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「人民中国への道 ― 新書東洋史⑤/中国の歴史 5 ― 」
参考書籍
著者: 小野信爾(おの・しんじ)
この本を入手
発行: 講談社(1977/05/30) 書籍: 新書(209ページ) 定価: 円(税込) 目次: 序章
第1章 侵略と抵抗
補足情報:第2章 専制王朝の終焉 第3章 救国の方途を求めて 第4章 抗日戦争 第5章 人民解放戦争 むすび
「人民中国への道」は鮮紅の血で敷きつめられている、
それは中国の人びとの偽らぬ実感であるにちがいない。
そしてそのかなりの部分の責任が、いや量的には最大部分の責任が、
以下の各章で述べるように日本軍国主義・帝国主義にあることを、
われわれは留意すべきである。(序章)
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三角貿易
引用よく知られているように、対中国貿易の一方的入超に苦しんだイギリスは、
茶、絹の輸入に対抗できる輸出商品の開発につとめ、一七七三年、アヘンを選定した。
イギリス資本主義は、行政的な強制措置によって、インドの農民、職人の手織木綿の生産を継続不能の境遇に追いこみ、
かれらを自国の機械製綿布の消費者に変え、その購買力を保証するためにアヘンの生産を強要し、
生産されたアヘンを中国に密輸して茶、絹を買い、さらには現銀を吸いあげる、という三角貿易を完成させたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.17
天朝田畝制
引用地上に築く太平の天国の青写真を示し、
なお続く革命戦争への士気を鼓舞するために、天京奠都後、洪秀全らは「天朝田畝制度」を公布した。
「田有れば同に耕し、飯有れば同に食い、衣有れば同に穿き、銭有れば同に使い、処として均匀ならざるはなく、
人として飽暖せざるはなし」という理想を実現するために、
すべての農地は公有され、一六歳以上の男女に平均に分配される。
自給分以上の生産物はすべて国庫に納めて私有を許さず、冠婚葬祭などすべての費用は公共で負担する。
社会生活は二五家を一単位とし、生産・消費・信仰・軍事を一体化したシステム(郷官制度)のもとに営まれる。
中国歴代の農民戦争がかかげてきた均産平等の理想、大同社会の理想を具体化した農民的共産主義の綱領であった。
天朝田畝制度は、太平天国の支配領域が終始安定しなかったために、
結局、試みられないままに終った。
小野信爾 「人民中国への道」
P.29
アロー号戦争
引用ロシアとのクリミア戦争(一八五四~五六)が終ると、
イギリス・フランスは極東に兵力を廻す余裕をもった。
五六年一〇月、イギリスは、元香港船籍の中国人所有船アロー号―実は海賊船
―が、清朝官憲に拿捕された事件を口実に、
無理難題を両広(広東・広西)総督葉名深(※)につきつけ、
さらに中国膺懲のため共同出兵を、仏・米・露に申し入れた。
経済力に劣るため、もっぱらカトリック伝道を侵略の手段として利用していたフランスは、
五六年二月、違法に広西に潜入して布教中の仏人神父が地方官によって逮捕・処刑された事件を理由として、
さっそくこれに応じた。
五七年一二月、英仏連合軍は広州を占領し、
無抵抗主義で対応しながら降伏を拒んだ葉名深(※)は、インドに連行された
(五九年、カルカッタで客死)。
翌五八年五月、連合軍は北上して白河河口の大沽砲台を簡単に占領し、天津に迫った。
いうまでもなく清朝が太平軍との戦いに忙殺されているすきに軍事恫喝をかけたのである。
【中略】
天津占領の脅迫に清朝は、狼狽して条約交渉に応じた。
五八年六月、清朝はイギリス、フランスと天津条約を締結したが、
①外国公使の北京駐在、②漢口・営口など一〇港の開港、③各通商港および揚子江への軍艦の乗入れ、
④領事裁判権の拡大、⑤対英四〇〇万両、対仏二〇〇万両の賠償支払いなどが、その主たる内容であった。
一〇月、天津条約を補充して通商条約善後条約が上海で結ばれ、
①アヘン輸入の公認、②外国人の税関行政への参加、③従価二・五パーセントの子口半税納入による厘金の免除などが
取決められた。
小野信爾 「人民中国への道」
P.37
厘金
引用厘金は、太平天国討伐の軍費を調達するために、
臨時に施行された制度であって、交通の要衝に徴税所(税下(※))を設け、
通過する貨物から価格の一~二パーセントの強制寄付(厘捐)を徴収したのがはじまりだった。
地方税だったため、徴税所はいたるところに設けられ、重複して課税されたため、
近距離はともかく遠隔地間の商業は大打撃をうけた。
国民経済発展の方向に逆行して、中国の国内市場は極度に細分化された。
もともと戦乱の収束とともに廃止する約束の超悪税であったが、洋務事業の財源とされて実行されず、
一九三〇年代まで実質的に存続した。
