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taro の意見
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書く人間が楽しいからって、読む人が楽しいとはかぎりませんよね。
でもtaroは書きたいんです。というわけで、ずらずら読むのはかったるいぜという人のために、
文章の最後に結論を書いておきました。結論だけ読んで楽しいとも思えませんが。まあ、一応。そういうことで。
● 「皇道派」?「統制派」? (2005.12.05)
先の「総選挙9・11」の結果はtaroにとって惨憺たるもので、翌日は一日中真っ暗な気持ちだった。 別に民主党の熱烈なる支持者というわけではなく、かっこよすぎる表現になるが、
taroは議会政治の健全な発展を期待する立場から、政権交代を望む自称一無党派である。
小泉内閣に対しては以前から否定的で、解散時点でいえば、こんなふうに考えていた。
郵政民営化は小泉内閣の一枚看板と言っていい政策だった。
それが4年もたってまだ実現していない。
4年やって看板の郵政民営化さえ実現できず、しかもその責任を反対派に転嫁するように解散、総選挙。
何たる無能。何たる厚顔無恥。
またしても筋を通す強い政治家をしゃあしゃあと演じて、支持を集めようという魂胆だろうがそうはいかないぞ。
こう書くと、まるで自分の望むような結果が出なかったから翌日真っ暗だったようだがそうではない。
いや、それもあるにはあるのだが、問題はもう少し深刻なのだ。
くのいち刺客。 たしかこんな言葉だったと思う。発端はこれだ。
選挙前、この言葉を聞いて、taroはあの「肉弾三勇士」を連想していやぁな気持ちになったのだ。
思うに、事実の歪曲には3つの方法がある。1つめは言うべきことを言わないこと。 2つめは、そのうえで、言うべきでないこと、事実に反することや事の本質から意識をそらすようなことを言うこと。 3つめは、そうした言うべきでないことをことさら強調したり、過大に取りあげること。 「肉弾三勇士」はもちろん方法その3である。
この言葉に象徴される一大キャンペーンが民主的勢力の堕落と相まって、
敗戦へと続く1930年代という時代を急速に形づくっていく。
世論は一変し、気がつけば、軍事力行使の是非を問題にするような環境はなくなっている。
あのときの朝日、毎日、その他マスコミのはしゃぎっぷりを思うと、軍のせいにばかりはできない。
この悪のりは、ついには国際連盟脱退キャンペーンにまで発展する。
全国132社がその共同声明を一面に載せるという狂気の沙汰。
もちろんマスコミには軍国主義化の意図など毛頭なく、単に迎合したにすぎない。
彼らは大恐慌のさなかにあって、企業として売れるものに飛びついただけだ。
勝ちいくさほど、彼らにとっておいしいネタはない。
それはマスコミにとって意図せざる世論誘導であり、意図せざる事実の歪曲だった。
当の陸軍にさえそこまでの意図があったかどうか。
taroはマスコミが使う「くのいち刺客」という言葉を聞いて、事実の歪曲を感じ、 世論誘導を予感していやぁな気持ちになったのだ。 だが、まさか21世紀の日本で、「肉弾三勇士」とそっくり同じことが起こるなどありえないことだ。
きっとtaroの考えすぎだ。歴史にはまりすぎて、何でも歴史とダブらせる癖がついてしまったのだ。
そのときは、そんなふうに気を取り直して、だが、どうももやもやした気分を引きずりながら「総選挙9・11」を迎えた。
選挙の結果は周知のとおりである。
以上が前振りその1。引き続き前振りその2。 阿川弘之という海軍出身の作家がいる。「山本五十六」という名著を著している。
この人には「米内光政」という著作がある。
この著書の影響もあって、米内光政という人は、戦前の軍人としてはかなり好意的に受け止められている。
戦争に反対した見識のある軍人というイメージが強いのではないだろうか。
ところが、このイメージは大幅に事実とは異なる。
見識の有無はさておくとして、米内を「戦争に反対した」人物とはとても言うことができない。
彼はアメリカとの「戦争に反対した」人物であり、中国との“事変”に関して言えば、まったく逆である。
