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「坂の上の雲(5)」
参考書籍
書籍: 文庫(413ページ)
目次: 二〇三高地
海濤
水師営 黒溝台 |
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二〇三高地一時占拠
この日、二〇三高地の西南角にあるロシア軍堡塁に香月中佐の連隊が反復突撃し、
ついに白兵戦をもってロシア兵をたたき出した。
白兵戦の闘技は、日本兵はロシア兵よりもはるかにまさっていた。
日本には古来、槍術の伝統があり、それを基礎にしてこのころすでに銃剣術の技術が完成していた。
香月隊は、たしかに西南角の堡塁を占領したが、旅団命令はそれだけで彼らをそこにとどめておかなかった。
―その西南角から鞍部を通って頂上へすすめ。
という命令が、すでに出ている。
ところが、占領したこの堡塁にロシア軍の銃砲火が集中して、顔も出せない状態であった。
旅団命令によれば、西北角をめざす村上大佐の歩兵第二十六連隊と連繋しつつ行動することになっていた。
その村上大佐の連隊が、移動しようにも移動するごとに銃砲火の集中をうけて士卒がどんどん斃れるため、
その主力は、突撃用の基地である第二歩兵陣地(坑路)から身うごきができなかった。
左翼をなす村上の隊がうごけないため、右翼である香月の隊も、堡塁から出ることができない。
香月・村上の両隊とも、銃砲火を浴びつづけて一時間ばかりすくんでいた。
香月隊では、堡塁を出ようとして顔を出した一士官がその瞬間、顔をもぎとられたし、
村上隊でもおなじであった。
これら二〇三高地における日本軍の状況を、海上から双眼鏡で見ていた人の感想が残っている。
「赤城」の艦長の江口鱗六中佐であった。
「味方軍が、二〇三高地の中腹にダニのむらがりついたように見える」
が、ダニの群れは、敵の銃砲火のすさまじさのために動けなかった。
このダニの状況を見ていた旅団長友安治延少将は、村上隊に対し、冷厳な命令を発しようとした。
「陣地を出て前進せよ」
ということであった。
陣地を出ることは、全滅を意味した。が、旅団長はそれを命じた。
ところがこの旅団長の司令部そのものが、このとき老鉄山の砲台から飛来した巨弾のために爆砕された。
旅団司令部は地下室になっている。厚い掩堆でおおわれていた。
それを吹っとばしたほどであったから、その砲弾の大きさがわかるであろう。
巨弾は、ちょうど空中を機関車が走るような音をたてて飛来してくる。
その飛来音の様子を、友安旅団長の副官であった二十四歳の乃木保典(乃木希典の次男)が、
陣中から東京の親戚の少年にあてた手紙の文章を借りていうと、
「露助ノ野郎、大キナ大砲を打ツゼ。踏切ノ下ニ居テ、汽車ノ通ルノヲ聞ク時ヨリモ、モット大キナ音ガスルンダゼ」
ということになる。
このとき飛来した巨弾のために友安の旅団司令部員のほとんどが、即死もしくは負傷した。
無傷だったのは友安とその副官の乃木保典だけだった。
友安は、前線の村上大佐に前進を命じなければならないが、電話線が切れてしまったため、
副官の乃木保典少尉に伝令を命ぜざるをえなかった。
前線への伝令を命ぜられた少尉乃木保典は、剣のつかをつかんで、地下壕からとび出した。
かれは性来快活機敏な性格で、南山で戦死した兄の勝典中尉よりも軍人としては適いていた。
保典は弾雨のなかを駈け、ほとんど奇蹟的に村上隊のすくんでいる第二歩兵陣地へとびこんだ。
かれは村上大佐に対し、友安旅団長の命令をつたえた。
「前進せよ」
ということである。ほかに、いまひとつ伝えるべき命令があった。
旅団司令部の司令部員がほとんど全滅したため村上の連隊から要員をさし出せ、ということであった。
村上は、承知せざるをえない。
―この状況で前進できるか。
とは、村上はいわなかった。
