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上原 勇作
1856 - 1933
[ うえはら・ゆうさく ]
陸相、参謀総長、教育総監、元帥陸軍大将、野津道貫の女婿、加山雄三の曽祖父
エピソード 1加山雄三のひいじいちゃんは断固たる人だったようで、
陸相で1度(1912)、参謀総長で1度(1920/却下)辞表を出している。
1度目の辞表はあの護憲運動の発端となる「陸軍のストライキ」だ。
毅然たる態度というよりは、権力をカサに着た傲慢というのが一般の印象だったようだ。
あまり名誉なことではない。
引用明治八年、いま第四司令官になっている野津道貫の家に書生として住んでいた旧藩(薩摩)の秀才が陸軍士官学校に入ったので、野津は、
「おまえは日本の工兵を本格的なものにするため工兵科に入れ」
と、命じた。この青年が、好古と同じ期の上原勇作(のちの元帥)である。
上原は、好古が騎兵を本格的なものとしておこしたように、工兵をそのようにした。
かれは少尉のときにフランスに留学し、イタリア国境に近いグルノーブルにあった工兵第四連隊の隊付になった。
この明治十四年のころ、グルノーブルのような田舎では世界の地図に日本というような国があることをうすうすでも知っているのはよほどの知識人で、
上原は停車場付近の食堂でめしを食っていると、大ぜいあつまってきて、
―汝は何人種なりや。
と、めずらしがった。上原はフランス陸軍の軍服を着ていたから、
ひとびとはいっそう珍奇におもったらしい。
上原が日本の地理的位置を説明すると、
「そんな遠いところから徴兵されてきたのか」
と、口々に声を放って気の毒がった。
日本がどういう国かは知らないが、極東におけるフランスの植民地だろうとかれらはおもったのである。
この上原が帰国後、工兵の育成にあたったのだが、
ただ陸軍は好古を騎兵に専念させたのとはちがい、上原を他にも転じて用いたため、かれが軍政的に工兵に本腰を入れだしたのは、
工兵監になってからであり、その期間は日露戦争の前わずか二年半ほどの期間であった。
この期間に、日本の工兵技術はたしかに面目を一新している。
ただあまりにも多岐にわたって革新しなければならなかったため、要塞攻撃に対する坑道掘進の技術だけはおろそかにした。
上原はのちに、
「あれが失敗であった。
工兵の坑道掘進術と技術がしっかりしておれば、旅順要塞の攻撃法もちがったものになっていたろうし、
あれだけの犠牲をはらわずに済んだろう」
と語り、戦後ただちに「坑道教範」をつくり、明治三十九年、小倉工兵隊において坑道戦に関する最初の特別演習をやっている。
引用上原は日向の鹿児島藩士出身。
元帥野津道貫(薩摩出身)の女婿であるから元来は薩閥の系統であるが、
薩の陸軍が政権から遠ざかると長閥とも接近した。
陸軍部内での上原は博覧強記、頭脳明晰ということになっていた。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.428この本を入手
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