日中全面戦争の発端となった1937年7月7日の盧溝橋事件のとき、 米内は海軍大臣だった。 日中戦争が太平洋戦争を誘発し、その結果、玉音放送、敗戦ということになるのだから、ことは重大である。 さて、米内大臣のとった態度はどのようなものだっただろうか。 事変拡大派と不拡大派が拮抗する中で、和平工作が行なわれる。
そのもっとも有力なものがドイツを介してのもので、トラウトマン工作と呼ばれる。
トラウトマン工作で、日本政府が当初、講和の条件として提示したものは比較的穏健、妥当なものであったが、
南京攻略によって、この条件が大幅に釣り上げられる。当然、中国としては合意しづらくなる。
トラウトマン工作はまとまらない。日本政府の中で、工作打ち切りが議論のテーマになる。
1938年1月11日の御前会議がトラウトマン工作打ち切りを決定する。
ところが、参謀本部と軍令部(つまり統帥部)はこれに待ったをかける。
この工作を打ち切れば長期戦になる。工作を続けようと言う多田参謀次長、古賀軍令部次長に対し、
広田外相は、時間の無駄だと一蹴し、外相の判断を信じろと迫る。
ここで米内海相である。統帥部が外相の判断を信じないなら、
総辞職しかないぞという彼の発言は、
恫喝以外の何物でもないだろう。
後世振り返れば、この米内の発言は決定的である。
トラウトマン工作打ち切りと第一次近衛声明はワンセットだったからだ。
彼の恫喝によって、日中戦争は和平の手がかりを失い、統帥部が言ったとおり長期戦化、泥沼化し、
その無理な長期戦がたたってついに太平洋戦争へ、ということになる。
米内の責任は広田外相よりも重いかもしれない。
なぜなら、これは軍部大臣現役武官制復活のあとのことであり、
米内の態度いかんによっては、本当に内閣はひどくあっさりと倒れてしまうのである。
そういう強い立場にある人間が、和平工作継続派の主張を「総辞職」という言葉で封じたのである。
参謀本部は中国の抗日運動の動向について独自の情報を持っていた。
南京攻略で拡大派が大勢を占めつつある中で、参謀本部が不拡大を主張し続けたのは、この情報の裏づけがあったからだろう。
これはtaroの憶測だが、多田はこの情報をすべて開示してでも、
トラウトマン工作打ち切りの決定を覆そうと思っていたのではないだろうか。
御前会議決定のあとだけに、それぐらいの覚悟で臨んだと考える方が自然だろう。
ところが、米内の恫喝に遭い、そこまでの話をする以前に結論が出てしまった。
もはや何をか言わんやというわけだ。
米内が海相在任中、日独伊三国軍事同盟締結を命がけで阻止し続けたのは事実である。 だが、彼がトラウトマン工作の打ち切りに賛成し、かつ、反対者を恫喝してこれを仕上げたこともまた事実である。 米内光政とはそのような人であり、彼が東京裁判法廷の被告席に立たなかったのは、 この裁判がマッカーサーによるアメリカのための裁判だったからにすぎない。 裁判のテーマは開廷以前から専ら太平洋戦争だったのである。 さて、話は阿川弘之である。 彼の「米内光政」には、トラウトマン工作打ち切りの経緯はどのように扱われているだろうか。
そう思って調べてみると、ないのだ、これが。
「昭和十三年の正月五日、原田熊雄は」で始まる一下りのあと、次の段落は「このあと、三月二十四日」で始まっており、
1938年1月11日の御前会議にも、その4日後、1月15日の上記のやりとりにも、この著作はまったく触れていないのだ。
ちなみに文庫で550ページに達しようかという大作である。
あえて関連するところを挙げるなら次の部分である。
「陸軍という『武家』にかつがれた近衛首相は、
一月十六日、有名な『国民政府を相手とせず』の声明を発表した。
日本はこれで、事態がどう変化しようとも中華民国の実質上の統治者蒋介石と直接交渉出来ないように、
自ら道を閉ざしてしまうことになった」
知らんぷりとはこのことだろう。
トラウトマン工作打ち切りの経緯に触れず、日独伊三国軍事同盟締結に命がけで反対した姿を描けば、 米内は「戦争に反対した見識のある軍人」となる。 さらにポツダム宣言受諾に努力する姿を描けばもう完璧である。 阿川弘之の「米内光政」は歪曲の方法その1で大成功した例と言っていい。 さすがは海軍出身の作家らしくスマートだ。 城山三郎に「落日燃ゆ」という著作がある。 広田弘毅を「悲劇の外交官」として描いたものである。 ここでは、同じトラウトマン工作打ち切りに関して、歪曲の方法その2が用いられている。 ごく簡単な記述なので引用しよう。 「ただ、このころになって、参謀本部がにわかに和平交渉に執着を持ち出した。
