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秋山 好古
1859 - 1930
[ あきやま・よしふる ]
韓国駐箚憲兵隊司令官、近衛師団長、第13師団長、騎兵第1旅団長、騎兵監、陸軍大将、秋山真之の兄
エピソード 1調査中。
引用好古は明治十年(一八七七年)に陸軍士官学校に入り、明治十八年に陸軍大学校を卒業した。
その後、日本陸軍ではじめて騎兵隊をつくり、育成し、日清、日露戦争で大活躍した。
日露戦争では、小部隊の騎兵旅団を指揮して、世界最強と言われるコサック騎兵の大集団をふくむロシアの大軍を破り、
日本軍を勝利にみちびく大功を立てた。
その戦いぶりは、楠木正成、源義経、織田信長に勝るとも劣らないほどである。
好古は大正五年(一九一六年)に大将となり、やがて元帥になると目されていたが、
そのまま大正十二年に予備役となった。
当時の陸相田中義一によると、好古が辞退したからだという。
好古と陸軍士官学校第三期の同期生で元帥となった上原勇作は、
「秋山は典型的な古武士的風格のある武将で、もうこののち、ああいう人間は種切れになるだろう」
と語っている。
好古は無造作、無欲恬淡、豪放磊落、酒好きの大仙人といった男で、部下たちは、器量が大きく、
戦に強い頼もしいおやじと敬愛していたようである。
小柄な真之とちがい、体つきも顔かたちも大きかった。
顔では、きわだって切れ長の大きな目、高々とした鼻、象のように大きな耳がめだった。
将軍になってから、日本のヒンデンブルグと綽名されたが、まさしくドイツ人のようであった。
幼名は信三郎と言い、子どものころは、「鼻信」と綽名されていた。
生出寿 「知将 秋山真之」
P.48この本を入手
引用ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。
一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
運命が、この兄弟にその責任を負わせた。
兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率いざるをえなかった。
騎兵はかれによって養成された。
かれは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、
満州の野において悽惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。
弟の真之は海軍に入った。
「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、
日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。
東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。
作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という電文の起草者でもあった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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