軍隊における命令の重さは、日本陸軍史上、日露戦争のときほど重かったときはないであろう。
「ただちに前進します、と復命せよ」
と、村上はいった。乃木少尉はそれを復唱しすぐさま村上の陣地をとび出した。
が、この少尉はついに友安旅団長にまで復命することができなかった。
帰路、前額部を射抜かれて戦死したのである。
単独で駈けていたため、戦死の状況はついにわからない。時刻は午後四時ごろであった。
乃木希典は、南山と旅順の戦場で、二人の息子を二人ながら喪った。
伝令の乃木保典は戦死したが、かれが伝えた旅団命令は、村上大佐とその隊を動かした。
村上大佐の突撃は、血しぶきとともにおこなわれた。
その一隊は敵の第二鉄条網の前後で一人のこらず戦死した。
すでに村上大佐のもとで生き残っている残兵は百人あまりにすぎなかった。
村上は午後六時この百人をひきいて前進を開始した。
「二十六連隊(村上の隊)がうごいた」
ということが、西南角の堡塁にもぐりこんでいた香月中佐の部隊にわかると、香月はすぐ運動を開始した。
猛進といってよかった。
猛進する以外にない。
脚力がつづくかぎり駈けることによって、途中の兵力損失をわずかでもふせぐことができるのである。
村上大佐の隊も同様であった。
同大佐以下百人を支配しているのは、理性ではなかった。狂気であった。
香月・村上の両隊が、南北呼応してロシア軍の歩兵陣地に殺到した。
ロシア軍歩兵はその陣地に千人いた。
日本軍は約五百人である。
五百人と千人が、それぞれ銃剣をきらめかし、地獄のような格闘を開始した。
ロシア兵は、白兵戦に対して概して臆病であった。つい逃げ腰になった。
白兵戦を勝利にみちびく要素は、無我夢中の勇敢さだけしかない。
激闘は三十分ばかりつづき、ロシア兵が陣地をすてた。
香月・村上両隊にも大きな損害があったが、村上隊はさらに進んでついに午後九時、山頂に達した。
残存者は五十人ぐらいにすぎなかった。
この五十人に対し、友安旅団長は、村上大佐に対し、
「貴官は全滅を顧慮することなくさらに前進して二〇三高地を占領せよ」
と、命じた。古来、東西を問わず、これほどすさまじい軍命令はなかったであろう。
その友安旅団長も、手持の予備兵が二個中隊しかなかった。
友安は、香月中佐にも同様のことを命じ、この香月・村上は両隊は悪鬼のように進んで、
ついに二〇三高地を占領した。ときに、三十日午後十時である。
【中略】
この報が、北太陽溝の前線指揮所にいるコンドラチェンコ少将のもとに入ったとき、同少将は、
「戦争は呼吸とおなじだ。吸うときも吐くときもある」
顔色も変えず、
「三時間後に奪いかえしてみせる」
と、いった。
全旅順の守備兵は、神経質で貴族的なステッセル中将よりもこの農民くさい顔をもったコンドラチェンコ少将の勇敢さ、能力に心服しきっていた。
コ少将は、ステッセルの参謀長のレイス大佐に電話をし、増援を乞うた。
レイスはしばらく考えてから、
「こちらも予備軍が少なくなっていますが、閣下は、どういう方法が最良だとおもいます」
と、反問した。コンドラチェンコは、自分がうけもっている局面だけでなく、戦線の全般に通じていたから、
「他のさほど重要でない堡塁を空家にして、その守備隊を二〇三高地にまわせばどうだ。
さしあたって、三つの堡塁が考えられる」
と、コ少将はいった。
三つの堡塁とは、大案山子堡塁、三里橋付近の歩兵陣地、化頭溝山の堡塁が適当だとおもう、といったから、
参謀長のレイスは即座に同意した。
とくに化頭溝山の守備部隊は全軍できわだって優秀だとされていた。
コ少将は、奪還の手をつぎつぎに打った。
かれは大佐、中佐といった連隊長級の指揮官をまねき、
「兵は、日本軍の突撃を怖れている。
怖れさせないためには、日本軍に対しつねに先制し、日本軍よりさきに、突撃し、また日本軍より勇猛に突撃させることだ。
そのためには連隊長みずからが、剣をふるって兵の先頭に立つ必要がある」
