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「概説現代史」
参考書籍
著者: 今津晃(いまづ・あきら)
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発行: 東京創元社(1973/08/30) 書籍: 単行本(484ページ/2段組) 定価: 2300円(税込) 目次: 序章 現代史の始まり
第一章 第一次世界大戦後のアジア=アフリカ世界
第二章 第一次世界大戦後の西洋世界 第三章 五ヵ年計画と世界恐慌 第四章 国際破局にいたる三〇年代 第五章 第二次世界大戦 第六章 二つの超大国の競合 第七章 欧洲の再建と変容 第八章 独立アジア=アフリカ世界 第九章 二極構造の世界を越えて 増補: 混迷の中で |
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引用トルコが第一次世界大戦にまきこまれたとき、イギリスおよびアメリカのシオニスト指導者たちは、
この機会をとらえて、オットマン帝国崩壊後はパレスティナにユダヤ人共和国をつくるよう、協商諸国に働きかけ、
財力を利用して種々の政治的圧力をくわえた。
イギリスの政治指導者たちは、次第にシオニストの立場を支持するようになった。
一つの理由は、アメリカおよびロシアにかず多いシオニスト諸団体を協商国支持に踏みきらせ、
財政上の援助を得ようとした点にあるが、これに関連していま一つには、ドイツおよびトルコに対する危惧の念に由来していた。
つまり、ドイツとトルコが世界シオニストの支持を得るため、なんらかの譲歩を準備しているのではないかという点であった。
ここにおいて一七年十一月二日、ときのイギリス外相アーサー・バルフォアは、
ロスチャイルドにあててつぎのように書いている。
イギリス政府は、パレスティナに「ユダヤ人の国家」を建てることに同意であり、しかも、
「パレスティナに現在ある非ユダヤ人社会の市民的かつ宗教的権利を損うようなことは、何ひとつなされないであろう」と。
このバルフォア宣言が、サイクス=ピコー協定およびフサイン=マックマオン協定に矛盾したことは明白である。
今津晃 「概説現代史」
P.36
引用現代トルコ建国の父といえば、後にアタテュルク、すなわち「最高のトルコ人」として知られたムスタファ・ケマルだということに、
だれも異論はなかろう。
彼は第一次世界大戦中、ダーダネルス地方の防衛で有名をはせたが、トルコ参戦の責任者である青年トルコ党と不和であったため、
戦時中は第一線の有名人にのし上がることがなかった。
しかしケマルの機会は、大戦が終わって講和の段階がおとずれたときにやってきた。
彼は、旧オットマン帝国内のアラブ諸地方を完全に放棄する意志はあったが、トルコ人居住地の東トラキア(バルカン半島東部)を割譲したり、
コンスタンティノープルおよび両海峡に関する条項を呑むことには絶対反対であった。
ところが、戦勝国はこれらの諸条件を押しつけたほか、さらに、小アジアをいくつかの勢力範囲に分割してしまった。
肝心な部分を失ってシリの肉だけ残った、いわゆる「臀部トルコ」の運命は、
かつて「瀕死の鯨」として列強のえじきになった中国の運命にもちかかったのである。
さて、休戦当時コンスタンティノープルにいたケマルは、強硬な民族主義主張のゆえに政府から危険人物視され、
兵員解除の監督という名目で、中央から地方の小アジア東部方面にまわされた。
これを機会にトルコの奥地を旅行した彼は、各地で協商国軍、および首都にある協商国軍の傀儡スルタン政権に対する抵抗団体を組織し、
一九一九年九月までには、民族派会議を召集できるほどの勢力にのし上がっていた。
このような民族主義運動の高揚の中で、一九一九年十月の議会選挙ではケマルの一党が過半数を占め、
翌年一月に開かれた議会では民族の自決、治外法権の撤廃、コンスタンティノープルの安全、海峡問題の新しい解決などをふくむ
六原則の国民協定が採択された。
しかし、協商国軍がこれを黙視するはずはなかった。
かれらはトルコ民族主義の拡大阻止という建てまえから、二〇年三月十六日にはコンスタンティノープルを占領した。
ここにおいて、ケマルは小アジア中部のアンゴラに民族派の代表を召集し、
この地で、自己を大統領としてスルタン政権を否認する臨時政府を樹立した。
今津晃 「概説現代史」
P.37
引用ガンディーは、第一次世界大戦後、インド人の反英闘争においてずば抜けた指導者であり、「偉大な魂(マハトマ)」と呼ばれた。
そもそも、インド人の民族自覚を喚起するため、一八八五年に組織されたインド国民会議は、大戦勃発のころまでは、
