|
「暗い暦 ― 二・二六事件以後と武藤章 ― 」
参考書籍
著者: 澤地久枝(さわち・ひさえ)
この本を入手
発行: エルム 書籍: 単行本(290ページ) 定価: 円(税別) 補足情報:
昭和史の悪役・武藤章の実像を解明し、軍衣の男たちによる歴史を問い直す!! 二年の歳月を費して放つ意欲作!(帯)
|
|
引用昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、
軍務局長永田鉄山少将は、現役の陸軍中佐によって斬殺された。
背部に二刀、こめかみに一刀、さらにとどめの一刀が咽喉部にくわえられ、
軍服はおびただしい出血に黒々とぬれ、絨毯の血の海に、即死同然の凄惨な姿を横たえるまで、
ほとんど一瞬の出来事であった。
兇行時間は午後九時四十五分頃、永田少将は五十一歳、加害者は剣道の達人として知られた相沢三郎中佐、
四十六歳。永田は陸士十六期、相沢は二十二期、軍政の中枢と隊付とそれぞれにコースは異なっても、
陸軍はえぬきの軍人であることにかわりはない。
この日の夕刊は、永田を危篤であると報じ、犯人は某隊付中佐とふせた陸軍省発表をのせたが、
この夕刊の解説記事にもあるように、「現役将校が白昼公務執行中の上長官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、
我が陸軍未曾有の重大事」であった。
澤地久枝 「暗い暦」
P.11
引用二・二六事件をどう評価するにせよ、二十六日払暁から二十九日夕刻までの経過は、
のちに叛乱罪で処刑される男たちが、まるでなぶり殺されるような憤懣を書き遺す、実に不可解な経緯をたどっている。
まず二十六日、川島陸相から「蹶起の趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」にはじまる大臣告示が、
叛乱をおこした部隊に伝達される。
伝達者は山下奉文、しかも告示は二種類あった。
つづいて戦時警備令が下達されるが、これは叛乱部隊を正規の警備部隊に編入し、占拠中の場所で警備につくことを命じている。
正規の命令なく出動して殺傷をおこなった部隊が「公民権」をあたえられ、
食料その他正規の軍隊として待遇されたのはこの命令による。
二十七日、緊急勅令により東京市に戒厳令施行。
「叛乱」部隊は麹町地区警備隊として区処され、これを知った磯部浅一は万歳を唱えている。
二十八日、「出動」部隊は占拠をやめて原隊へ復帰せよという天皇の奉勅命令が第一師団の各部隊に伝えられるが、
「出動」して叛乱した部隊にこの命令は伝達されない。
そして二十九日、伝達されなかった奉勅命令に違反したという名目で、叛乱の烙印がおされ、鎮圧がおこなわれる。
しかし軍本来の命令と服従の関係にあって、
「下達せざる命令に抗すると言う理屈なし」(磯部の「獄中手記」)
なのである。生粋の隊付将校というべき安藤輝三の遺書に、
「『謀略ノタメノ命令』ハ断ジテ存在スルモノニアラザルナリ」
とあるのはまさに正論であり、存在してはならないいくつかの「謀略」ゆえに、
裁判は軍法の名のもとに一審即決、弁護人なし、非公開の「暗黒裁判」でなければならなかったのである。
青年将校二名の自決のあと、戒厳令下、勅命によって開設された東京特設軍法会議は、
十九名に叛乱罪で銃殺刑の断を下した(この二十一名中、十四名が妻帯していたのである)。
そして全処刑の終了後、叛乱幇助明白な真崎陸軍大将は無罪となった。
澤地久枝 「暗い暦」
P.54
引用英仏租界は中国の行政権も日本の軍事支配もおよばず、
臨時政府発行の聯銀券が通用しないだけでなく、法幣による操作で聯銀券の相場が上下されるなど華北経済の癌とみなされ、
ゲリラや共産軍の武器弾薬調達の場でもあった。
ここへ逃げこまれると日本軍憲は手が出せない。
折柄、中国聯銀天津分行の程錫庚の暗殺事件がおこり(十四年四月)、
その他の暗殺・狙撃事件犯人が天津租界へ逃げこんだのに対し、軍当局の犯人引き渡し要求を英国側が拒否する事態がおきた。
六月十四日、本間雅晴天津軍防衛司令官の名で、英仏租界交通制限が実施されるが、
これがいわゆる天津英租界封鎖事件である。
日英交渉は東京会談に移され、現地軍側の主席として武藤章は七月七日東京に着いた。
犯人引き渡しをはじめ治安関係事項の話し合いは、有田外相とクレーギー英国大使の話し合いで協調点に達したが、
聯銀券の流通、法幣の使用制限で話し合いは停頓。
