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宋教仁暗殺事件
1913/03/20
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用宋教仁は共和政体(かたちの上だけでも)を利用して
議会の多数党で袁世凱を抑えようとし、国民党を組織した(理事長孫文)。
一九一三年(大正二年)二月の総選挙では国民党だけでも三百九十二人の議員が当選し、袁の与党を圧した。
宋の体当り的な活躍がみのったのである。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.254この本を入手
引用宋教仁は国会選挙のために、同盟会を国民党に改組することに熱中した。
議会で多数を占めて国民党の責任内閣をつくれば、袁世凱は名目だけの元首になる、
というのが宋教仁の考えであった。
そのため、同盟会の綱領から「男女同権」をはじめ、反封建主義・反帝国主義の革命的内容をけずり、
多くの政客や反動分子さえも国民党にひきいれた。
かれの努力は報われた。
一二年の末からはじまった国会選挙で、国民党は圧倒的な多数を獲得した。
事実上の党首として、次期の総理就任が確実となった宋教仁は、勝利に酔って全国遊説していたが、
一三年三月二〇日、袁世凱が放った刺客のため、上海駅頭で暗殺された。
真相はたちまち明るみに出た。
革命派は袁の悪辣さに戦慄し、幻想はふっとんだ。
だが、即時討袁を主張した孫文にたいし、黄興らは合法手段による解決をいい、
革命派の足なみは乱れた。
陰謀を暴露されて開き直った袁世凱は、四月、議会を無視して列強と「善後大借款」二五〇〇万ポンドの契約を結んだ。
子飼の軍隊を拡充し、南方諸省の革命勢力を武力で圧倒する準備をととのえるためであった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.94この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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