謀長以下の幕僚をとどめておき、自分は副官と若い参謀をつれて出かけてゆき、
直接、隷下諸部隊の戦闘を見るのである。
「これが楽しみだ」
とさえ、この根っからの薩摩人はいった。あるとき参謀長が制止すると、
「師団長たる自分のしごとは命令をくだすだけでおわっているのである。
あと戦闘が推移してゆくがこの戦闘指導は、参謀長以下がこれを適当にやってゆくがよい。
要するに私は師団司令部にいても用事はない。
だから、私の命令のもとに奮闘している部下のそばまで出かけてゆき、その戦いぶりに接するのである」
と、いった。川村には作戦能力はなく、たれよりもかれ自身がそれを知っていた。
師団長のしごとは統率であるが、かれの統率は後方でやるのではなく、散兵壕に出かけてゆくことでそれをやった。
それをワラジがけでゆくために、兵たちはこの将軍を自分の出身の村の村長のように親しんだ。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.369
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