と言い、さらに、
「勝利への方法は確立している。諸君はただ勇敢に行動するだけでいい。
兵をして無用に休息せしめるな。行動だけが、恐怖をわすれさせる」
と、訓示した。
さらにコンドラチェンコは、ステッセルから手榴弾と爆弾の補給をうけた。
手榴弾も効果の大きい武器だが、それ以上に爆弾の効力は大きい。
この手投げ爆弾は、十八フント(約八キロ)もある大きなもので、
登ってくる日本兵に対し山頂から投げおとせば野砲の砲弾よりもっと大きい威力を発揮した。
この爆弾はロシア陸軍の制式のものではなく、この二〇三高地の防御のために、
海軍大尉のボドグルスキーという人物が発明したものであった。
あるとき一弾をもって百人の日本兵を殺傷したこともあった。
コンドラチェンコ少将が、二〇三高地奪還のための準備に用意した最後の一項は、勲章であった。
「この戦局にかぎり、自分にその権限を委譲してもらいたい」
とたのんだ。功をたてた者に、かれは即座に勲章をやろうとしている。
それによって士気を高めようとしていた。
【中略】
時刻は、午前零時前後である。
トレチャコフ大佐は、コンドラチェンコがあたえてくれた補充兵と、数日来の戦闘で疲労しきっている生存兵をひきい、
山頂堡塁とその東南防塁線に布陣し、山頂堡塁の一部を占領中の日本軍とすさまじい戦闘を開始した。
両軍の距離は、走れば十分でゆける程度のもので、要するに両軍は山頂の最高部をへだてて近距離の射撃戦を展開した。
この戦闘のはげしさは、わずか三十分のあいだに両軍の生存者が半数になったことでもわかる。
ただトレチャコフ大佐に有利であったことは、かれにはコンドラチェンコというすぐれた戦闘計算家がついていることであり、
援軍をどんどん送ってきてくれることであった。
が、日本軍の香月・村上の両隊の生存部隊は、信じられないことだが、孤立していた。
どこからも、援軍がなかった。
旅団も師団も、兵力が涸渇しきっていた。
なぜなら、ここ数日の戦闘で、日本軍は五千人以上の死傷者を出してしまっていた。
ここにも乃木軍司令部の計算ちがいがあった。
兵力は小出しに使うべきでなく、必要とあれば大量に使用すべきであり、
あと一個師団の新兵力を二〇三高地の麓に伏せておけば、状況は大いにちがったであろう。
この深夜、二〇三高地の頂上付近で、日露両軍が、文字どおりの死闘を演じた。
トレチャコフ大佐の幸福は、ほとんど敗れ去ろうとしたとき、化頭溝山からの新鋭部隊と、
旅順市街からの陸戦隊を迎え入れたことであった。
増援部隊は兵力にすれば三百人程度であったが、それでも十分な睡眠と十分な食事を摂った兵士たちであり、
対いあっている日本兵が、数日来の戦闘で疲労しきって孤立無援の状態でいるのにくらべれば、
この三百は、驚異的な数字といえた。
この戦闘で、トレチャコフ大佐のサーベルに小銃弾が二つあたった。
このため刀身が抜けなかった。
かれは兵にその鞘のさきを踏んづけさせ、力まかせにひきぬき、そのあとは抜き身のままで指揮をした。
かれは勇敢な将であったが、しかし日本軍の勇敢さには舌を巻いた。
日本軍は疲労しきっているはずであるのに、午前零時半、攻撃を再開するつもりか、一斉射撃を加えてきたのである。
トレチャコフは、日本軍の攻撃再開に先立ってこれを包囲しようとした。
まず、東狙撃兵第五連隊の徒歩猟兵隊を西南山頂へゆかせ、同連隊の第七中隊の半分をもって東北山頂へ突撃させ、
みずからは陸戦隊の一個中隊をひきいて鞍部にむかった。
トレチャコフは、剣をあげて猛進した。
どの兵も左手に銃をもち、右手に爆弾をつかんでいた。
山頂はたちまち数百の火光がきらめき、日本軍はしばらくこの猛攻に堪えていたが、
ついにささえきれず、東北山頂をすてて退却した。
しかし日本軍の退却は一時的なものにすぎず、退却運動から包囲運動に移り、トレチャコフにむかって反復攻撃をくわえた。