欧米資本主義の侵略に対抗するためには、中国自体が早急に資本主義化をはかる以外になかったが、
アヘンとともにこの厘金が、その可能性を封じ、芽を押しつぶす役割をはたしたのである。
厘金体制のもとで、中国の在来輸出品は国際競争力を年とともに失った。
小野信爾 「人民中国への道」
P.46
引用彼女は葉赫那拉を姓としたが、名は知られていない。
彼女ほどの人物でも名を記録されないほど、男の絶対優位が確立していた旧中国で彼女が独裁者の地位に就き、
かつこれを保持しえたのは、ただ一つ、同治帝の生母であるという資格にもとづくものであった。
満州人としてはウダツのあがらぬ地方官の娘に生まれた彼女は、
咸豊帝の後宮の女官となり、皇帝の寵をうけ男児を出産したことで、貴妃(定員四)の位まで昇りつめた。
咸豊帝が死に、一粒種のその子載淳が五歳で皇位を継承すると、太后の尊号を贈られ、
咸豊帝の皇后だった慈安太后(通称東太后)とともに「垂簾聴政」することになった。
「同治」という年号には、だから「同に治める」の意を含ませてあるのだという。
「垂簾聴政」とは幼帝に代って母后が政務を覧ることである。
だが儒教倫理の建前では認められることであっても、前述のような女性蔑視の体制下では「垂簾」政治はめったにおこなわれず、
長い中国の歴史でも漢の呂后、唐の武后など数えるほどしか例はない。
ことに清朝では、こうしたばあい皇族を摂政に立てるのが常識であった。
事実、咸豊帝の没後、権臣たちはその方向で準備を進め、年号も「祺祥」と内定していたほどであった。
ところが権勢欲に燃える二六歳の西太后は東太后を抱きこみ、
朝廷内の新興勢力=洋務派のリーダー恭親王とひそかに連絡をつけ、
電光石火のクーデター(祺祥の獄)で旧権臣一派を屠りさった。
かくて成立した「同治」新体制では、東太后は飾り物にすぎず、実権は西太后、恭親王の手中にあったが、
野心満々たる西太后はやがて恭親王をも退け、権勢をその一身に集めたのである。
西太后はいったん手にした権力は、どんなことがあっても手放さなかった。
一八七五年、同治帝が急逝した。
子がなかったので皇族のなかから嗣子を選び、即位させねばならない。
しきたりからいえば同治帝に世継ぎを立てて当然だったが、
そうすれば西太后は太皇太后に格上げされて「垂簾」の資格を失うことになる。
彼女は実妹の生んだ四歳の載恬(※)(醇親王奕環(※)の子)を
咸豊帝の嗣子とし、自分は義母として「垂簾」を続けることとした。
祖宗以来の嗣法を乱す、この強引なやりかたに死をもって抗議する役人さえあったが、彼女は意に介さなかった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.50
日清戦争
引用一八九四年、朝鮮の農民が東学党の指導で決起し(甲午農民戦争)、
李朝の封建支配体制をおびやかした。
六月、朝鮮国王の救援要請に応じて清国軍が出兵すると、この機を待ち望んでいた日本は挑発を繰り返し、
主戦派につきあげられた李鴻章が軍隊の増派を決定すると非常手段に出た。
七月二五日、海軍が豊島沖で、二九日には陸軍が成歓・牙山で清軍に先制攻撃をかけ、
八月一日、正式に宣戦を布告したのである。
陸上では日本軍はたちまち清国軍を圧倒した。
海上でも九月一七日の黄海海戦で、日本連合艦隊は新鋭高速艦の利点を発揮して北洋海軍の老朽巨艦を撃破し、
制海権をにぎった。
日本軍はさらに東北(満州)に進み、旅順・大連を占領(一一月)、山東半島に上陸して北洋海軍の基地威海衛を攻略、
残存艦船を降伏させた(九五年二月)。
連戦連敗に清朝は動転した。
淮軍が頼りにならぬならと、急遽前線に送った湘軍も日本軍の敵ではなかった。
日本が直接、天津・北京を衝くというポーズを示すと、清朝はついに講和を請うことになった。
日清の講和条約(下関条約)は、四月一七日に調印された。
遼東半島および台湾、澎湖諸島の割譲。賠償金二億両の支払い。
重慶など五港の開港。
開港場における製造業経営の承認(内地工業権)などが、その主な項目である。
ただ、ロシア、フランス、ドイツの三国の干渉によって、遼東半島は清朝が三〇〇〇万両で買戻すことになったのは
周知のとおりである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.59
日清戦争日英密約説
引用時あたかも帝国主義の幕開けであった。
欧米列強は安い労働力と原料を求め、過剰資本の投資先を血眼で探している時期であった。
日本国臣民ハ清国各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ従事スルコトヲ得ベク
又所定ノ輸入税ヲ払フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清国ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
下関条約第六条第四の一節、いわゆる内地工業権の承認である。