イギリスの立場を脅かすような存在ではなかった。
それは基本的に中産階級の組織なり運動なりであり、農民大衆からはわずかの支持を得るにとどまっていた。
ガンディーの偉大な貢献は、みずから農村にとびこんで農民と交わり、農民をインド独立のための闘争に引きいれた点にある。
ロンドンで教育を受けた弁護士ではあったが、彼は本来的にインド的で非西欧的、いやむしろ反西欧的でさえあった。
今津晃 「概説現代史」
P.54
引用彼は、中国の他のどの地方よりも長く西欧の影響下におかれた広東デルタの出身であり、
それゆえ、自身の教養はもともと中国的であるとともに西欧的であった。
少年時代、ハワイの兄弟のもとに身をよせて同地の高等学校を卒業、香港のクウィーンズ・カレッジ、
ついで香港医科大学に学んだ孫文は、一八九二年には医学博士の学位を獲得した。
その人となりは、貧民への共感に満ちていた。
彼自身、あるときにこういっている。
わたしはクーリーですし、クーリーの子供なのです。
わたしは貧民とともに生まれ、そしていまも貧民なのです。
わたしが常に共鳴してきたのは、闘争する大衆だったのです。
確かに孫文は、辛亥革命中および以後を通じて、すこぶる困難な立場におかれていた。
革命中には、外国勢力と結んで独裁権力を強化しようとした袁世凱との戦いに敗れて、日本に亡命したし、
以後も、地方軍閥が中央政府を無視して割拠していたからである。
ここにおいて、孫文は堅く心に誓った。
自己の中国国民党を強化して軍閥を打倒し、統一的近代国家をつくらなければならない、と。
今津晃 「概説現代史」
P.60
引用ベニト・ムッソリーニは労働者階級の出身であり、貧困に打ちひしがれたイタリア東北部、フォルリ県の片田舎に、
社会主義者である鍛冶屋の子として生まれた。
彼は教師の免状をとったが、それをほとんど使わなかった。
彼には、教室での授業よりも革命的アジのほうが適していた。
一九一一年のトリポリ戦争(イタリア=トルコ戦争)のさい、彼は、
イタリア国旗を「肥やしの山の上に立てるしか意味のない棒切れ」だとするアジ演説で注目をひき、
翌年には社会党機関紙アヴォンティの編集者となった。
一四年八月二日、イタリアが中立を宣言した当時、彼はまだ革命家であり参戦反対論者であった。
ところが翌月には、彼に大転向が起こった。
大転向は、イタリアを協商国側にひきいれるため懸命な努力をしていたフランス政府からの基金が原因であり、
以来、彼は自己の新聞「イタリア人民」を発刊して、強烈に戦争を鼓吹した。
一九一五年九月に召集を受けて数週間塹壕の中で戦い、負傷して除隊になってから、一九年三月まで、
つまりムッソリーニが最初の「戦闘部隊」をつくるまで、彼の経歴は判明しない。
今津晃 「概説現代史」
P.87
ニューディールの終焉
引用一九三六年、ローズヴェルトとその一党はわが世の春を謳歌するようであった。
ところが、わずか二年後の三八年中間選挙では、かれらは苦境に立つことになった。
現に三八年選挙では、共和党は下院で新たに八十名、上院で八名を増加し、さらに幾人かの州知事を新たに獲得している。
これにくわえて、民主党自体の中に保守派勢力が目立ってきた。
その結果、三八年以来、議会は実質的に両政党からなる保守派連合の支配下にはいることとなった。
保守派連合が、三五年に制定されたような革新的諸立法を二度と許すはずはない。
三七-三八年において、議会および行政部は大した改革を行なわなかったばかりではなく、いくつかの改革提案を却下さえしている。
したがって、ニュー・ディール改革政策は、それが始まってから約五年後に過ぎ去った、といって過言ではない。
今津晃 「概説現代史」
P.152
ヒトラーへの期待
引用大恐慌前には、いかにヒットラーが現状打破を絶叫しても、国民大衆からこれといった反応を得ることはできなかった。
彼は、大ボラをふくが、大して害のない熱狂者だ、と見なされる程度であった。
ところが国家の経済機能が麻痺し、労働者の半ばちかくが失業するようになって、
はじめてヒットラーは脚光を浴びた。
要するに、国民各個人や国家の受難を一身に引き受け、しかも、将来への指針を与えてくれる愛すべき指導者として
浮かび上がったのである。
今津晃 「概説現代史」
P.160
日本の侵略主義の根底
引用農民や都市労働者における生活水準の低下は、いうまでもなく国内市場の狭隘化を意味していた。
それゆえ、日本の産業は生産品をさばく市場として、とくに国外市場に依存せねばならなかった。
ところが、日本経済の未曾有の発達自体が、国内市場の拡大によるのではなくて、もっぱら世界大戦という異常事態の所産であり、