もともと参謀本部には、対ソ決戦に備えるため中国への深入りを避けようという一派があり、
この対ソ派の突き上げが強まったためである」
まるで「和平交渉に執着」を持つ参謀本部を、気まぐれあるいは優柔不断と一笑に付すかのごとき表現であり、
「にわかに」の語は事実に反して使われており、
この記述のあと、話は陸軍批判へと展開する。
参謀本部の「和平交渉」への「執着」を広田がどう扱ったかについては、
まったく触れられていない。
ちなみに、これも文庫で350ページを優に超える大作である。
「米内光政」にしても「落日燃ゆ」にしても、この時代を扱ったものとしては広く読まれている書である。 広く読まれているものは、多くの人の目にさらされ、認められたものであるだけに、 真実に近く、歪曲など行われていないようにも思えるが、どうやらそうではない。 むしろ、主人公に濃厚なメイクを施し、巧妙な演出を加えたものがウケるようである。 主人公にはメイクを施し、演出を加えたいのが作家心理というものだろう。
“す”のままではかっこのつかない生の人間を、いかにして感動や共感の対象に仕立て上げるか、
ここに作家の腕の見せどころがあるとも言えよう。
主人公が歴史上の人物である場合、それは薄化粧であれ、厚化粧であれ、特殊メイクであれ、
歴史の側からすれば歪曲であるにちがいない。
高木俊朗はその著書「インパール」の巻末に、 「あとがきにかえて」というサブタイトルで「戦記の中の真実」という文章を載せている。 彼はこの中で、戦後、組織的な歴史改竄が行なわれた可能性を具体的に示唆した上で、 次のような「公刊戦史『インパール作戦』の執筆者、元ビルマ方面軍作戦主任参謀不破博氏」の言葉を引用している。 「インパール作戦については、すでに各種の刊行物が出ている。
しかし、一般に最初から善玉、悪玉をきめて独善的な筆誅を加えんとする傾向のみえるのは残念である」
このあとの高木の言葉はこうだ。
「太平洋戦争については、これからも研究がさかんに行なわれるだろう。
今後の研究家は、戦争の実際を知らないし、確認の方法もなくなる。
結局、今までの資料にたよるほかはない。
その資料、刊行物には誤りが少なくない。
軍人のかたよった見方で終始したものもある。
軍隊にとって不名誉や、ぐあいの悪いことは、ことさら避けたものもある」
不破は「インパール作戦については」と言い、
高木は「太平洋戦争については」と言う。
彼らは至ってひかえめである。
さてさて、以上が前振り。以下本題。 taroはこのところ、ある悩みの中にある。まずはこの悩みを聞いてほしい。
taroはこの夏、二・二六事件あたりに関心を持ち、
以来、ここらあたりを扱ったものをいろいろ読んだ。
一つの歴史的な出来事は多様な角度から見ることができ、
二・二六事件は、ある角度から見ると、
陸軍の「皇道派」と「統制派」の最終決戦ととることができる。
そして、二・二六事件に触れるほとんどと言っていい書物は、
ニュアンスのちがいこそあれ、「皇道派」を悪玉ととらえ、「統制派」を善玉のごとく扱っている。
ところが、taroは、知れば知るほど、考えれば考えるほど、逆だと思うのだ。
さあ、困った。どうしたらいい? こういう場合。
多数の専門家に対して、たった一人のただの歴史好きが難癖をつけるというのもどうかと思うし、
単にtaroの不勉強ゆえということも十分にありえると知りつつ、ここはやっぱり堂々と自説を展開、といくべきだろう。
というのも、先の高木俊朗、不破博の指摘もあり、
戦争に負けたとはいえ、陸軍の派閥抗争でいえば、勝者は「統制派」であり、
正史が常に勝者のための歴史であるとすれば、今の歴史は「統制派」のための歴史だと考えることができ、
「統制派」が美化され、善玉扱いされている可能性があると思うからだ。
もう一つ言えば、「皇道派」悪玉説を採るか、「統制派」悪玉説を採るかによって、
その後の歴史についての解釈がまったくちがってしまう。
つまり、日中戦争、太平洋戦争へと至る原因分析がまったく異なったものにならざるをえない。
