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「坂の上の雲(2)」
参考書籍
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李鴻章はわかいころ、文官の出身であったが、みずから投じて軍事にも従った。
清国はあらゆる面で末期的現象を示していたが、とくに内乱が相次ぎ、長髪賊がはびこり、
政府軍がはなはだふるわなかったとき、かれは郷里にかえって郷勇(志願兵)を組織し、それを訓練し、
それによって大いに賊をふせぎ、その後、英人ゴルドン将軍と連合して各地に賊をやぶり、
いよいよその材幹をみとめられた。
その後のかれの官歴は絢爛としている。
五国通商大臣をふりだしにほどなく南洋通商大臣をかねた、というこの経歴は、かれを外交上の腕達者に仕あげてゆく。
さらに欽差大臣になり、北洋通商大臣をかね、ついで海軍を建設し、わがくにの明治十九年、全権大臣になった。
北京にいる列強外交団などは李鴻章をおだてて、
「東洋のビスマルク」
とほめたし、日本の外務省などでは、
「夷人ころばしの名人」
ともいった。
あるいはビスマルクより李鴻章のほうがすぐれているであろう。
かれの祖国である清国はドイツとは異なり、内乱相つぎ、政綱みだれ、兵弱く、しかも国土ひろく資源はゆたかであり、
それらにつけ入られて列強の利権欲のえじきにされつつある。
李はそういう困難な状況下でこの国の宰相になり、老大国の体面をたもちつつ、
多くの利権を列強にあたえながらもかれらを相互に牽制し合わせて北京外交の勢力均衡をたもたせようとした。
このあたりは名人芸といっていいだろう。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.45
日清戦争における日本海軍の戦略思想
引用艦が小さく砲も小さくただ速力のみ高いため、日本艦隊は外国の観戦武官から、
「軽艦隊」
といわれた。
軽艦隊としては、最初から敵を轟沈するというのぞみをすてていた。
ことに世界でもっとも防御力のつよい定遠、鎮遠を沈めることは不可能であるという前提のもとに作戦をたてている。
要するに、小口径の速射砲を活用することであった。
日本艦隊はそういう小さな砲の数において清国艦隊に優越していた。
清国が一四一門に対して日本は二〇九門ももっており、
速射砲については清国が新式のものをまったく装備していなかったのに対し、日本は七六門をそなえていた。
そのうえ快速力があり、この高度の運動性を利用して小口径や中口径の大砲を大いにはたらかせ、
敵の艦上施設を破壊し兵員を殺傷することに主眼をおいた。
敵艦をしずめるだけの巨砲をもたなくても、敵の艦上施設や兵員を無力化させることによって「浮かべるスクラップ」にしてしまえば
効果はおなじであろう。この思想と戦法が全海戦を通じてみごとに成功し、
―快速の軽艦隊は、その運用いかんによっては、
重装甲・巨砲をそなえる艦隊をやぶることができる。
というあたらしい戦例がこれによって確立された。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.88
小村寿太郎の未来予測
引用小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。
主義もなければ理想もない。
外国の政党には歴史がある。
人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。
祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。
日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。
日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」
藩閥論。
「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体がない」
ついでながら、小村は日向飫肥藩の出身で、薩長人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、
虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどうころばせてしまうかわからない。
将来、日本はこの空ろな二つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.277
引用ウィッテはこの時代のロシアにあっては傑出した財政家で、アレクサンドル三世とニコライ二世の両帝につかえ、
大蔵大臣をつとめ、のち総理大臣になった。
どちらかといえば非ロシア的な人物で、西欧的教養と思想をもち、ロシアそのものの批判者としてもその言葉はつねに警抜であった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.344
引用清王朝における最大の実力者は李鴻章であったが、この人物は北清事変が片づくとともにこの年、病没した。
かわって声望を高めはじめているのは、袁世凱である。
「梟雄」
とのちにいわれた男だけに、李鴻章よりもはるかに食えない。
李はなんといっても衰亡してゆく王朝の柱石といったところがあったが、袁はそういうまじめさはない。
清朝の臣でありながら、すでに清王朝のほろびを見越して自立する考えをもっていた。
袁は、李が科挙(高等官登用試験)をへた学者であるのに対し、それの落第生あがりである。
中国にはむかしから金で官職を買う「捐納」という制度があったが、袁はその方法で官吏になり、やがて武職に転じ、
兵を養って軍閥を形成して行った。
日清戦争ののちは清国でも軍隊の洋式化がさかんになったが、袁はそれを担当し、
そういう軍隊勢力を背景に政界に進出し、北清事変当時は山東鎮撫という重職についた。
かれがいかに食えぬ男であるかは、北清事変のときの挙動でもわかる。
あのとき清国は義和団と連合してついに列国に宣戦布告するにいたるが、袁はその軍隊を最後まで山東にとどめてうごかさず、
清軍および義和団が壊滅すると、無傷の軍隊をひきいて戦後経営にのりだした。
袁世凱はのちに革命派と手をにぎりあって清王朝をたおし、
初代の中華民国大総統になるのだが、すぐ本心をあらわして帝政をしく謀略をすすめ、自分が皇帝になろうとし、
やがて天下の信望をうしない、混乱のなかで病没するにいたる。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.395
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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