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日本軍、天津英仏租界を封鎖
1939/06/14
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
当時の日本は、戦争を戦争と呼びたくないとき、それを事変という言葉で表した。
なぜ戦争と呼びたくないかといえば、戦争と認めてしまうとアメリカの中立法に引っかかり、
軍需物資が入ってこなくなり、経済も大打撃を受けるからだ。
どう呼んでも戦争は戦争だろう、そう思うのはtaroばかりではあるまい。
だが、そんな日本の詭弁をアメリカの方でも内心歓迎した。
アメリカもまた、経済上の理由から、日本に対して中立法を適用したくなかったのだ。
そんなアメリカに日米通商航海条約の廃棄を決意させたのは、遠い中国大陸からのニュースだった。
天津の租界地では、野蛮な日本の兵隊が、白人のレディーズ&ジェントルメンを裸にひん剥いて身体検査をしている! 世論は沸騰した。
これがきっかけで、日本は以後、アメリカの経済制裁の脅威にさらされることになる。
引用英仏租界は中国の行政権も日本の軍事支配もおよばず、
臨時政府発行の聯銀券が通用しないだけでなく、法幣による操作で聯銀券の相場が上下されるなど華北経済の癌とみなされ、
ゲリラや共産軍の武器弾薬調達の場でもあった。
ここへ逃げこまれると日本軍憲は手が出せない。
折柄、中国聯銀天津分行の程錫庚の暗殺事件がおこり(十四年四月)、
その他の暗殺・狙撃事件犯人が天津租界へ逃げこんだのに対し、軍当局の犯人引き渡し要求を英国側が拒否する事態がおきた。
六月十四日、本間雅晴天津軍防衛司令官の名で、英仏租界交通制限が実施されるが、
これがいわゆる天津英租界封鎖事件である。
日英交渉は東京会談に移され、現地軍側の主席として武藤章は七月七日東京に着いた。
犯人引き渡しをはじめ治安関係事項の話し合いは、有田外相とクレーギー英国大使の話し合いで協調点に達したが、
聯銀券の流通、法幣の使用制限で話し合いは停頓。
七月から八月にかけての新聞は、「野戦部隊の幹部将校たる」武藤主席の強硬意見を連日のように伝えている。
八月十四日、武藤は会談打切りを宣告して羽田をたつが、
「軍代表けさ引揚げ断行 租界の実態悪化せんも 責は英国側に在り 北支軍 決然たる態度闡明」
と「北支軍当局談」が報じられ、
「“鉄血の教壇”で解決 武藤少将 英の頑迷痛撃」
と、羽田空港での談話形式による声明が夕刊第一面トップににぎにぎしく伝えられている。
澤地久枝 「暗い暦」
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※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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