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血の日曜日事件
1905/01/22
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
やぶをつついて蛇を出す、というが、血の日曜日事件の場合、やぶの中にいたのはほんの小さな、おとなしくてかわいらしい蛇だった。
民衆は、欲張りな工場主や悪い役人をどうか懲らしめてください、皇帝陛下にそうお願いしたかっただけなのだ。
だが、待っていたのは無数の銃口。冬宮広場はたちまち民衆の血で染まった。
皇帝はこの事件で国民の信頼を失い、憎悪を買い、革命の導火線に火をつけてしまった。
やぶの中の子蛇を殺したら、怒り狂った親蛇が出てきたというわけだ。
ニコライ2世は日本人を「猿」と呼んだが、自国民についても「類人猿」ぐらいにしか思っていなかったのかもしれない。
ちなみに、親蛇に手を焼いた彼は、「猿」に勝利することを断念する。
児玉源太郎や東郷平八郎から兵隊さんたちに至るまで、日本人はみんな、ずいぶん頑張ったが、
それでも敵国に親蛇が出現しなければ戦争に勝てなかったとtaroは思っている。
ロシアがやぶ蛇なら、日本はタナボタの勝利!?
引用ガポンにひきいられた民衆は、
「広場にさえゆけば皇帝は会ってくださる」
と、信じきっていた。ロシア大衆は教育の程度がおそろしく低く、それだけに彼等自身、自分の判断力を信じてはいなかった。
そのために信頼しうる宗教的指導者をつねにさがし、いったん信じればその人物を偶像視した。
「ガポン様のいうことなら、皇帝はきいてくださるにちがいない」
と、信じていた。
皇帝はきっと工場主の強欲と官吏の怠慢をこらしめてくださるにちがいない。
かれらの要求はその二つだった。ガポンが起草した、
「請願書」
には、最初その要求しか入っていなかった。
が社会民主主義勢力から個人の資格で参加したひとびとが、それへ革命的要求を帯びた諸条項を挿入した。
この条項が、ロシア宮廷と政府に対し必要以上の警戒心を抱かせてしまった。
ついでながらこの「革命的欲求」とは具体的にはさほどのものではない。
言論と出版の自由、憲法制定議会の召集といった程度の、西欧社会では常識的な内容のものであった。
雪を踏んで冬宮へ近づいてゆくガポンは、どうやら一個のピエロになってしまっているようであった。
かれはかつては労働者に同情した。
しかしながら革命を好まないという立場をとるガポンは、のち秘密警察の手先になり、
労働者を一定のオリに入れて暴発することのないようにするための牧童になってしまった。
その牧童が、時のいきおいに押され押されて、いまや大衆をひきいてその先頭に立っているのである。
ガポンにすれば、冬宮にいる皇帝が、広場の自分たちに対して顔を見せてくれるだけでよかった。
そのだけでかれの面子もたち、大衆の熱気もしずまるであろう。
ガポンは、皇帝が会ってくれれば請願書をうやうやしく奉呈し、あとは雪の上にひざまずいて皇帝を祝福する祈祷でもして解散する。
要するにこの僧侶はその程度のものとしてこの請願デモを考え、その先頭に立ち、賛美歌のほかに国歌を合唱した。
「神よ、ツァーリをまもり給え」
というこのロシア帝国の歌は、ガポンとその民衆の大多数にとって、心からのものであったであろう。
ところが、冬宮広場には近衛連隊の歩兵が待っていた。かれらは、
「この広場に入ることは禁じられている」
と、叫んだ。
叫び声は先頭のガポンにさえよくききとれず、デモの列はそのままの歩度ですすんできたのである。
そのとき、広場の横にあるナルヴァ門から、数十騎のコサック騎兵がサーベルを抜いて駈けこんできたのである。
満州では評判ほどの武威を発揮していないコサック騎兵は、武器をもたないかれらの同胞に対しては途方もなく強かった。
たちまち血しぶきが雪を染め、群衆は逃げまどい、逃げおくれた者は馬蹄で踏みにじられた。
歩兵部隊の一斉射撃は、このコサックの襲撃にひきこまれてはじまったらしい。
襲撃と一斉射撃は、執拗をきわめた。いずれも一度や二度ではない。
くりかえしおこなわれた。場所も、一つ場所ではなかった。
コサック騎兵は、一角を切りくずすと、さらに跳躍して他の一角へとびかかるというぐあいだった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(6)」
P.231この本を入手
引用日露開戦後、ロシア軍の敗報が続々とつたえられるにつれて、かれらの政府に対する反感はつのった。
皇帝とそれを取りかこむ為政者、軍人によってはじめられた対日戦争は、民衆の望まぬ侵略戦争であり、
生活の困窮と出征兵の死傷という犠牲に不満をいだくようになっていた。
遼陽、沙河の敗北につづいて、旅順要塞の陥落を知った民衆の憤りは激化し、首都ペテルスブルグの一工場でストライキが起ったのをきっかけに、
それはたちまち各工場にひろがっていった。
不穏な社会情勢を憂えた工場労働者の指導者である青年僧ゲオルギー・ガポンは、
大衆の苦しい生活を皇帝ニコライ二世に訴えようとし、一月二十二日の日曜日、十数万の民衆を集合させた。
かれらは、聖像と皇帝の肖像をかかげ嘆願書をたずさえ、
「神よ、皇帝陛下にお恵みをあたえたまえ」
と、となえながら冬宮にむかった。
かれらは秩序正しく列を組んで進んでいったが、前方に武装兵があらわれ、発砲した。
民衆は逃げまどい、たちまち千人余が射殺され約二千人が傷を負った。
この虐殺事件は「血の日曜日」と称され、民衆の反政府運動をさらにつのらせた。
吉村昭 「ポーツマスの旗」
P.21この本を入手
引用年の初めから始まったストライキは、しだいに政治的要求をかかげるゼネ・ストの様相を帯びてきた。
この形勢の中で、警察などとも連絡をとりながら、融和的な労働者組織をつくっていた僧侶ガポンは、自己の地位と組織を維持するため、
皇帝に対する請願運動を企画した。
一月二十二日(ロシア暦一月九日)の日曜日、ガポンを先頭に十数万人の労働者やその家族たちが、皇帝の肖像をかかげ、
讃美歌を歌いながら王宮に向かって行進した。
しかしそこに彼らを待ちうけていたのは、皇帝の慈悲ではなく、軍隊によるいっせい射撃だった。
無抵抗の民衆は千名をこえる死者と、数千名の負傷者を出して追いはらわれた。
銃弾は労働者の肉体とともに、皇帝の慈悲への信仰を打ちくだいた。
「血の日曜日」と呼ばれるこの事件は、革命運動に油をそそぐことになった。
抗議ストは繰り返され、そこから革命的蜂起への条件が準備された。
農村でも、地主を焼打ちする激しい農民運動が始まってきた。
プロレタリアートを主力とし、農民を同盟軍として、全人民的蜂起を行なおうとするボルシェビキの革命戦略のための条件が生まれ始めていた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.147この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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