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原田 熊雄
1888 - 1946
[ はらだ・くまお ]
西園寺公望秘書、貴族院議員、男爵、「原田日記(西園寺公と政局)」著者
エピソード 1調査中。
引用原田熊雄の祖父一道は軍人で男爵となり、父豊吉は科学者であった。
大磯に別荘があったことから西園寺家に関心をもち、京大在学中一級下の近衛と共に清風荘に出入りする内に西園寺の信任を得て、
大正十三年西園寺の秘書官となった。
この時は公爵・木戸幸一(近衛、原田と共に宮廷派京大トリオと呼ばれる)の推薦があったといわれる。
原田は西園寺の没年まで秘書を勤め、昭和五年三月六日から十五年十一月二十一日まで、
西園寺公をめぐる政局の裏面を近衛秀麿夫人泰子に口述筆記させた。
四百字詰原稿用紙七千枚に上る厖大なもので、昭和二十五年六月、岩波書店より刊行が開始された。
刊行にあたって友人の黒田敏が校閲を行っている。
豊田穣 「西園寺公望(下)」
P.218この本を入手
引用父健も、とつおいつ考えて外交修辞を見つける前に大雷をそれこそ
「例の調子で」とにかく一応落す人だったが、原熊さんの雷は有名であった。
電話は非常に屡々かかって来たが、もしもしとか今いないとかの応答がモタモタすると、
「例の調子」が電話線の向うでたちまち落っこちるのであった。
したがって原熊さんからと知ったとたん、電話取次のすべての人間は、
母も私も女中も書生も競技レース出場のときのように敏捷になった。
「原田さんのお電話」と取次ぐさえ長すぎるから、「パパ、クマッ」「旦那様、ハラクマさま!」しかし、
そこが人柄と言うものか、早く猛烈に来るがすぐ消えて女々しい尾を曳かぬ雷の本性がわかっているから、
だれも原熊さんを悪く言わなかった。
しかし、いきなり怒鳴りつける「例の調子」の一方―と言うよりも
怒鳴らずにいられないほどすべての回転が他人より早いからこそ、彼、原熊さんはまた驚くべき緻密の人であった。
記憶力も綿密な事務能力も抜群であった。
そうでなかったら、興津と言う都を遠くはなれた漁村に住む元老と東京中央との機密連絡一切を引受ける秘書役は
決してつとまらなかった筈である。
熊さんは平河町の、いま都市センターホテルが建っているあたりにあった、地味で静かなたたずまいの、
外見は和風の家に住んでいた。陽当りはどうもよくなかった。
この家こそ、戦争までの日本の上層政治形勢の舞台であった。
四分の一フランス人の彼は少々太りすぎてはいたが、整った要望と日本風の黄色の甚だ少ない、
白人風の肌を持っていた。
だから、学習院で私の六つか七つ上級の―のちにシューマンの研究家となられた
―お嬢さん康子さんも極めて美しかった。
記憶にのこる当時の康子さんは、瞳の大きな足のすんなり伸びた明るい少女で、
いつも軟球テニスのラケットを粗末なズックの袋に入れて持ち歩いていた。
犬養道子 「ある歴史の娘」
P.139この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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