南京条約以来、さまざまの主権や権益を列強に剥ぎとられながら、
清朝が最後の一線として固守してきたこの権利を、日本は戦争によってもぎとったのである。
しかも、最恵国約款によって、それはただちに列強を均てんする。
経済侵略にとって最後の障壁が取り除かれたのである。
奇妙なことに、経済力の弱い当時の日本にとって、
この権利はしばらくは宝の持ちぐされであり、まっさきにこれを活用して工場を中国に設立したのはイギリスであった。
そんなところから、この条項を下関条約に入れたのは日本自体の要求ではなく、
イギリスの指しがねだったのだ、という通説があり、当否をめぐって学界でもまだ決着がついていない。
しかし、イギリスは日清開戦の直前、日本国民の悲願であった条約改正を承認して日本政府を鼓舞し、
ロシアの南下を防ぐために日本を利用するという政策をうち出しており、
日本も朝鮮・中国への進出にイギリスの了解をとりつける努力をしていたなど、情況証拠はかなりそろっている。
いずれにしても、日本の作った突破口から列強は先を争って中国に突入した。
小野信爾 「人民中国への道」
P.61
戊戌政変
引用専制政体の建前からすれば、皇帝の命令は絶対であった。
だが、事実は矢つぎ早に下される上諭は役人たちに冷笑をもって迎えられ、
棚ざらしにされただけであった。
官僚や紳士たちのほとんどは、自己の既得権を侵し、地位を危うくする一切の改革に反対であり、
しかも西太后を総帥とする朝廷主流が、変法を実際行動で粉砕すべく、すでに動きはじめているのを知っていたからである。
西太后は、変法開始の直後に腹心を直隷総督に任命して軍事力を掌握し、
帝党の総帥翁同蘇(※)を罷免して変法派から政治的助言者を奪った。
一時は投機的に変法派に近づいていた張之洞など洋務派の大官も、この時期にはまったく離反し、
変法派の孤立は日ごとに深まった。
守旧派の圧倒的捲返しによって、新政はすでに風前の灯のごとき状態にあり、
西太后派のクーデターは着々と準備が進んでいる。
変法派は焦った。
九月一八日、譚嗣同は光緒帝の密詔を受け、かつて変法運動に同情と理解を寄せた新建陸軍の統領袁世凱に
逆クーデターを働きかけたのであるが、いったんは快諾してみせた袁世凱は、
その夜のうちに計画を西太后側に通報してしまった。
九月二一日、西太后は頤和園から紫禁城に帰り、光緒帝を監禁した。
変法派・帝党が宮廷から一掃されただけでなく、康有為はじめ主だったメンバーには逮捕令が発せられた。
いわゆる戊戌政変である。
梁啓超、康有為は日本公使館を頼って国外に亡命し、譚嗣同ら六人は刑場に消えた。
朝廷は反動一色に塗りつぶされた。
上からの改革に期待をかけた知識人たちの幻想は、みごとに打ち砕かれてしまったのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.67
清国、日本など8ヵ国に宣戦布告
引用義和団が河北に発展したとき、
西太后はこれを匪賊・乱民としてやつぎばやに弾圧の命令を下した。
だが、北京も天津もまたたくまに、外国侵略者との決戦を求める義和団員とその支持者で埋まり、
清朝は完全に行動の自由を失ってしまった。
西太后が義和団を公認し、列強に宣戦を布告したのは、一時しのぎの方便にすぎなかった。
だから清朝は鉄砲を供給せよ、という義和団の要求を拒み、
民衆が原始的な刀と矛で八ヵ国連合軍に立ち向うことをよぎなくさせた。
義和団鎮圧のために列強の軍隊を導入したも同然だったのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.74
引用西太后は北京脱出後、連合国との講和交渉を李鴻章に託した。
両広総督だった李鴻章は、張之洞・劉坤一ら華中・華南の洋務派系総督・巡撫とともに、
公然と清朝の出兵命令を拒否し、列強と互保協定を結んで中立を宣言していた。
清朝はかれらの抗命を処断するどころか、その張本人に講和の全権を委ねるという醜態を演じた。
義和団の闘争は大清帝国を事実上の解体にまで追いこんだのである。
「中華の物力を量り、与国の歓心を結べ」
―自分の地位の保全を条件に、金で済むことなら糸目をつけるなと
西太后に命ぜられた李鴻章らは、一九〇一年、辛丑の九月、連合国と議定書をとりかわした。
辛丑条約ともいう。
そこには六七五〇万ポンド=四億五〇〇〇万両、三九ヵ年賦で元利合計九億八〇〇〇万両という法外な賠償金の支払い、
列強の軍隊の北京・天津・山海関などへの駐屯、大沽砲台など北京への自由往来を阻む防衛施設の撤去、
北京の各国公使館所在地域の治外法権化等々、過酷かつ屈辱的な条件が規定され、
中国は実質上、列強の共同管理のもとにおかれた。
清朝皇帝の上に各国公使団なる太上皇帝が君臨することとなり、
アヘン戦争いらい六〇年を過渡期として、中国の半植民地体制がここに完成した。
小野信爾 「人民中国への道」
P.75
清朝末期の利権回収運動