だから、ここは黙して語らず、であるべきではないと思うのだ。
補足すれば、ある人物あるいは一派を善玉ととらえ、 それと対立する別の人物あるいは一派を悪玉ととらえるような考え方それ自体がそもそも科学的でなく、 歴史的でないというのはまったくそのとおりで、 「皇道派」か「統制派」かという問題に関しても、taroは、一方を完全に善玉、もう一方を完全に悪玉、 と考えているわけではない。 相対的な問題であり、「皇道派」が善玉であるにしても、比較的善玉というにすぎない。 一方、「統制派」に関して言えば、平和主義、戦争反対という観点からすれば、完全に悪玉である。 ただし、この場合にも、平和主義を貫徹するためなら、 国民は飢えて死んでもいいかというかなり究極の問題を抱えることになり、 こうなってくると、哲学になってしまう。 哲学は哲学の時間にするとして、今は歴史の時間。 だから、あえてこの究極の問題には目をつぶり、とりあえず平和主義オンリーでいく。 さまざまな書物が「皇道派」への批判を展開しているが、 taroが目にした範囲で、その根拠をまとめると次の5点になる。 ・「皇道派」は極端な派閥人事を行い、陸軍の秩序を乱した。
・「皇道派」には政治的能力がなく、特に荒木陸相は口ばっかりで実行力がなかった。
・「皇道派」はソ連との不可侵条約締結を拒み、対ソ戦を推進しようとした。
・「皇道派」は天皇機関説批判の急先鋒だった。
・「皇道派」はテロリストに寛容で、むしろそそのかすようなところがあった。
taroはこれらをほぼ認める。 ただし、これら5点に関して、では、「統制派」はどうだったかを問題にしなければならないと思う。 taroの認識するところ、次のようになる。 ・「統制派」の“連合軍”と呼ぶべき宇垣派は、極端な派閥人事を行い、かつ、派閥ぐるみでクーデターを起こそうとした。
・「統制派」は高い政治的能力を持ち、この能力で盧溝橋事件を拡大させ、全面戦争にした。
・「統制派」はソ連と不可侵条約を締結し、北の安全を図った上で、対中戦を推進しようとし、ほぼそのとおりした。
・「統制派」も天皇機関説批判の急先鋒だった。
・「統制派」は自らクーデター計画に関与し、また、クーデター計画をねつ造して青年将校を冤罪に陥れた。
どっちもどっちだが、あえてどちらが悪玉かと言えば、明らかに「統制派」だろう。
ここで言う「皇道派」とは荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らである。 「統制派」とは永田鉄山、東條英機、武藤章、池田純久、片倉衷、辻政信らである。 「統制派」に著名人が多いのは、彼らが陸軍派閥抗争の勝者であり、二・二六事件以後の日本を動かした人たちだからである。 それに対して「皇道派」の上記3名は、二・二六事件後の「粛軍」によって軍人生命を絶たれた人たちである。 これらの人たち一人一人が軍人として軍高官としてやったことを見てみると、「統制派」悪玉説はいっそうはっきりする。 だが、それでは大著になるので、別の機会にということにして、ここではごく簡単に説明しよう。 二・二六事件以後、東條・武藤コンビを中心に、
陸軍が強引に行ったさまざまなことは、
おおよそ「統制派」のプランの実現だったと言っていい。
日中全面戦争を起こす一方、国内を戦時体制に導き、国家総動員法を成立させ、これを強化し、統制経済を導入し、
また、議会を無力化し、政党を解散させるというのがそれである。
taroは自信をもって断言する、「統制派」は二・二六事件以前からこのような計画を練っていた。
そして、こうした「統制派」と対立したのが「皇道派」である。
1935年8月12日、相沢事件が起こり、陸軍省軍務局長永田鉄山が斬殺された。 それ以前、永田こそが「統制派」のリーダーであり、東條などは永田の子分というにふさわしい存在だった。 武藤以下はさらにその下である。 相沢事件以前、「統制派」はまさに永田の「統制派」と言ってよかった。 「統制派」のプランも、永田の頭から出たものと言って語弊がない。 すると、永田こそが諸悪の根源であり、東條以下はその後継者たちということになる。 ところが、この永田鉄山という人は、若くしてズ抜けた秀才として知られ、「合理適正居士」とあだなされ、