七月から八月にかけての新聞は、「野戦部隊の幹部将校たる」武藤主席の強硬意見を連日のように伝えている。
八月十四日、武藤は会談打切りを宣告して羽田をたつが、
「軍代表けさ引揚げ断行 租界の実態悪化せんも 責は英国側に在り 北支軍 決然たる態度闡明」
と「北支軍当局談」が報じられ、
「“鉄血の教壇”で解決 武藤少将 英の頑迷痛撃」
と、羽田空港での談話形式による声明が夕刊第一面トップににぎにぎしく伝えられている。
澤地久枝 「暗い暦」
P.140
引用国内的には、十三年四月一日、
「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム・・・・・・)ニ際シ
国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂ウ」
と謳った国家総動員法が公布される。
この法案が衆議院に提出された際、発言の資格をもたない陸軍省軍務局課員の佐藤賢了中佐が、
委員の発言中に「黙れ」と叫んだ情景はよく知られている。
国政審議の場で、たかだか一中佐が「黙れ」と発言できるような議会であったということであり、
永田鉄山の構想の泥縄的拙速な、亜流の法案であったことが、「黙れ」という発言を必要とした背景でもある。
この法案の成立をめぐって、国会開会前、民政・政友両党は反対の態度を表明していたが、
四、五百名の防共護国団によって両党本部が十時間にわたり占拠され、警視庁はこれを黙認するという事件もあり、
しかも、近衛首相と風見書記官長がこの組織に金を出させられていたという事情も介在した。
澤地久枝 「暗い暦」
P.144
阿部内閣の陸相人事
引用後任の首相は陸軍がかつぎ出した阿部信行陸軍大将にきまり、
板垣陸相は陸軍を代表して少数閣僚制でゆくことを要望。
阿部内閣の発足がそれまでの内閣交替劇にくらべて異質なのは、陸軍側が後任陸相として
多田駿か磯谷廉介を推薦しようとし、新聞にもほぼ確定的に伝えられたのが、
一転して侍従武官長の畑俊六の起用にきまったこと、発足時の閣僚は陸軍の希望どおり、
わずか十二名、前内閣からの留任者が一人もないことである。
政治の面目一新が要求されていたのである。
総理の信任の時に、陛下は陸軍の非常によくないことをつくづく慨歎された後で、 「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承認する意思はない」と仰せられ、 極めて厳粛な御態度で、「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ。 たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても、自分にはこれを許す意思はない。 なお政治は憲法を基準にしてやれ。 外交は英米を利用するのが日本のためにいいと思う。 それからこの際であるから、ことに内務、司法、外務、大蔵の閣僚の選任については、 自分は深く関心をもつ」と仰せられた。 陛下のお考えでは陸軍大臣に御自分の思う者をお置きになって、 総理と協力してどうしても徹底的に陸軍の革正をしなければ、外交も内政も駄目だ、と深くお感じになったからである。 澤地久枝 「暗い暦」
P.150
阿部内閣の挫折
引用阿部内閣は貿易省設置問題で外務官僚に反撃され、
米穀対策では農林官僚にソッポをむかれ、米穀が不足し、食糧危機・代用食問題が日常会話に登場する事態を招いた。
基本的には、支那事変を二年戦うことで早くも国力の底がみえはじめたということである。
陸軍は一部の下士官兵の帰農などの応急の措置をとる一方、農林省の決断をきびしく督促した。
官僚の協力を得られない弱体内閣の補強策として、政党政治家の入閣が考えられ、
阿部内閣は町田総裁に対して文字どおり三顧の礼をつくして入閣を要請した。
畑陸相の意を体して武藤軍務局長が牛込の町田私邸を訪問したという記事が新聞にのったのは、説得工作の初期のことである。
この顛末は、阿部内閣の弱体をさらけだしたものとみなされて、
新聞は「内閣へ不信昂る」の記事をのせる。
米価値上げ、煙草値上げとインフレは昂進し、例年よりも寒い冬をむかえて木炭の配給も不十分で、
「政府はあれども政治はなし」といわれた。
澤地久枝 「暗い暦」
P.154
引用武藤がなぜ軍務局長をおわれたか、考えられるいくつかの事情をまとめておく。
第一に、局長人事の決定権は東条陸相にあり、開戦後のあいつぐ勝報に自信をつけた東条に、