引用一九〇四年、四川省民は川漢鉄道(四川―武漢)の自弁のために、
公司を設立して株式の募集を開始した。
一九〇五年には広東・湖南の省民が、アメリカのもつ粤漢鉄道(広州―武漢)の敷設権を六七五万ドルで買いもどすことに成功し、
さらに蘇杭甬鉄道(蘇州―杭州―寧波)の利権をイギリスから奪回しようとして、
江蘇、浙江省民の闘争が高揚した。
山西、安徽では鉱山利権の回収に成功し、他の各省でも大小の利権回収運動が、ねばり強く展開された。
こうした運動を指導したのは、開明地主、商工業者たちであったが、
学生・農民から下層の大衆まで、募金に応じ株式を買って運動に加わった。
中国の反帝国主義闘争の重要な形態となる外国商品不買運動=ボイコットがはじめて登場したのも、この時期であった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.81
孫文の武装蜂起
引用清朝打倒の革命を最初に提唱したのは、
広東省香山県出身の孫文(逸仙、中山、一八六六~一九二五)である。
かれはハワイと香港に革命団体・興中会をつくり、一八九五年、一九〇〇年と二度にわたり、
広東で武装蜂起をくわだてたが、いずれも失敗した。
初回には「大逆不道の乱臣賊子」とごうごうたる非難をあび、知人も顔をそむけた。
義和団戦争に乗じて起った二度目には、罵倒の声を聞かなかったばかりか、失敗を残念がってくれる人が多かった。
「前後をくらべてみると、天と地ほどの差であった」と、かれは述懐している。
義和団の闘争が清朝の正体をあばき出し、人びとの迷信を醒ましたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.82
引用革命には強固な組織と統一した指導がなければならぬ、と人びとが痛感しはじめたとき、
一九〇五年七月、孫文が来日した。
宮崎滔天のあっせんで孫文と黄興の会談が実現し、大同団結は急速に具体化した。
八月二〇日、中国同盟会の結成大会が非公然におこなわれた。
出席者三〇〇余人、興中会、華興会系の活動家ばかりでなく、蔡元培(一八六六~一九四〇)・秋瑾(一八七七~一九〇七)ら
浙江籍の革命派がつくった光復会はじめ、多くの地方的グループをふくみ、
本土一八省中、参加者がなかったのは当時留学生のいなかった甘粛だけであった。
大会は孫文を同盟会総理に選び、三民主義を具体化した綱領「韃虜(清朝)を駆除し、
中華を復興し、民国を創立し、地権を平均する」を採択した。
孫文の指導のもとに、ブルジョア民主主義の実現を目的とする革命政党が誕生したのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.86
鉄道国有化令
引用一一年五月の鉄道国有令が事態を決定的にした。
利権回収運動の成果である川漢、粤漢両鉄道の敷設権を国有化の美名のもとに地方から取りあげ、
借款のかたに列強に渡そうという、売国政策の強行は、湖南、湖北、広東、四川で省民あげての猛反対を受けた。
小野信爾 「人民中国への道」
P.88
引用宋教仁は国会選挙のために、同盟会を国民党に改組することに熱中した。
議会で多数を占めて国民党の責任内閣をつくれば、袁世凱は名目だけの元首になる、
というのが宋教仁の考えであった。
そのため、同盟会の綱領から「男女同権」をはじめ、反封建主義・反帝国主義の革命的内容をけずり、
多くの政客や反動分子さえも国民党にひきいれた。
かれの努力は報われた。
一二年の末からはじまった国会選挙で、国民党は圧倒的な多数を獲得した。
事実上の党首として、次期の総理就任が確実となった宋教仁は、勝利に酔って全国遊説していたが、
一三年三月二〇日、袁世凱が放った刺客のため、上海駅頭で暗殺された。
真相はたちまち明るみに出た。
革命派は袁の悪辣さに戦慄し、幻想はふっとんだ。
だが、即時討袁を主張した孫文にたいし、黄興らは合法手段による解決をいい、
革命派の足なみは乱れた。
陰謀を暴露されて開き直った袁世凱は、四月、議会を無視して列強と「善後大借款」二五〇〇万ポンドの契約を結んだ。
子飼の軍隊を拡充し、南方諸省の革命勢力を武力で圧倒する準備をととのえるためであった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.94
引用会議の実態は英・米・仏・日・伊五大国が
血眼で勝利の獲物を奪いあう贓物分配の場でしかなかった。
中国代表団が提出した二一ヵ条条約の廃棄、各国の在華特権=不平等条約の廃止の要求は、
会議の権限外として却下され、戦勝国として当然の要求であるドイツ権益の直接返還すらも認められなかった。
失望は怒りにかわった。
一九一九年五月四日午後、パリからの悲報を受けて、北京天安門前に北京大学など一〇余校の学生三〇〇〇余人が集合し、
緊急に山東問題抗議集会を開いた。
「外 国権を争い、内 国賊を除け」と宣言した学生たちはデモ行進をおこない、