矢次一夫いわく軍人というより「大学教授」といった印象の人物であり、
実際、内にこもりがちな陸軍軍人の中にあって、彼は広く各界の有力者と交わり、
それらの人々の意見をよく聞き、総じて好印象を与えている。
だから、永田を評価すればするほど、「統制派」悪玉説には無理があるということになりかねない。
永田は、第一次世界大戦以来、国家総動員体制確立の熱心な推進者だった。 彼は、第一次世界大戦を西部戦線で目の当たりにして、今後の戦争は必ず総力戦であり、 総力戦を勝ち抜くためには国家総動員体制の確立が不可欠だと確信した。 以後、地道に研究を重ね、実現の布石を打っていく。 二・二六事件後の陸軍はこの永田の遺産とでも言うべきものを継承する。
ただし、亜流だったとtaroは見る。
国家総動員体制に関して言えば、亜流かどうかは実に大きな問題と言える。
この体制の実質的な主体が軍人であるか否かによって、その意味はまったく異なるからである。
現実は陸軍のための国家総動員体制としか言いようのないものだった。
陸軍が国家総動員体制を仕切れば、戦争になるのが必然である。
逆に、国際協調論者がこれを仕切れば、戦争は起こりにくく、起こっても和平に至りやすい。
永田が生きて「統制派」の中心にあったら果たしてどうだったか。
東條という人物を思うにつけ、少なくともかなりマシなものになっていたにはちがいないという気がする。
日中戦争についても同様に言える。
八・一宣言は相沢事件の直前の出来事であり、
西安事件は永田の死後のことである。
1934年6月の段階で、永田が対中戦を志向したことは確かだが、
八・一宣言、西安事件という出来事を彼ならどうとらえたか。
この「合理適正居士」なら、石原莞爾や多田駿の、
中国の抗日感情は根強く、対中戦はかえって中国の統一を促し、長期戦になるという主張に共感を示したのではないだろうか。
現実は、亜流ゆえに方向転換の舵が効かず、1934年6月の状況判断のまま突き進み、泥沼にはまりこんだ。
とはいえ、永田が平和主義者でなかったことは事実であり、 彼の国家総動員体制がシビリアンコントロールでなかったこともまちがいない。 永田自身はどうあれ、彼のプランは反戦、平和主義から言えば危険そのものであった。 陸軍の主導で総動員体制ができたとき、彼らに戦争をするなというのは無理な注文と言っていいからである。 それは、たとえて言えば、呑んべに一升瓶を預けておいて、呑むなと言うようなものである。 永田が優れた人物だとは早くから認めつつ、彼の思想の危険性をいち早く見抜き、
彼ら「統制派」を抑えようとしたのが真崎甚三郎だとtaroは思っている。
それゆえに真崎は排斥された。
ちなみに、二・二六事件のときの真崎の言葉として有名な「おまえらの気持ちよーくわかっとる」というのも、
こんな言葉は実はなかったと、今ではtaroは思っている。
当日、真崎の護衛憲兵だった金子桂の証言を信じる。
彼によれば、そうではなく「馬鹿者! 何ということをやったか」が真崎の青年将校に対する第一声である。
だが、このあたりは、ここでは余談にとどめよう。
憲法学者、宮沢俊義の言葉に次のようなものがある。 「機関説事件でウルトラ・タカ派の役を演じた軍のいわゆる『皇道派』は、二・二六事件でその勢力を失うことになる。
しかし、それに代って軍の・・・・・・したがって日本の政治全体の支配権を握ったといわれる『統制派』が、
政治の軍国主義化ないしファッショ化の大勢をすこしでも抑制したわけではない。むしろ反対である。
機関説事件と二・二六事件を経て、日本の軍国主義化とファッショ化は、いよいよ促進されたと見るべきである」
taroもまったく同感である。
いろいろ述べたが、taroの「統制派」悪玉説の最大の拠りどころもこの点である。
すなわち、二・二六事件直後、陸軍は急に強気になり、
広田内閣の組閣への干渉、軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定締結、
宇垣内閣流産などを経て、二・二六事件後わずか1年半で盧溝橋事件、日中戦争突入である。
翌年4月1日には早くも国家総動員法の公布にこぎつけている。
これを意図せざるものと見るのはあまりに不自然であり、無理があろう。
日独防共協定は、もちろん過ぎし日の日ソ不可侵条約の代案、対中戦のための北の備えである。