国外市場への依存性からきていた。
その結果、戦後ただちに深刻な不況がおとずれて、水ぶくれのした経済をたたきのめしたのは当然であり、
さらに一九二七年、日本は、世界恐慌の勃発より二年もまえに恐慌に突入した。
国外市場に依存する必要性はこうして高まるばかりであったが、二九(昭和四)年に始まる世界恐慌は、
ついにこのきずなをも断ち切るにいたった。
二九-三一年に対外貿易は五十パーセントがた減退し、ひいては国民生活に致命的な打撃を与えた。
今津晃 「概説現代史」
P.169
満州事変が意味すること
引用振り返ってみれば、満州事変は、国際連盟をはじめ現状維持のために設けられた外交構造全体、つまりヴェルサイユ条約や
ワシントン会議や不戦条約、に対する最初の痛撃であった。
そして、日本が広大で資源に富む満洲をやすやす獲得したという事実自体が、イタリアやドイツの食指を動かさずにはおかなかった。
満州事変は、究極は第二次世界大戦をもたらす侵略政策の鎖の第一環となったのである。
今津晃 「概説現代史」
P.175
1938年2月のヒトラー
引用一九三八年二月十二日、ヒットラーはオーストリア首相クルト・フォン・シュシュニックを、
バイエルンのベルヒテスガーデンにある山荘によびよせ、長時間にわたって毒説をぶった。
シュシュニックが第二次世界大戦後の一九四七年に公刊した著書『オーストリア鎮魂曲』の中から、当時の模様を拾ってみよう。
ヒットラーはいう。
わたしはただ命令を下すだけのことだ。そしてたった一晩で、貴下の滑稽な防衛機構全体がこなごなに砕かれてしまうのだ。
貴下は、三十分間わたしを停止させるとか、または遅延させることができるなどと、真剣に信じますまいね。
地上の何ひとつとして、わたしの決定を妨げているものがあるなどと、金輪際考えてはならない。
イタリアはどうだって? わたしはムッソリーニとは目と目を合わす仲だ。
・・・・・・そして、イギリスはどうだって? イギリスはオーストリアのために一指も動かさないだろう。
・・・・・・そしてフランスはどうだって? そうだ、三年まえ、われわれはひとにぎりの部隊でラインラントに行進したが、
そのときは、わたしが万事につけ冒険をやっていたときだった。
当時もしフランスがわれわれを制止したら、われわれは退却したことだろう。
・・・・・・しかし、いまはもうフランスはおそすぎるのだ。
今津晃 「概説現代史」
P.193
ズデーテン併合
引用ベルヒテスガーデンでの会合において、ヒットラーは民族自決を楯にスデーテンの併合を要求し、
この目的を達成するためには「世界戦争も辞さない」旨をほのめかした。
チェンバレンはヒットラーに敗け、帰国後、まず自国閣僚を、それからフランス政府を納得させた。
ついでイギリスとフランス両国政府はチェコ政府に、ドイツの要求を呑むよう勧告した。
チェコ政府がこれを蹴ったとき、両国政府は、チェコを見捨てるという威嚇など、あらゆる手を使って圧力をかけてきた。
九月二十一日、チェコは新国境をイギリスとフランスとが保障するという条件で、ついに屈服した。
翌九月二十二日、チェンバレンはボン南方の都市、ゴーデスベルクに飛び、ヒットラーと領土割譲についての手続きだけを
打ち合わせようとした。ところが、ヒットラーはさらに新しい要求をつきつけてきた。
チェコは人民投票をまつことなく、また軍事的・経済的施設を撤去ないし破壊することなく、
圧倒的にドイツ人の多い地区を即時放棄せよ、というのである。
それのみかヒットラーは、ポーランドおよびハンガリーによるチェコへの領土的要求をも支持したのであった。
今津晃 「概説現代史」
P.196
ミュンヘン協定の反響
引用ミュンヘンでの西欧側の降伏がその国民一般に人気があったということは、注目に値する。
会談に臨んだチェンバレンとダラディエとは、熱狂的群集によって平和の調印者だと称賛された。
そしてヒットラーが、「これはわたしが欧洲でなさねばならぬ最後の領土的要求である」と声明したとき、
イギリスやフランスの国民一般は感謝の念をもって、彼の言葉を信用した。
今津晃 「概説現代史」
P.197
引用四〇年五月十日、ドイツ軍はオランダとベルギーを攻撃し、二日後にはフランス攻撃を開始した。
オランダは五日間で降伏し、五月末にはベルギーも降伏した。
この間、ドイツ軍はマジノ線の北端を疾駆してアルデンヌの森に進撃し、セダンでフランス軍の戦線を五十マイル突破、
一隊はアミアンを西進して、五月二十一日にはイギリス海峡に到達した。
今津晃 「概説現代史」
P.212
引用六月四日にダンケルクからの撤兵が完了すると、こんどはフランスの苦悶が始まった。