親日派の閣僚・交通総長曹汝霖の私邸を襲って火を放ち、居あわせた駐日公使章宗祥を殴打した。
逮捕された学生は三二名にのぼった。
「曹汝霖邸焼打ち」のニュースは、北京はもちろん、全中国を震撼させた。
だが、人びとは学生の「暴力」行為を非難したのではなく、これに快哉を叫び、みずからも奮起したのである。
二〇余の省、一〇〇余の都市で北京の学生に呼応する運動がおこり、
日貨排斥は野火のように拡がった。
孤立した軍閥政府は兇暴な弾圧に乗り出し、六月三日から北京で街頭宣伝中の学生をかたっぱしから逮捕し、
三日間で一〇〇〇人をこえた。
だが、弾圧も火に油をそそぐ効果しかなく、六月五日、上海を中心に大規模な罷課(学生スト)・罷市(商店の閉店スト)・
罷工(労働者のスト)の三罷闘争が、学生逮捕に抗議して開始された。
とくに労働者のストライキは参加者一〇万に達し、一〇日には上海―南京間の鉄道も停止した。
罷市が他の都市にも波及し、ついに北京にまでおよぼうとする勢いに、
北京政府も屈服せざるをえなかった。
学生を(六月七日)釈放し、曹汝霖ら親日三要人を解任し(一〇日)、
内閣総理銭能訓が辞職し、二八日には、パリの中国代表団が講和条約に調印を拒んだ。
東アジアの民衆闘争の第三波=五四運動は大きな勝利をかちとったのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.107
安直戦争
引用闘争はなおも続いた。
安徽派が講和条約追加調印、山東問題の日中直接交渉を策して捲き返しに出たからである。
日貨不買・デモ・集会・罷課・罷市などが各地で頻発したが、北京・天津・山東・湖南など、
安徽派が直接掌握した地区では、きびしい弾圧に、学生組織や救国団体の多くが非合法化された。
だが、毛沢東らが指導した湖南の省長追放運動をはじめ、学生・市民の抵抗・反撃にあい、
安徽派はいっそう孤立した。
追いつめられた安徽派は、二〇年七月、米・英系の直隷派に戦争(安直戦争)をいどみ、完敗した。
代って政権についた直隷派は人気取りの自由化政策をうちだし、国内の緊張は一時緩和される。
小野信爾 「人民中国への道」
P.109
引用一年余の準備期間をへて、一九二一年七月、
中国共産党第一回大会が上海で開催された。
北京・上海・長沙・武漢・済南・広州および東京の各小組、計五七名の共産主義者を代表する一二名が出席しただけであったが、
社会主義世界革命の一環として中国革命―当面の段階としては反帝国主義・反封建主義の民主革命
―を闘う前衛政党がここに生れ、
中国人民の解放闘争にまったく新たな地平がきり開かれたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.113
二・七虐殺事件
引用中共第一回大会は陳独秀を中央書記に任命し、
労働者を階級的戦闘的労働組合に組織することを当面の最重点として取りくんだ。
労働者の自覚は五四以後格段に高まっており、中共党員の献身的な活動と指導によって急速に組織化された。
一九二二年には待遇改善・人権擁護・団結権獲得をめぐるストライキが全国的に発生し、
労働運動の最初の高揚期を迎えた。
だが、反動勢力がそれを黙認するはずはない。
直隷軍閥は政権掌握いらいの開明的ポーズを捨てて、二三年二月、
労働組合公認を要求してストライキに入った京漢鉄道労働者に襲いかかった(二七虐殺事件)。
これを号砲として全国的に労働運動にたいする弾圧が強化され、運動は一時的に後退せざるをえなかった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.114
中国国民党結成
引用五四は孫文にとっても転機であった。
革命の方途を見失い革新的「政客」に堕していたかれにとって、無名の学生たちが点火し、
たちまち全国に燃え拡がった大衆運動の威力はまさに眼をみはるものがあった。
卓越した革命家の孫文は、新しい段階にすばやく対応し、五四後の新思潮との接触を深める一方、
秘密結社的性格の中華革命党を公開的な国民党に脱皮させたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.116
反奉戦争/郭松齢の乱/三・一八事件
引用人民闘争の高揚と諸階級の対応、帝国主義列強の対立と協調とが複雑にからみあうなかで、
局面は流動化した。
二五年一〇月、反奉天派各派連合による反奉戦争が勃発したが、一一月、
奉天軍の有力武将郭松齢(一八八四~一九二五)が馮玉祥と通じて反乱をおこし、
日本軍の干渉で失敗した事件を転機に、奉天・直隷両軍閥の「反赤連合」による国民軍討伐戦争に一変した。
二六年三月、日本の露骨な内戦介入に北京の学生・市民がデモをおこない、
段祺瑞政府の弾圧で四七名が殺され、二〇〇余名が傷ついた。
教え子を殺された魯迅が、「これは一つの事件の結末ではない、一つの事件の発端だ」とし、