政治能力・識見でまさっている武藤を忌避する気持がはたらいたこと。
また東条内閣誕生時の、武藤の反星野・反鈴木の言動が、当人たちの耳に入り、東条の気持に投影した事情もある。
矢次一夫は、従来指摘されてきた「星野のうらみ」とともに、参謀本部から仇敵視されて、
陸軍省内でも孤立していた武藤が、十七年元旦、和平の方策を要路に説いたことが戦果に酔う東条を決定的に刺激したことにふれ、
もう一点、直接の引金となったと思われる事情をあかした。
熊本出身の技術者で逓信省工務局長の松前重義が、有馬頼寧をNHK会長にかつごうとし、
有馬の秘書とともに武藤にたのんだ。
たのまれた武藤は、その実現のため関係機関にはたらきかけた。
これが、日頃武藤を使いきれなかった東条に切札をあたえたというのである。
民間人事にまでくちばしを入れるとはなにごとかということで、
武藤の政治関与に対する東条の忌避に理由をあたえた。
田中隆吉は東条人事によって憲兵を主管する兵務局長になり、
軍務局長のポストを狙っていたといわれる。
澤地久枝 「暗い暦」
P.242
富永恭次
引用マニラ撤退に反対していた富永司令官の第四航空軍司令部のマニラ撤退は一月七日。
武藤はその病床を見舞い、台湾への転進をすすめ、山下軍司令官もそのための意見具申電報の起案を命じた。
しかし、一月十七日、富永中将は突然飛行機でルソン島から台湾へ脱出した。
「諸君だけを死なせるのではない。この富永も、最後の一機で、必ず突入する。
どうか、安んじて出撃してもらいたい」
と特攻隊出撃にあたって訓示を繰り返していただけでなく、司令官として、
特攻出撃計画にあたって明らかに平衡感覚を失調していた富永のこの行為は、実状において敵前逃亡にひとしかった。
(高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』上、下巻)
東条首相兼陸相のもとで一年半にわたり陸軍次官をつとめ、また人事局長を兼任するなど、
東条時代の並び大名であった富永は、東条失脚後第四航空軍司令官で前線に出され、
特攻隊で多くの青年を死なせ、この台湾への離脱によって二十年二月に待命、五月に予備役に編入されている。
澤地久枝 「暗い暦」
P.249
「武藤は俺にはすぎた参謀長だよ」
と副官にもらしたというが、誰の目にもこの二人のコンビはぴったりと息が合ってみえた。
二人のいびきはものすごく、二人とも相手の方が重症だといって譲らず、それでは今晩きいて審判してくれということになって、
護衛憲兵の桜井軍曹は一夜両将軍のいびきをきいていた。
山下のいびきは高いが休止があり、武藤にはそれがなくて結局勝負なしとなった。
【中略】
参謀の一人栗原賀久は、武藤参謀長から、
「お前たちは参謀長がこまかいというが、軍司令官閣下に比べれば、百分の一にも及ばんよ」
といわれている。
「あの第一線からの報告に、こういう文章があっただろう。あれを入れろ」
などとこまかに指示をした。
参謀たちは伝令代わりに動き、参謀業務のほとんどは武藤一人でこなし、多忙な日々であり、
その忙しさのなかで、いつ前線からの報告を仔細に読んでいるのか、栗原参謀は疑問にさえ感じた。
瀬振りには午前二時にもローソクのあかりがもれていた。
武藤はいかなるときも表情がかわらず、眉毛ひとつ動かさなかった。
陸士を出て任官して十三年、武藤、山下にまさる上官につかえたことはないと栗原賀久は語っている。
澤地久枝 「暗い暦」
P.251
引用山下は、ナチス・ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判の公訴提起
一九四五年(昭和二十年)十月十八日よりも早く、九月二十五日に起訴、
十二月七日に絞首刑の判決がおり、米人弁護団の米国最高裁への提訴も破れて、
二十一年二月二十三日午前三時、マニラ郊外で絞首された。
マニラ市を主とするルソン島における日本軍の残虐行為の責任を問われたのである。
参謀長であった武藤自身は、この事件にかんして「クリヤ」になったと告げられていた。
判決の十二月七日は、米国民にとってはパールハーバー・アタックの忘れがたい日付であり、
この日に判決日をあわせたことは、
山下裁判が米国民の敵意と報復意図の計算のうえに組み立てられていた一面をのぞかせている。
澤地久枝 「暗い暦」
P.257
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
http://www.c20.jp/
おたよりはこちら |