翌五日、ドイツ軍は南方進撃を開始し、十三日にはパリを占領、さらに二日後には、一九一六年の戦闘でドイツ軍が敗北した因縁の地、
ヴェルダンに進撃した。
ドイツ軍のパリ入城とともにフランス政府はボルドーに移り、ダラディエに代わって三ヵ月まえから政権をとっていた
ポール・レイノーは辞職して、アンリ・ペタン元帥が後を継いだ。
ドイツ軍に和を求めたのは、皮肉にも、この「ヴェルダンの英雄」であった。
六月二十二日、フランス側はきびしい休戦条項を呑んだ。
場所はコンピエーニュ、これまた皮肉にも、前大戦でドイツが休戦条約を結んだ因縁の地であった。
そして、休戦条約の結果成立したヴィシー政府は、第三共和国憲法を廃し、国会を無期停会とし、大統領制を廃して、
ペタンみずからが国家の元首となった。
敗戦フランスの政治変革はドイツやイタリア全体主義体制の採用を意味し、大革命以来のフランスの伝統を破るものであった。
他方、このようなドイツの絶対優勢の戦況を目撃したムッソリーニは、漁夫の利を望んで、
フランス降伏の十二日まえに参戦した。
今津晃 「概説現代史」
P.213
モスクワ会談 (1944年10月)
引用ドナウ渓谷へのソ連軍の進撃でドイツ軍がバルカン半島を放棄した後は、共産化したレジスタンス部隊が真空地帯を埋め始めていた。
共産主義のバルカンという前途への不安こそ、四四年十月、チャーチルがスターリンにモスクワ会談を申しこんだ理由であり、
両者はバルカンでの勢力範囲について、いちおうの諒解に達した。
会談の結果、ブルガリアとルーマニアはソ連圏内、ギリシアはイギリス圏内、ユーゴとハンガリーは英ソ共同勢力化の緩衝地帯
ということに決められた。
要するに、共産主義勢力の増大という現状認識から、イギリスはバルカン北部でのソ連の優位を認め、
代わりにギリシアに対しては、自国の伝統的優位を保持しようとしたのであった。
今津晃 「概説現代史」
P.253
ヤルタ宣言
引用ヤルタでの諸交渉の大部分は、新たに解放された東欧をどう処理するかにかかっていた。
最終決定は延期されたが、領土変更については、前大戦後に引かれたカーゾン線を修正して、それ以東のポーランド領をソ連が獲得し、
ポーランドは代償として東ドイツの一部を与えられることとなった。
なお、ポーランドおよびユーゴに関するスターリンの要求は、ソ連の監視下ですでに成立している共産党政権をば、
亡命政府代表の承認を得て確実にするという点であった。
もしそうなれば、ポーランドおよびユーゴにおけるソ連軍と共産党勢力との支配権は名実ともに不動のものとなる。
予想どおり、ローズヴェルトもチャーチルもスターリンの要求に反発したが、
双方の意見が調整されたのが、米英ソ三国共同の「解放欧洲に関するヤルタ宣言」であった。
本宣言の目的は「人口中のあらゆる民主的要素を広く代表し、自由選挙を通じて人民の意志に応える諸政府の可及的速やかな建設を意図した、
臨時政府当局の結成」にあるとされた。
額面どおりに受けとれば、右の宣言はスターリンの譲歩であったといえる。
東欧を実力で解放し、現実にこれを占領していたのはソ連軍であったにもかかわらず、
スターリンは、反ソ政権の樹立にいたるかもしれない自由選挙に同意したのである。
しかし、彼の譲歩がどこまで実質的であったかは疑問といわねばならない。
そもそも、「解放欧洲に関するヤルタ宣言」自体が、署名国によってさまざまに解釈された。
アメリカは字義どおりに解釈し、宣言は自由選挙を約束し、東欧には勢力範囲を設けないことをうたったものだとした。
前年十月チャーチルとスターリン間に結ばれたモスクワ協定に拘束されないアメリカは、自由な立場がとれたわけである。
これに対して、イギリス側の解釈は明確さを欠いていた。
モスクワ協定でイギリスはギリシアに自己の勢力を確保したものの、
もし宣言が字義どおり解釈されれば、すでに放棄したルーマニアおよびブルガリアへの発言権を回復する機会もあったからである。
ところがローズヴェルトやチャーチルとは反対に、スターリンはモスクワ協定を盾にとり、
ヤルタ宣言は飾り物にすぎないとした。
さきにも触れたように、彼はイギリス軍がギリシア抵抗部隊を撃退しつつあったとき、用心深く沈黙を守っていた。
ところが、いざヤルタ会談に臨むとなると、西側がバルカン北部でのソ連の優位を尊重すべきことを滔々と論じた。
そして、チャーチルが次第にローズヴェルトに味方して、字義どおりの解釈を主張するにつれ、
スターリンの驚きと不満とは大きくなった。
彼は終始、東欧の共産党「友好」政権こそソ連の安全に絶対必要、という姿勢を貫いたのである。