「血債」はかならず同一物で償還させよと訴えた(「花なきバラの二」)三・一八事件である。
小野信爾 「人民中国への道」
P.121
中国国民政府、不平等条約廃棄宣言
引用二八年七月、国民政府は不平等条約の廃棄を宣言し、
関税自主権の行使を宣言した。
イギリスはさっそく、上海黄浦公園の悪名高い掲示「華人与狗不准入内」を撤去してみせ、
アメリカとともに新関税条約を結んで中国の関税自主権を承認した。
中国の民族産業と競合する面のもっとも多い日本だけがこれを拒否したため、
最恵国条項によって、イギリス・アメリカなどの新条約も発効しなかったから、
人びとの憤激は日本に集中した。
蒋介石と国民政府は反日のポーズをとり、国民党は日貨排斥の主導権をにぎることで、
中国人の民族感情を国民政府支持の方向に組織したのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.128
中原大戦
引用蒋介石は中央政府の権威と浙江財閥・アメリカ・イギリスの支援を背景に、
全国統一化の政策を強引に進めていた。
各派軍閥はこれに反撥し、大小の内戦がおこったが、
三〇年五月には、蒋介石の中央軍一〇〇万と馮玉祥(西北軍)、閻錫山(山西軍)の連合軍六〇万とが戦い、
死傷者三〇万、中国近代史上空前といわれた中原戦争が勃発した。
六ヵ月にわたったこの戦争は、形勢を見ていた張学良が、東北軍を率いて山海関を越え、
連合軍の背後を衝いたことで、蒋介石の勝利に終った。
小野信爾 「人民中国への道」
P.137
囲剿作戦①/②/③
引用毛沢東・朱徳の軍団は八月、南昌を攻撃して失敗、
西進して長沙から撤退した彭徳懐の軍団と合流、紅軍第一方面軍をつくって再度、長沙を攻撃したが失敗し、
李立三の指令を返上した形で江西にもどって、根拠地を拡大した。
蒋介石の「共産党討伐」も、当然、まずこの中央根拠地を対象として発動された。
一九三〇年一二月、国民政府は一〇万の兵力を動員して第一回の包囲討伐をかけた。
四万の第一方面軍をひきいて迎撃した毛沢東、朱徳の巧みな作戦に、
前線総指揮官さえ捕虜になるほどの大打撃をうけてそれが敗退すると、
三一年二月から五月にかけて、国民政府軍政部長何応欽(一八八九~ )を総司令とする二〇万の軍隊で、
第二次包囲討伐をおこなった。
これもまた失敗すると、蒋介石自身が指揮をとり、三〇万を動員して第三次の包囲討伐を七月から再開した。
小野信爾 「人民中国への道」
P.140
引用一九三一年一一月、江西省瑞金に全国九ヵ所の革命根拠地の代表が結集して、
第一回全国ソヴェト代表大会が開かれ、中華ソヴェト共和国の樹立を宣言し、
毛沢東を臨時政府主席、張国燾(一八九八~ )、項英(一八九四~一九四一)を副主席に選出した。
前後して、中共軍事部長周恩来が瑞金に派遣され、毛沢東に代って紅軍政治委員に就任した。
毛沢東を、紅軍の指導から排除するためであった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.146
囲剿作戦⑤/長征開始
引用三三年一〇月、蒋介石は一〇〇万の大軍を動員して第五次の包囲討伐を開始した。
かれは顧問に招いたドイツ軍人ゼークト将軍の進言により、根拠地全体を包囲封鎖しつつ、
その輪をジリジリと縮めていく新戦術を採用した。
中央根拠地の包囲に投入した兵力は六〇万、迎えうつ紅軍第一方面軍は一〇万、
そして紅軍の指揮をとったのは、コミンテルンが派遣したソ連赤軍将校出身のドイツ人、
オットー・ブラウン(一九〇一?~七四)、当時はリトロフと名のった人物であった。
中国を舞台に二人のドイツ人が革命と反革命とそれぞれの側に立って対決することになったのである。
【中略】 強大な権限をあたえられたリトロフは、毛沢東たちが築きあげてきた「古今東西に例のない」軍事路線を
全面的に廃棄した。
運動戦ではなく陣地戦を、根拠地内に敵を誘いこむのではなく「国門」の外で防ぐことを、
兵力の集中使用ではなく全線にわたる出撃を主張し、
「中国革命の完全な勝利をかちとる闘争」つまりかれらが最後の決戦だと判断した反包囲戦に突入していった。
戦争は一年間続いた。
装備も悪く補給も困難な紅軍が長期の消耗戦に引きずりこまれた。
重火器をもたぬ紅軍は、国民政府軍が無数に築いたトーチカに歯がたたず、
紅軍の陣地は国民政府軍の砲・爆撃にさらされて出血を強いられた。
加えて根拠地内の情況も日に日に悪化した。
厳重な封鎖による経済的困難―とくに塩の欠乏―はいうまでもないが、
極「左」的な富農消滅政策のために農村の中間層が動揺し、
国民政府軍と通牒して反乱をおこす者さえ現われた。
事態はジリ貧の一途をたどった。
意志沮喪した中共指導部は、ついに根拠地の放棄を決定した。
三四年一〇月、第一方面軍の主力一〇万は、賀竜のひきいる第二方面軍との合流をめざして包囲線を突破、
西遷=長征を開始した。
だが、一転して逃亡主義におちいった軍事指導のため、第一方面軍は大損害を蒙り、毛沢東らの主張で、