二・二六事件を、陸軍内の比較的平和的な勢力の最終的敗北と見れば、
この急激な展開もあっさり理解できるとtaroは思うのだがどうだろう。
だが、ほとんどと言っていい多くの専門家の著作はこのようには書いていない。 すでに述べたが、ここにtaroの悩みがある。 情けない話だが、多くの専門家を向こうに回して、どうだ! 参ったか! というほどの自信は今のところない。 「堂々と自説を展開」と言いつつ、「堂々」までいかない。だから悩みなのだろう。 taro自身はもう少し勉強を重ねつつ、悩み続ければいいとして、この文章の結論としてこう言いたい。 このとおり、日本の歴史はまだ真実にたどり着いていない。
「米内光政」「落日燃ゆ」など広く知られている著作の実情、高木俊朗、不破博の指摘を踏まえて考えれば、
一ケースとしてのtaroの苦悩もあながち特殊なもの、例外的なものとばかりは言えないように思うのだ。
仮に、今のtaroの考えが誤りだとしても、taroにおのれの非を覚らせてくれるような、説得力のある著作が見つからない
(これを読めば非を覚ることができるというものを知っていたらぜひご一報を!)。
taroの知るものは、たいていニュアンス的「皇道派」悪玉説であり、「皇道派」非難の言辞はあっても、
「統制派」の正当さについての記述がないため、突き詰めれば玉虫色である。
これでは、taroの「統制派」悪玉説は「皇道派」悪玉説と共存できてしまう。
そうだとすれば、戦後60年、A級戦犯だとか天皇の戦争責任だとかといった形で、
戦争の責任や原因をうんぬんするのは早計というということになろう。
確固とした歴史認識の上にしか、責任論や原因論は成り立たないはずだからである。
taro自身、戦争の責任も原因もうんぬんした人間だ。反省しつつ言い訳すれば、
率直なところ、60年もたって、歴史いまだ真実に達せずとは思ってもみなかった。
これ以上言えば責任転嫁になろう。まずおのれの不明を恥じるべきだ。
最後に少しだけ補足。 taroは上記のように「統制派」悪玉説を採るが、だからといって、
「統制派」の人たち、すなわち、永田鉄山、東條英機、武藤章、池田純久、片倉衷、辻政信といった人たちを
直ちに断罪すべきとは思っていない。先に保留した哲学の問題が残っているからだ。
戦争か餓死か、あなたはどちらを選ぶだろうか。
そして、あなたが政治家なら、国民をどちらに導くだろうか。
難問である。
平和主義の建前そのままにあっさり餓死と答える人より、
平和には国民に餓死を強いるだけの価値があるのだろうかと考え込む人に誠実さを感じるのはtaroだけだろうか。
「統制派」の人たちを、餓死よりは戦争を選択した人たちと見てあながちピントはずれとは言えない。
もちろん、同じ「統制派」とは言っても、その中で個人差はあるのだが。
「皇道派」と「統制派」が陸軍の覇権を争った時代、それよりもほんの少し前の時代には、
戦争か餓死かは単なる哲学的な問題ではなく、もっと現実的なものだったのである。
東北の農村では、食べられるものは何でも食べ、食べられないものまで食べ、
売れるものは何でも売り、娘や新妻まで売り、ようやく生きるか死ぬかといった人たちがざらだった。
東京、大阪など、都会は失業者であふれ、彼らの帰村はさらに農村の生活を逼迫させることになった。
まだある。だが、今回はここまでにしておこう。
国民の生活をこんなにまでした1931年までの政治がまず断罪されるべきだろう。
戦前のバブル崩壊に相当する出来事は1920年3月15日の株価暴落である。
この日まで、日本は大戦景気に酔っていたと言っていい。
したがって、問われるべきは1920年から1931年までの政治である。
この間の首相を列挙しておわりにしたい。
原敬、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾、加藤高明、若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅である。
taroの結論。 戦後60年、歴史いまだ真実に達せず。
以上、「皇道派」?「統制派」? でした。おわり。
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