東欧をめぐるソ連と英米との見解の相違は、一九四五年七-八月にポツダムで開かれた三国会談で明確となった。
アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズは、ソ連にたてついてこういった。
「合衆国は、ロシアがその境域に友好諸国をもつことを衷心から希望はする。
しかし、これら諸国は特定の政府とよりも人民との友好を求めるべきだ、とわれわれは信じる。
したがって、われわれは人民を代表する政府のほうを欲する。」
スターリンは即座にきり返した。
「これらのどの国でも、自由選挙による政府は反ソ的となるであろう。
それをわれわれは許すわけにはいかない。」
「友好的な」政府を求める立場と、「自由選挙」の政府を求める立場との対立が、
つぎの数ヵ月間に「大同盟」の崩壊をもたらす要因となるのである。
今津晃 「概説現代史」
P.255
引用「武装した少数者や外部の圧力による征服の意図に抵抗しつつある、自由な諸国民を援助することこそ、
合衆国の政策でなければならぬ。・・・・・・ギリシア国家の生存そのものが、今日脅かされている。
・・・・・・トルコの将来は、全世界の自由を愛する人々にとって、ギリシアの将来に劣らぬ重要性をもっている。」
こう謳い文句をならべた後、トルーマンは、ギリシアおよびトルコ援助のため四億ドルを協賛するよう議会に要請した。
この要請が許可された瞬間から、アメリカは、一世紀にわたり東地中海を支配してきたイギリスに代わって、
異なった世界への冒険に乗り出すこととなるのである。
今津晃 「概説現代史」
P.264
引用経済的領域でトルーマン・ドクトリンに相当したのがマーシャル計画であり、本計画は一九四七年六月五日、
ハーヴァード大学における国務長官ジョージ・C・マーシャルの講演に端を発した。
マーシャルはいう―少なくともここ二、三年間、欧洲では需要のほうが支払い能力をはるかに越えるであろうから、
「世界に正常で健全な経済を取り戻させるのを援助するために、合衆国がなしうることをつくすのは当然である。
健全な経済なくしては政治的安定も、恒久平和もありえない」と。
こうした対外援助の申し出に続いて、翌年四月には欧洲復興計画(ERP)、一般にマーシャル・プランとして知られる計画が発足し、
五一年末の満期までには、総額一二五億ドルが投ぜられた。
そして、これにより西欧十六ヵ国は急速に経済再建をとげ、工業生産および生活水準は戦前を上回るようになった。
しかし東西関係という見地からすれば、マーシャル計画は冷たい戦争を決定的にした政策といわねばならない。
本計画をアメリカ帝国主義の暴逆だと非難したソ連およびその衛星国は、戦時中からの相互援助条約を発展させて、
一九四七年十月、ワルシャワで共産党情報局を結成した。
コミンフォルムはフランスおよびイタリアをふくむ欧洲九ヵ国の共産党代表からなり、
はじめ本部をユーゴのベオグラードに置いたが、後にウクライナ、アルバニア、フィンランド、東ドイツの各共産党が加入し、
四八年にユーゴが除名されてからは、本部もルーマニアのブカレストに移された。
それは、情報局という名称から想像されるような情報交換機関にとどまるものではさらさらなく、
実は戦時中に解散されたコミンテルンの再開であり、加入国共産党が協力し、全力をあげて「アメリカ=イギリス帝国主義への闘争」を行ない、
内外の反共・反革命分子を批判・粛清することを主目的とした。
たとえば四七年末、コミンフォルムが、共産党に指導されたフランス労働組合のゼネ・ストを支持したのは、
その性格をよく示している。
今津晃 「概説現代史」
P.265
イタリア総選挙①
引用チェコ政変後二ヵ月して行なわれた共和国イタリア第一回総選挙は、世界の注目する出来事であった。
およそ、一国の総選挙がこれほどまでに大きな国際的重要性をもった例は、世界史にかつて見当たらない。
アメリカ在住のイタリア人は、本国の友人・親族に共産主義反対の投票を勧めるよう、合衆国政府から勧告されたし、
合衆国政府も友誼のしるしとして二十九隻の船舶を贈呈し、もし共産党が勝利した場合、イタリアへのいっさいの援助を絶つ旨をほのめかした。
ソ連もまた友好的態度を示したことはいうまでもない。
結果は西側の勝利に終わり、キリスト教民主党が過半数、共産党が第二党となったが、
米ソの圧力がくわわったこの選挙は、異常な緊張を内外に喚起したのである。
今津晃 「概説現代史」
P.267
国共内戦勃発
引用一九二八年、北伐を完了して蒋介石が中国の支配者となったとき、彼の国民党政府は当初から二つの強敵に、
つまり国内の共産党と、外からの日本勢力とに直面せねばならなかった。