ついに第二方面軍との合流を断念して貴州に転進した。
小野信爾 「人民中国への道」
P.147
四大家族
引用国民政府の軍事費は、
二八年の二億元から三六年には五億元以上に増大し、
年々政府支出の五〇パーセント前後を占めた。
これを賄う財源には、二九年のいわゆる関税「自主」実施後、
逐年に増加した関税収入やアメリカからの借款などがあったが、
なんといっても大宗は国債(内債)であった。
蒋介石政権が二七年から三六年までの一〇年間に発行した国債計二六億元、
北洋軍閥政府が十五年間に発行した国債総額の三倍にあたり、
しかもその八五パーセント以上が内戦に使用されたのである。
【中略】
これら国債は、大きな割引率で中央・中国・交通・中国農民の四銀行に割り当てられたが、
実質の利回りは普通二〇パーセント、場合によっては三、四〇パーセントにおよび、莫大な利益を保証した。
これによって肥え太ったのが、国民政府の財政・金融機構を握る蒋介石、宋子文(一八九三~一九七一)、
孔祥熙(一八八一~一九六七)および陳果夫・陳立夫兄弟ら、四大家族と通称される官僚独占資本家であった。
宋子文は蒋介石の夫人宋美齢の実兄、孔祥熙は同じく義兄、
陳兄弟はC・C団の頭目として蒋介石の腹心という関係で、閨閥を中心にこの四大家族は結ばれていたのである。
宋兄妹、孔祥熙ともアメリカに留学した経歴をもつ親英米派で、
同時に両国の強い支持をえていた。
小野信爾 「人民中国への道」
P.152
幣制改革
引用三五年一一月、国民政府はイギリス政府派遣の財政顧問リース・ロスの指導のもとに
幣制改革を断行した。
銀を買上げて国有化し、「法幣」を発行して唯一の通貨として、銀および他の紙幣の流通を禁じたのである。
法幣はイギリスのポンド(のちにはアメリカのドルとも)リンクする外貨本位制で、
中国経済は名実ともに英米両国の後見のもとにおかれることになった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.153
華北分離工作
引用蒋介石の誤算は、
日本帝国主義が満蒙を得ただけでは満足せず、さらに華北にひき続き侵略の歩を進めてきたことだった。
三三年三月、「満州」からの撤兵勧告を拒否して国際連盟を脱退した日本は、
さらに熱河・察哈爾・綏遠に進出し、華北への野心を露にした。
三五年六月には排日事件を口実に、河北省から国民党機関および中央軍の撤退を強要し(梅津・何応欽協定など)、
さらに漢奸を使って「防共自治運動」をでっちあげ、華北五省(河北・山東・山西・察哈爾・綏遠)の「特殊化」を進めた。
三五年一一月には冀東防共自治政府、一二月には冀察政務委員会(冀=河北)などの傀儡組織を成立させ、
銀の国有化、法幣の流通を拒否させた。
沿海では日本軍の保護下に公然たる密輸、いわゆる「冀東特殊貿易」が大規模におこなわれ、
華北の民族産業に大きな打撃をあたえた。
日本の目的が英・米に支持された国民政府に対抗し、華北を分離・併合することにあるのは、
いまや誰の目にも明らかであった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.154
引用三七年二月、国民党中央委員会総会(五期三中全会)は、
汪精衛ら親日派の抵抗を押しきり、実質的に抗日民主の中共側提案を容れ、
中国共産党は土地革命を停止し、ソヴェト政府を特区政府、労農紅軍を国民革命軍と改称し、
それぞれ国民政府および国民党軍事委員会の指導下におくことを約束した。
国共両党の再接近を軸に、抗日運動は全国的にさらに盛りあがった。
この動きに日本は焦った。
それまでの高圧的姿勢を再検討し、経済提携を前面に押し出して国民政府を懐柔し、
国・共間にくさびを打ちこもうという「微笑外交」の試みもあったが、
抗日体制の整う前に先制の一撃を加えようという主張の方が、軍部を中心に優勢であった。
そして一九三七年七月七日夜、「支那」駐屯軍は、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に中国側から発砲があった、
という口実で中国軍に攻撃をしかけ、全面的な中国侵略戦争の幕を切って落したのである。
「満州」事変にはじまった日中戦争は新しい段階に突入した。
だが、それが泥沼のような大戦争に発展しようとは、
日本政府・軍部・財界のだれも予想していなかった。
陸軍大臣は天皇に「二ヵ月ぐらいで片付く」と見通しを報告した。
かれらはこれまでの経験から、軍事的一撃さえ加えれば国民政府はすぐに屈服するだろう、
と信じていたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.159
スティルウェル解任
引用蒋介石が、とくに太平洋戦争勃発以後、
日本敗退後の内戦に備えて、その直系軍を温存していることは公然の秘密であった。