この日本軍というのは、兵力的には「軍」といえるようなものではなかった。
村上大佐の連隊は、生存者は特務曹長一人と兵わずかに四十人であった。
香月隊はほぼ百人が生存し、活動していた。
この香月・村上の両隊に対し、旅団はそれぞれ二個中隊を増加した。
それもトレチャコフの猛襲の前にほとんどが斃れ、夜が明けようとするころには、
東北山頂の村上陣地はもとの四十人にもどった。
しかも、弾薬や食糧の補給がまったくなかった。
天明とともに、どの兵の弾薬盒にも一発の弾もなくなり、さらにはこの極度の疲労をわずかでも回復させるべき水さえなかった。
かれら四十人は、勝利者であった。
しかしどの戦史の勝利者よりも悲惨であった。
撃つに弾なく、飲むに水なく、わずか四十人で東北角の山頂をまもっている。
これ以上援軍が来るあてもなかった。
さらに陽が昇ろうとしていた。
陽が昇れば、ロシア軍は東北角の日本軍がわずか四十人であることに気づくであろう。
この勝利者たちをこの惨況に置いた責任は、あきらかに高級司令部がとるべきものであった。
天明とともに四十人の「勝利者」のうち二十人は山をくだった。
ついで残り二十人も降りた。
二〇三高地東北角はふたたびロシア軍のものになった。
しかしなお山頂の西南角は香月隊の残兵が占領し、抵抗をつづけていたが、その自滅は時間の問題であろう。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(5)」
P.43
旅順の下級将校をふくめ兵士たちの大半が、自分たちの運命の握り手であるステッセルの能力について、
「あの将軍では、戦争はうまくゆかない」
ステッセルは、たしかに有能とは言いがたかった。
無能な指揮官が、その無能を隠蔽するために、みずから風紀係になったように軍規風紀のことばかりをやかましくいう例は
軍隊社会にふんだんに見られるが、ステッセルもそうであった。
かれはまるで儀杖兵の指揮官のように行儀をやかましく言い、砲台にチリ一つ落ちていても兵士をどなりつけ、
なによりも軍隊における荘重美を好んだ。
このあたり、バルチック艦隊のロジェストウェンスキーに酷似しているであろう。
が、ロジェストウェンスキーは、その点にあまりやかましいために孤独であった。
しかも孤独をおそれぬ強さがあった。
ロジェストウェンスキーは幕僚のたれをも愛さなかった。
側近を愛さずとも平気でいられる神経をもっていた。
それにくらべてステッセルは、より女性的であったといっていい。
戦前から旅順の社交界の中心人物であったかれは、社交の友を欲し、幕僚のうちでも自分におべっかする者を偏愛し、
その献言をつねに採用した。
このためステッセルのまわりはそういうふんいきが充満し、愚者のサロンというほどでないにしても、
智者や勇者の意見が素直に通るような空気ではなかった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(5)」
P.253
水師営の会見
ステッセルは、四十分待った。
やがて乃木一行が会場の門をくぐったのは、午前十一時三十分である。
津野田は挙手の礼の手をおろしてから、
「ステッセル閣下は到着しておられます」
と、報告した。乃木はうなずき、大股になり、足早に本屋へむかった。
やがて乃木は部屋に入ると、いきなり上席とされている床の側に立った。
この場合、勝利者であるというほかに、乃木が大将であり、ステッセルが中将であるということによって乃木に上席が用意されていたのである。
乃木は立ったままステッセルにむかって手をのばした。
ステッセルも手をのばし、握手した。
(乃木とはこういう人物であったのか)
乃木は立ったままあいさつをした。
そのあいさつを川上俊彦通訳が、ロシア語に翻訳した。
「われわれは君国のために力戦した。
しかしながらすでに戦闘行為は熄み、こんにちのようにして閣下とここで会見できることを、予は最大のよろこびとする」