第二次世界大戦中、彼の立場はとりわけむつかしくなった。
けだし国土は、日本軍に席捲され南京の傀儡政権に統治された東部と、
首都延安を拠点とし共産党に支配された北西部と、首都重慶を拠点とし国民政府に支配された西部および南西部とに分断されたからである。
しかも、蒋政権が致命的な打撃を受けたのも、戦時中であった。
これまで蒋は、保守的な地主層と大実業家とから支援されてきたが、日本軍の進撃によって東部沿岸地方の大実業家勢力はほぼ一掃され、
内陸の利己的で近視眼的な地主層しか頼れなくなった。
これにくわえて、腐敗行為のはなはだしい蒋政権自体が、戦争の被害を受け階級的にも自覚した農民層の要求に答えられる政権とはほど遠かった。
ところが中国共産党は、農村根拠地での土地改革によって農民大衆の支持を得、またよく訓練された能率的組織をもつことによって、
支配地域に秩序をもたらした。
総じて中国共産党は、外敵の侵入を防ぎ国家再統一のために献身する愛国者というイメージを与えた点で、
国民党の比ではなかったといってよい。
日本の降伏後、その旧占領地をどう処理するかをめぐって国共が抗争を開始したときの状況は、以上のとおりであった。
民族大衆に人気のない蒋政権と、愛国者としてクローズ・アップされた中国共産党、両者抗争の帰結は数年後に証明された。
ともあれ内戦がさし迫ると、一九四五年十一月、アメリカはジョージ・C・マーシャル元帥を特使として派遣し、
調停をはかったが、結局は失敗に終わった。
マーシャルの来華当時から始まった国共両軍の衝突は、翌年六月、国民政府による総攻撃命令によって、
本格的な内戦となったのである。
今津晃 「概説現代史」
P.268
引用日本の降伏とともに米ソ両軍は朝鮮に進駐し、三十八度線を暫定的な境界線とした。
ところが冷戦の到来とともに、ドイツの場合と同様、境界線は凍結され、一九四八年九月、北に朝鮮民主主義人民共和国が成立すれば、
八月、南には大韓民国が成立していた。
指導者は北が金日成であり、南が李承晩であった。
これら二人の指導者は南北朝鮮の対立を、したがって二つの世界の対立を象徴した。
まだ三十歳代の金日成は、モスクワで訓練を受け、朝鮮共産党の書記を勤め、満洲事変以来、抗日地下抵抗組織の闘士として知られていた。
七十歳を越え、世紀転換期から抗日運動を続けてきた李承晩は、ハーヴァードおよびプリンストン両大学の卒業生で、
プリンストン時代は政治学者ウッドロウ・ウィルソンの熱心な学生であり、朝鮮人海外亡命者の長として、
何十年もアメリカおよび中国で暮らした人物であった。
今津晃 「概説現代史」
P.272
フルシチョフ政権掌握
引用マレンコフが首相となってから二年たらずで、彼の勢力は衰えを見せ、フルシチョフが台頭してきた。
一九五五年はじめ党中央委員会は、ソ連の経済および軍事力を基礎として「従来どおり」重工業を本命にする、という決議を行なった。
同年二月には、マレンコフ自身が不適格の理由で首相の解任を申し出た。
とくに彼は、農業政策のうえでの自己の誤りを認めた。
その結果、国防相のブルガーニンがフルシチョフの推薦で首相となり、ジューコフが国防相に昇進した。
マレンコフの解任はフルシチョフの台頭の第一歩であった。
第一書記のポストを利用して、この抜け目ない政治家は以後三年以内に競争者をつぎつぎに蹴落とし、
一九五八年には名実ともにソ連の支配者となった。
マレンコフのつぎにはモロトフが(五六年)、ついでジューコフが(五七年)、それぞれ解任された。
五八年三月、フルシチョフはブルガーニンに代わって首相となり、
かつてスターリンがそうであったように、首相兼第一書記という権力の座についたのである。
今津晃 「概説現代史」
P.296
フルシチョフのスターリン批判
引用一九五六年二月に開かれた共産党第二十回大会で、党第一書記フルシチョフは蜒々四時間にわたるスターリン批判演説を行ない、
スターリンの度を越した自己賛美と権力の濫用とを非難した。
その後まもなく、彼は自説の一部を修正し、スターリンの間違いは「革命の成果を守るため」、
当時としては止むをえないものであったとした。
今津晃 「概説現代史」
P.297
東西ドイツ分断
引用各占領地区の、政治的再編成をいちおう終了した後、占領軍当局は、連合国管理理事会を通じて、
各地区間の経済的連繋をはかろうとした。
しかしこのころから、おもに賠償問題をめぐって米ソ関係は冷却し始め、東西ドイツの経済関係に水をさした。
ついに四八年六月、西側は独自に西ドイツの通貨改革を断行した。
これこそ東西ドイツ間にわずかに残されていた協調の可能性を一掃し、ドイツの分立化を決定する出来事であった。