スティルウェル将軍をはじめ、抗日戦援助、国府軍訓練のために派遣されたアメリカの軍人や専門家の多くは、
そのことで蒋介石を強く批判していた。
四四年には業を煮やしたスティルウェルが、延安封鎖に貼りついている国府軍最精鋭部隊を抗日の前線に投入し、
かつ全中国軍の直接指揮権を自分にあたえるよう要求し―それ自体は植民地主義者的な発想だが
―、蒋介石と対立して本国に召還される一幕もあったのである。
だが、日本の敗北が時間の問題になってくると、アメリカは戦後の中国支配への思惑から反共援蒋の姿勢を露骨にした。
小野信爾 「人民中国への道」
P.170
国共会談/双十協定/毛沢東ブーム
引用内戦の万全の準備のためには時間が必要である。
アメリカは国共両党の調停者としてふるまい、蒋介石は毛沢東に電報を送って和平会談のため重慶に来るよう要請した。
蒋の底意は明白だった。
もし、毛沢東が来なければ、内戦再開の責任はすべて中国共産党に転嫁できるのである。
八月末、毛沢東はアメリカの特使ハーレーとともに重慶に飛んだ。
それは中国共産党の平和にたいする誠意を表明し、中間勢力の共感を呼ぶとともに、
蒋介石の意表をつき、これを完全な受身にまわらせた。
四〇日にわたる交渉のなかで「具体的提案の提出や譲歩で、中共は主導的立場をとった。
他方、国民党の交渉当事者は中共提案を拒絶または同意する受動的な役割を演じたのだった。
・・・・・・一九三七年以来、初めて、中共は解決のため自分の値をつりあげるのでなく、
要求を緩和したのであった」(タン・ツォウ『アメリカの失敗』)。
ねばり強い交渉のすえ、共産党の大きな譲歩―華中・華南の八解放区の解消、
軍隊の縮小によって、一〇月一〇日、ようやく平和協定(双十協定)の成立をみた。
中国共産党は道義的・論理的に圧勝した。
勝利をかちえたのは会議の場だけではなかった。
この交渉中、重慶の文化界―当時、戦火を避けて多くの学者、文化人がそこに集まっていた
―は、ときならぬ毛沢東ブームにわいた。
かれの詞「雪」(泌園春)が新聞に紹介されたのがきっかけであった。
長年の反共宣伝のなかで、中国共産党は伝統文化の破壊者にしたてあげられ、
延安の洞窟からはどうせ「野暮な煽動家」が来るものと思いこんでいたところへ、
やってきたのは自分たちもおよばぬ「深い哲学的理解と文学的表現をもった」教養人だったのである。
すぐれた政治家は、同時にすぐれた文化人でなければならぬとするのが、中国の伝統理念であった。
旧式の文人もふくめて知識人の毛沢東を見る目は一変したという。
天下の人心は蒋介石を去って毛沢東に帰する趨勢にあった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.171
戦後の国民政府財政と経済
引用国民政府はその腐敗した体質によって効果的な行政組織を樹立することができなかった。
しかも民意に敵対した内戦の強行に国家財政は最初から破産していた。
それをとりつくろうにはアメリカの援助と紙幣の印刷=輪転機しかなかったのである。
内戦発動の年、四六年の政府予算は二兆五〇〇〇億元、決算額は五兆五〇〇〇億元(三分の二以上が軍事費)、
財政収入は歳出の四〇パーセントにとどまり、赤字は三兆三〇〇〇億元にたっした。
この年以後は予算も決算も意味をなさず、ひたすら輪転機が回り続けた。
物価は対日戦争前夜を基準にして、日本の降伏直前が一八〇〇倍、四七年七月には六万倍にたっし、
さらに高騰をつづけた。
国民経済は破綻した。
インフレと重税とアメリカ商品の氾濫で、工場はほとんどが操業を停止し、
失業者が街にあふれた。
四六年から四七年にかけて広大な範囲で旱害・水害が発生し、
被災者一億といわれる大飢饉が華北・華中を襲った。
解放区は軍民一体の災害対策で必死に乗りきったが、国府支配地区では惨たんたるありさまだった。
国連救済復興機構(UNRRA)が提供した救援物資は被災者の手に渡らず、
一〇〇〇マイルも奥地まで鉄道で運ばれたあと、トラックや舟でまた運びかえされ、
上海などで「闇」物資に化けた。
小野信爾 「人民中国への道」
P.182
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「葉名深」の「深」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「税下」の「下」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「載恬」の「恬」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「醇親王奕環」の「環」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「翁同蘇」の「蘇」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |