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ノモンハン事件
1939/05/12
~ ソ連機械化部隊、衝撃の強さ ~
⇒ 陸軍の対ソ戦略に大打撃 (陸軍の仮想敵国、大本命はソ連)
taro's トーク
ああああああ
引用ノモンハン付近の国境線は、日本と満州国はハルハ河と主張していたが、
ソ連と蒙古はノモンハンとみなしていたため、しばしばこぜりあいがあった。
五月十二日の蒙古軍と日本軍の衝突のあと、日満ソ蒙は兵力増強をつづけ、
六月から九月にかけて二次にわたり戦闘が行なわれたが、日本軍は完膚なきまでにたたきのめされ、
戦死者行方不明者八千三百名、戦傷戦病を含めると一万七千人もの兵隊が戦力から脱落した。
この戦闘の結果、「ソ連地上兵力の主戦力である砲兵、戦車の火力、装甲装備は日本軍とは段違いに強力であること」が
明らかになったし、航空兵力も当初は日中戦争の経験を積んだ日本空軍が優勢だったが、
そのうちソ連空軍は速力、火力での優位を利用して戦力を向上して猛爆撃を加えてきた。
参謀本部は「ノモンハン事件研究委員会」を設けて敗因を検討したが、
抜本的な装備には手をつけず、あるていどの火力装備補強で当面の欠陥をカバーすることにした。
歩兵の白兵主義という戦術を一掃する機会であったのに、それを捨てる勇気はなかったのだ。
引用昭和十三年三月、辻は少佐に昇進した。
そして翌十四年五月、ノモンハン事件が勃発した。
この日本陸軍にとって不名誉な戦いにおいて、最も顕著なことは、軍の中央部が終始一貫して不拡大、局地解決の方針を
取っていたのに対して、関東軍がそれを無視して、攻勢に出ようとしたことである。
彼らは、おそらく参謀本部へ事前に連絡すれば禁止されるだろうという見通しで、秘密のうちに、
外蒙タムスク飛行場を空襲する計画を進め、それが事前に洩れて、中止を命ぜられるや、
予定を繰り上げて空襲を決行するほどの熱中ぶりであった。
彼らの本心は、真に国家の前途を憂えるとか、民族の幸福を願うとかいうことのほかに、
宿敵ロシアを相手に華々しく一戦を交え、大戦果をあげたいという、職業軍人の浅薄な功名心から出たものであった。
幼年学校、陸士以来ロシア語を学び、深く理由を究めることもなくただロシアに対する憎悪と敵愾心だけを植えつけられた彼らは、
あたかも怪しい人影さえ見れば、見つかいなく吠え立てるように訓練された番犬のように、
相手がロシアだということだけで、条件反射的に、盲目的に突進したに過ぎなかった。
そしてこの関東軍参謀部において、はじめから終りまで最強硬論をとなえ、全体をひきずっていたのは、
作戦主任参謀服部卓四郎と辻参謀であった。
このときの関東軍参謀長は磯谷廉介中将(陸士十六期)であった。
磯谷は辻政信が若き中尉だったころの歩兵第七連隊長で、(もっとも、彼が着任した昭和三年八月から四ヵ月後の十二月には、
辻は陸大に入学しており、直接部下として交渉のあったのはごく短期間であったが)そのとき以来辻の人物に惚れ込んで、
賞讃を惜しまず、人が磯谷の前で辻のことを誹謗すると機嫌を悪くするほどであった。
報知新聞の軍事記者佐野増彦などは、このへんのコツを心得ていて、磯谷に誰かを紹介するときは、
閣下の前で辻の悪口だけは言わん方がいいよと、あらかじめ注意をしたものであった。
【中略】
しかし、ノモンハン事件の惨憺たる敗北の原因は、敵と味方の兵力の誤算にあったのである。
服部も辻も、世評では作戦の大家ということになっており、特に辻については、作戦の神様という称号まで流布しているが、
ノモンハン事件におけるこの誤算だけでも、彼を神様の座からひきずり下す理由として充分であろう。
杉森久英 「参謀・辻政信」
P.84
引用ノモンハン事件とは、満州国とモンゴルとの国境線が曖昧なホロンパイルの草原で、
一九三九(昭和十四)年五月モンゴル軍と満州国軍とが衝突したことをきっかけに、
関東軍がモンゴル軍及びソ連軍に対して
独断専行的に戦いを挑み、完膚なきまでに敗れた事件である。
当時ソ連はモンゴルと同盟を結び、同国防衛のために軍隊を駐留させていた。
満州国と日本との関係に、やや似ていたと言えるかもしれない。
八月下旬まで断続的に続いた戦闘で、ソ連軍が投入した圧倒的な兵力と、強力な砲兵および戦車の前に、
広漠とした草原の国境地帯で戦った関東軍は壊滅的な打撃を被った。
七月以降の日本側の参加兵力約六万、戦死約八〇〇〇、戦傷・戦病・生死不明約一万二〇〇〇であった。
主力の第二三師団では、人員一万六〇〇〇のうち戦死・戦傷・戦病が一万二〇〇〇を超えた。
連隊長クラスでも戦死、あるいは戦場での自決が相次いだ。
ソ連軍・モンゴル軍も苦戦し相当の犠牲を出したことは事実だが、日本側が受けた打撃はそれをはるかに上回った。
ノモンハン事件の発生と敗北には、いくつかの要因が重なっている。
大本営の指示が不明確であり、そこを関東軍の少壮幕僚、とくに辻政信少佐(三六期)と
作戦主任の服部卓四郎中佐(三四期)とに衝かれてしまった。
辻らは、ソ連軍の国境侵犯再発を防止するためには、ここで一撃を加えるべきであると強く主張し、
大本営を一時欺いてでも、武力発動に訴えようとしたのである。
またしても、現地軍の独断専行と下剋上であった。
ソ連側が本格的な反攻に出てくるという情報がないわけではなかったが、
どれも真剣には取り上げられなかった。
ソ連軍に関東軍の力を思い知らせて国境侵犯を繰り返させないという目的を、
辻らは何よりも優先したからである。
作戦優先、情報軽視という、これから何度でも繰り返されるパターンが始まっていた。
それに、ソ連軍の能力が過小評価されていた。
たしかに数のうえでは兵力は多いが、数的優位は必ずしも戦力の優位を意味するとは限らない、と判断された。
実際には、兵力だけでなく、兵器の質と量でもソ連側が優位にあった。
それがとくに顕著だったのは火砲と戦車である。
兵站、機動力もソ連側が上回った。
日本軍の戦車は敵陣地の機関銃を黙らせ歩兵の攻撃を援助する(歩兵直協)ためにつくられた軽戦車あるいは中戦車であり、
戦車と戦うことを想定してつくられたソ連軍の重戦車に対抗できなかった。
ソ連軍の戦車に対して、当初有効だったのは、速射砲と火炎瓶である。
対戦車兵器として最も活躍したのが火炎瓶だったというのは、ノモンハンでの日本軍の実態をよく象徴している。
だが、事件の後半段階ではソ連軍の対処策により火炎瓶の効果もなくなった。
戸部良一 「日本の近代(9)」
P.295この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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