なるほど新通貨は西ドイツの統一にこそ寄与したが、反面ではソ連による新通貨への非難、両占領地区の隔絶、
ベルリン封鎖、東西ドイツ間のいっさいの通商断絶(四八年六月-四九年五月)という結果をもたらしたのである。
今津晃 「概説現代史」
P.313
引用ティトーとスターリンとの不和は、すでに終戦の年から起こり始めていた。
不和の原因はトリエステ問題をめぐってであり、ティトーは、ソ連が適切な支持を与えてくれないことに不満をいだいた。
しかもティトーが、ユーゴ共産党の独立性を守り通そうとするにつれて、両者の不和は拡大していった。
ついに一九四八年春、ソ連側が軍事・技術顧問を本国に引き揚げ、ティトーとその一党を、
理論的誤謬とソ連への敵対行為という理由でコミンフォルムから除名するにおよんで、不和は公然たる衝突となった。
そしてこれに続いて、ソ連とユーゴとのいっさいの経済的・軍事的紐帯が切断された。
今津晃 「概説現代史」
P.334
北朝鮮の自主路線
引用六七年九月、平壌での建国二十周年式典において、金首相は自主独立路線を強調した。
すなわち、自主路線を堅持し、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの新興独立国や民族解放組織との連帯を強めて、
「アメリカ帝国主義」への広範な闘争を展開するのが、自国の外交基本方針だというのである。
こうした自主路線強調の背景には、国力の充実もさることながら、共産圏内での流動的状況が作用していた事実を認識する必要がある。
中ソ論争以来、北側は中国寄りの路線をとってきたが、フルシチョフ首相失脚の前後から再びソ連に接近し、
中国の文化大革命後、中朝関係はさらに冷却した。
めまぐるしい国際的動きの中で、自主路線が国是とされたのは当然といえよう。
今津晃 「概説現代史」
P.371
スエズ動乱
引用エジプトは、軍部が国王ファルーク一世の腐敗政権をくつがえした一九五二年に、大きな変革をとげた。
新エジプトの指導者はガマル・アブデル・ナセル大佐であり、五三年から共和国大統領として、
ほとんど絶対的ともいうべき権力を行使した。
政権獲得後のナセルの目標は、二四〇〇万の住民の生活水準を引き上げるために農業改革、天然資源の開発、工業化を行なうことであった。
事実、彼の改革によって、王制時代は奴隷状態の農民も「貧農」程度となったし、
都市では工業開発が進むとともに、労働者は最低賃金制、有給休暇制、ボーナス制などの恩恵を受けるようになった。
ナセルの社会主義は、マルクス主義的な階級闘争とプロレタリア独裁という方法をとらず、
全階級の調和による無階級社会の実現に目標をおいたのであり、これが小市民層にも歓迎されるゆえんとなった。
殊に、ナセルの計画の中で最もきわ立ったのは、ナイル川のアスワン近くにおける巨大ダムの建設であった。
このような大事業には、当然、巨額の資金が必要とされた。
はじめ英米は本計画への財政的援助を意図していたが、ナセルが西側の干渉を非難する一方、
共産圏からの財政的援助をも期待していることがわかると、両国はかつての申し出を撤回した(五六年夏)。
もっとも英米による援助撤回の措置の背景には、中東条約機構への誘いを、
ナセルがアラブ中立の建てまえから拒否した事情もからんでいたのである。
ここにおいて、ナセルは報復のためスエズ運河国有化を宣言し、国有化からあがる収入をアスワン・ダムの経費に当てると主張した。
これがスエズ危機の発端である。
スエズ運河国有化宣言によって、世界は大戦争に突入するかという危機的様相を呈した。
しかもこのとき、いま一つの間断ない紛争源、つまりイスラエル=エジプト間の国境紛争が再開された。
五六年十月二十九日、英仏に支援されたイスラエル軍がエジプトのシナイ半島に侵入してスエズ運河に向かったというニュースに、世界は震駭した。
英仏側の要求は、イスラエル=エジプト両軍が運河から撤退し、運河地帯の英仏独占を承認せよ、というのであった。
ナセルが要求を拒否したとき、イギリス航空爆撃機はエジプト領内に上陸した。
まさしく一触即発の危機であった。
この一触即発の世界危機が回避されたのは、何が原因であったのか。
国連が一役演じたことは事実である。
しかし、より重要なのは、英仏の行動がアジア=アフリカ諸国の強い批判をこうむったという点に帰せられる。
イギリスが手を引いたのは、一つには国内での反対意見や多くのデモ行動によるが、いま一つは、
インドおよびパキスタンからの強い反対が理由となっていた。
インドとパキスタンは、もしイギリスが手を引かないなら、英連邦から脱退すると警告したのである。