と述べると、ステッセルはそれを受け、
「予もまた、祖国のために旅順要塞を防守した。
しかしながらすでに開城したこんにち、閣下にここで見える機会をえたることは、予の深く光栄とするところである」
電文とは、
―将官ステッセルガ祖国ノタメ尽シタル功を嘉シ給ヒ、武士ノ名誉ヲ保タシムベキコトヲ望マセラル。
というもので、このためステッセルとその随員に帯刀をゆるしたのである。
乃木はそのことを伝え、
「予もまた能うかぎり閣下のために便宜をはかりたい」
というと、ステッセルは先刻までとは別人のように明るい表情になり、そのことを感謝した。
この応答がおわると、乃木は雑談に移るべく、
「どうぞ」
と、相手に着席をうながし、みずからも腰を固い椅子に落ちつけた。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(5)」
P.316
黒溝台、後日談
「松川さえつれてゆけば大丈夫だ」
と見込んだほどの人物であった。が、結局は秀才にすぎず、児玉の天賦の才質とは異質のものだったという評価もある。
【中略】
黒溝台におけるほとんど敗戦ともいうべき悽惨な戦いの原因をつくったのは、
(総司令部の作戦能力にあるのではないか)
と、好古は考えている。
ただこの男はそのようには生涯ついにひとに語ったことがなく、
「私は黒溝台では負けた。しかし一歩も逃げなかったために、結果としては勝ったかたちになっている」
といったことがあるのみである。
黒溝台の戦いの序幕ともいうべきミシチェンコの大襲撃についても、
その予報を好古はさんざん総司令部に送っていた。
それらの材料および意見は、その後のロシア軍の動きをほとんど的確に言いあてていることからみても、
好古はひとことだけ苦情を松川に言いたかった。
二人は騎行している。
その背後を、永沼秀文中佐がおなじく騎行している。
永沼が、先行の二人の会話をよくおぼえていて、終生、黒溝台のはなしが出るとこのことを語った。
「ともかく難戦というようなものではなかった。
あれだけの悪戦をしてよくもまあもちこたえたものだと思うが、ひるがえって思うとこの悪戦をまねいた原因として
総司令部の手ぬかりがあったように思うが、どうか」
と、好古は婉曲に詰問した。
が、松川敏胤は作戦家の通弊で、自分の作戦のあやまりはみとめたがらず、
「あのときはね、お客さん(ロシア軍)が当然左翼の方から来るはずだと思って、こっちも待っていたんですよ」
と、強弁した。むろんうそである。
総司令部はロシア軍の攻勢に出るということについてはずっと否定的態度でいたし、
まして日本軍の左翼方面に出てくるなどとは思ってはいなかった。
好古はさすがに憤然として、
「それは死んだ連中に対する無礼というものだろう。
お客を待っていたというなら、ちゃんと接待の支度をしておくべきではないか。
なんの接待の準備もしてないところへお客に見舞われたものだからあの大醜態になった。
・・・・・・もともと敵が」
と、好古はしばらくだまり、やがてこの男にしてはめずらしく激しい口調で、
「・・・・・・大集団でやってくるという様子についてあしの手もとから何度も報告し、警報してきたところだ。
そういう予兆を軽視しきっていたためにあの不始末がおこった。
松川、そうは思わんか」
と、なじった。松川はただ沈黙して騎行し、好古もそれ以上はこのことに触れなかった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(5)」
P.364
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
http://www.c20.jp/
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