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士官学校事件
1934/11/20
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用ある日辻は、彼の中隊の候補生佐藤勝郎(長崎県大村出身)から、
彼の隣の中隊の候補生武藤与一が、上級の候補生数名とともに、先輩の村中孝次大尉や磯部浅一主計、
西田税予備少尉らの影響のもとに、国家改造理論の研究グループを作り、何事かを画策している模様で、
自分も参加をすすめられている、という報告を受けた。
辻は佐藤候補生に引き続き彼等の動きを偵察することを命じ、その報告によって、
彼等の計画の概要を知った。
それによると、彼等は十一月二十一日の臨時議会の前後に、ほぼ五・一五事件と同様の規模と方法でクーデターを断行し、
首相岡田啓介、前首相斎藤実、公爵西園寺公望らの元老、重臣を暗殺して、警視庁を襲撃し、
荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを主体とする軍政府を樹立しようというのであった。
辻は参謀本部の同僚で、彼より五期先輩の少佐片倉衷(終戦時少将、第二百二師団長、その後商事会社経営)と、
同期の憲兵大尉塚本誠(終戦時大佐、東部憲兵隊司令部高級部員、戦後電通社長室長)に相談して橋本陸軍次官に報告し、
断乎たる処分を要望した。士官学校事件、あるいは十一月二十日事件というのがこれである。
以上の記述は、大体、辻、片倉、塚本らの言うところによったものだが、
当時の候補生武藤与一(戦後葛飾区で書店経営)によれば、このクーデター計画は全く事実無根で、
辻たちが捏造したものにすぎないという。
すなわち、辻の内意を受けた佐藤候補生は、革新の同志を装って、武藤に接近し、村中、磯部、西田らの家へ案内させると、
ほかの話はそっちのけにして、重臣では誰と誰を殺すべきだとか、蜂起の時期は何時がいいとか、
夢中になって論ずるので、かえって相手から、今はその時期にあらず、国民全体の盛り上がる力を待つべきだと、
なだめられたくらいであった。
しかし、佐藤は色をなして反論し、なおも過激なことを言い募り、また、士官候補生一同の赤誠溢れる要望を、
青年将校たちは見殺しにするのかなど、畳みかけてくるので、村中たちは彼の熱意に押されて、
自分でもそれほどハッキリ考えているわけでもない暗殺計画や、大体の時期や、同志の名前を告げて、
佐藤を一応満足させねばならなかった。
佐藤はそれをメモして帰り、辻大尉に報告したので、ここに十一月二十日事件という架空の反乱計画がデッチ上げられた。
(当時中尉だった末松太平の「私の昭和史」の記述も、この事件は辻の陰謀だったと断じている)
そして武藤、末松らの意見によれば、当時青年将校や士官候補生の間にありもしなかったクーデター計画を、
わざわざ純真な佐藤候補生を使ってスパイさせた辻の卑劣と狡猾こそ責められるべきであり、
それがひいては相沢中佐による永田少将刺殺事件をひき起し、二・二六事件の原因にもなっているという。
杉森久英 「参謀・辻政信」
P.72
引用十一月に、いわゆる士官学校事件が起っている。
辻が、士官学校生徒を青年将校の村中孝次、磯部浅一のもとに出入りさせ、
彼ら青年将校が不穏な非合法計画を練っていると摘発した事件である。
この計画を、辻は、参謀本部の片倉衷少佐や憲兵隊の塚本誠大尉らと共に陸軍次官に訴え、鎮圧を要求した。
その結果、村中と磯部は拘禁され、取り調べを受けた。
ふたりは国家改造運動に熱心な皇道派の将校だったから、これは永田の指し金であると騒いだ。
辻も片倉も永田に近かったから、これも説得力があった。
のちに真崎が著わした『備忘録』には、永田一派の策略であったときめつけている。
むろん東條も、この策略の一部を担っていたとの意味が含まれている。
東條がこの策略に加わっていたか否かは明確ではない。
が、士官学校内に根強い皇道派の人脈を神経質な目で見ていたのは事実だし、
生徒が外部の勢力と接するのを嫌い、辻にも相当厳しい目で監視するように命じたことも想像に難くない。
辻はひときわ功名心に駈られている軍人だ。
彼が東條や永田に忠勤を励んで、事件をでっちあげたこともありえないことではない。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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