ナセルとネールとの世界は半世紀まえのセシル・ローズの世界とは違っていたということを、スエズ危機は立証したといってよい。
今津晃 「概説現代史」
P.375
人民公社
引用第二次五ヵ年計画の最もいちじるしい特色は、人民公社の設立に認められる。
人民公社は集団農場をさらに合同したもので、数千の農家をふくみ、おびただしい広さにわたる。
こういう新しい経済・社会単位をつくった当面の目的は、農業の能率と生産高とを増進させようとした点にある。
しかしその究極目的は、厳格な組織化と集団生活とによって、中国伝来の家族制度を一掃しようとした点にあると考えられる。
公社の成員は共同で働き、共同の生活をする。
子どもは公社内の養育所にあずけられる。
いっさいの絶対必需品は補給されて、賃金をカヴァーする。
ここにはまったく新しい型の共産主義社会が、すなわちソ連にも見られなかったほど革命的な新社会の形成が、
意図されつつあったといって過言ではない。
五八年十一月までに、実に全国の農民の九十九パーセントが公社にはいり、
それまでの七十四万余の農業協同組合が二万六〇〇〇の人民公社に組織された。
たんに農村だけでなく、公社は都市にも導入されてきた。
確かに、人民公社運動には行きすぎもあり、混乱も起こったが、それは農業の不作に処して効力を発揮した。
六〇年および六一年に到来した未曾有の大天災は、
もし人民公社がなかったなら、三〇〇〇万の餓死者を出していたかもしれないのである。
今津晃 「概説現代史」
P.396
ハンガリー事件
引用事件は五六年十月二十三日、ブダペストで始まった。
ポーランド事件に刺激されて、大デモ隊はラーコシの辞任と、民族派のイムレ・ナジ支持とを叫んだ。
秘密警察が紛糾に油を注ぎ、抗議デモは暴動へと発展していった。
こうした中で政権はナジに移ったが、暴動はさらに拡大して全国におよんだ。
政権をとったナジは、二人の非共産主義者を閣僚にいれ、
集団化を廃止し、自由選挙を約束し、赤軍を説得して戦車をブダペスト郊外に撤退させた。
それでも事態はおさまらなかった。
急進分子は共産党(動乱後は社会主義労働者党)本部をおそい、また赤軍の最終的撤退を要求した。
要するに彼らは、反ソ連だけでなく反共産主義の立場を表明したのである。
すなわち、ポーランド暴動の場合のような、ソ連圏内での自治にあきたらず、西欧型の民主主義を
―モスクワの指令やワルシャワ条約の規制から離れた西欧的な行き方を―欲した。
このような要求は、東欧におけるソ連安全保障体制の維持にとって、おそるべき脅威であった。
十一月一日、赤軍は戦車を引き返して、ブダペスト攻撃に向かった。
首相ナジはここにおいて、ハンガリーを中立国と宣言し、ワルシャワ条約を破棄して国連に訴えた。
だが、外からは何の援助もこなかった。
アメリカは大統領選挙に追われていたし、英仏はスエズ出兵の最中であった。
暴動は完膚なきまでに粉砕され、ヤノジュ・カダールを首相とする共産党独裁の新政権が成立した。
ハンガリー事件の犠牲はおびただしかった。
かず多くの死傷のほかに三万五〇〇〇人が投獄され、戦闘員十八万六〇〇〇人が国外にのがれ、
五八年には、ナジとその一派がモスクワの指令で処刑された。
今津晃 「概説現代史」
P.412
ド・ゴールの中国承認
引用六四年一月、彼はワシントンからの再三の抗議にもかかわらず、共産主義中国を承認した。
その説明がうがっている―「あるがままの世界を認めたまでのことなのだ」
「この(アジア)大陸では、中国にかかわりなくして平和も戦争も想像できないし、また、われわれフランス人が
とくに関心を払っている東南アジア諸国に対しても、中国の参加なくして中立条約を結べるなどと考えること自体、
荒唐無稽である。」
今津晃 「概説現代史」
P.427
イラン革命
引用国王の近代化政策と反体制派抑圧で揺れていたイラン情勢は、七八年八月、石油都市アバダンでのテロを導火線に騒擾となった。
反体制派はイスラム教シーア派に左翼や知識人が合体した勢力であり、ストやデモは全土に拡がって王制打倒が叫ばれた。
国王は軍政を布いたが、年末にはまたもテヘランで大規模なデモが行なわれ、新年早々、国王はエジプトへ出国せざるをえなくなった。
その直後、イスラム教原理派の指導者ホメイニ師がパリから帰国し、暫定政権をへて春にはイスラム共和国を宣言した。
今津晃 「概説現代史」
P.471
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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