|
「ヒトラーの時代(下)」
参考書籍
書籍: 文庫(187ページ)
この本を入手
目次: はじめに |
|
引用ヒトラーは、一九三六年夏にオーストリアと協定をむすんで以来、
これを手だてとしてこの国への圧力をつよめていた。
これに対し、オーストリア首相のシューシュニクは、できるだけ回避的な態度をとっていたが、
一九三八年はじめになると、両国間の緊張は、もはやそうしたやりかたを許さぬほど高まった。
そこで二月十二日に、シューシュニクはみずから南ドイツのベルヒテスガーデンの山荘にヒトラーをたずね、
なんとか彼とのあいだに諒解をとりつけようとする。
しかし、これは逆効果だった。
ヒトラーの威嚇のまえに、シューシュニクは、ベルヒテスガーデンでかえって重大な譲歩をさせられてしまった。
すなわち、オーストリア・ナチスの指導者ザイス=インクヴァルトをただちにオーストリア政府の内相に任命することや、
オーストリア・ナチスを合法化し、とらえられているすべてのナチス党員を釈放することなどを約束させられたのだ。
こうして、オーストリアの独立は、風前のともしびとなった。
しかし、シューシュニクは最後の努力をあきらめない。
三月九日、彼はつぎのような計画を発表した。
すなわち、きたる十三日にオーストリアの独立を支持するかどうかを、国民投票にかけて問おうというのである。
これは、あきらかにヒトラーの合邦政策に対するシューシュニクの挑戦であった。
この報をうけとったヒトラーが激怒したことは、いうまでもなかろう。
彼は、国防軍にむかってオーストリア進駐の準備を命令した。
そしてオーストリア政府に対しては、最後通牒のかたちで国民投票の延期をもとめ、
さらにシューシュニクにかえてザイス=インクヴァルトを首相に任命することを要求した。
いったんは抵抗の姿勢をしめしたオーストリア政府であったが、
このようなヒトラーの強硬な態度に直面しては、もはや戦うすべを知らない。
ついに十一日の夜半にいたって、オーストリア大統領のミクラスは、ザイス=インクヴァルトを首相に任命した。
そして翌十二日早暁、ドイツ軍隊は、この新首相の要請によると称して、オーストリア領土に無血のうちに進駐したのである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.16
ズデーテン問題
引用ズデーテンラントは、チェコスロヴァキアのなかでも有数の工業地帯であり、しかも、この国の対独防衛戦略上もっとも重要な地域であった。
ところが厄介なことは、この地域の住民の大多数をしめていたのが、三百万人あまりのドイツ系のひとたちだったということである。
これらのズデーテン=ドイツ人は、ヘンラインのひきいるズデーテン=ドイツ党を先頭にたてて、
チェコスロヴァキア政府に対する自治の要求をしだいにつりあげていった。
とくに一九三八年春以降、彼らの運動は、とみに活撥化した。
その背後で糸をひいていたのがヒトラーであったことは、あらためてことわるまでもない。
ズデーテン=ドイツ党は、オーストリア・ナチスとおなじように、ヒトラーの征服のための尖兵の役割をはたすことになったのだ。
ヒトラーは、ズデーテン=ドイツ人の自治の運動を指嗾する一方、国防軍に対しては、
チェコスロヴァキアの侵略のための「緑色作戦」とよばれる作戦計画をつくらせた。
そして五月末には、みずからこの計画に署名するとともに、その実施の期日を同年十月一日以降と定めた。
こうしたヒトラーの政策のために、ドイツとチェコスロヴァキアとの関係は、
一九三八年の夏を通じて緊張の一途をたどらざるをえない。
とりわけ九月十二日にヒトラーが、ニュルンベルクのナチス党大会で公然とチェコスロヴァキアへの干渉の意図をほのめかすにいたって、
両国の緊張は、一触即発のぎりぎりのところまで高まった。
ズデーテンラントのドイツ系住民の騒擾は、すでに叛乱の性格さえおびるようになった。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.20
チェンバレンの対独外交
引用一九三八年九月なかば、プラハでもパリでもロンドンでも、ひとびとは、
まもなくドイツのチェコスロヴァキアに対する襲撃がはじまるであろうという予感におびえきっていた。
プラハでは、市民にガス・マスクがくばられた。
また駅々は、ナチスの魔手をのがれようとするユダヤ人やドイツからの亡命者などでごったがえしていた。
だが、まさにこの瞬間に、イギリス首相のチェンバレンがヨーロッパの平和を救うために行動を開始したのである。
九月十五日、彼はうまれてはじめて飛行機にのり、ベルヒテスガーデンのヒトラーのもとに飛んだ。
そしてヒトラーに対し、ズデーテンラントのドイツへの割譲を原則的にみとめるとともに、
この線にそってチェコスロヴァキア政府にはたからきかけることを約束したのだった。
事実、一週間後の二十二日には、チェンバレンは、この問題に関するチェコスロヴァキア政府の同意をポケットにいれて、
ふたたびヒトラーのまえにあらわれる。
こんどは、会談の場所は、ベルヒテスガーデンではなくて、ボンのちかくのゴーデスベルクだった。
チェンバレンは、チェコスロヴァキア政府が平和裡にズデーテンラントを手ばなすことに同意した以上、
戦争の危機は克服されたものと確信していた。
そして、ヒトラーがこの結果に満足の意をしめすものとばかり信じていた。
ところが、案に相違して、ゴーデスベルクのドレーゼン=ホテルにチェンバレンをむかえたヒトラーは、
イギリス首相の期待を裏切ってつぎのようにこたえる。
「まことに残念ですが、ここ数日来のできごとにより、その案は、もはやなんの役にもたたなくなりました」
このことばをきいたとき、チェンバレンの「梟のような顔は、おどろきと怒りで紅潮した」という。
もともとヒトラーにとっては、ズデーテンラントの問題は、
チェコスロヴァキアを征服するための口実にすぎなかったのだ。
だから、この問題がそう簡単にかたづいてしまっては困るのである。
そこでヒトラーは、あわれなイギリス首相をまえにして、とうていチェコスロヴァキア政府がのめそうもないあたらしい要求をもちだした。
すなわち、(一)十月一日までに(!)ズデーテンラントをドイツにあけわたすこと、
(二)チェコスロヴァキア政府は、ポーランドやハンガリーがチェコスロヴァキアに対しておこなっている領土要求に耳をかたむけること。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.21
引用九月二十九日、木曜日。チェンバレンは、イギリス政府の全閣僚の見送りをうけてミュンヘンにむかう機上のひととなった。
二十日間にもみたないあいだに三度も、大英帝国の首相がドイツの独裁者のもとへおもむこうとしているのだ。
すべては、なんとしてでもヨーロッパの平和を救いたいという願望からにほかならない。
ミュンヘン会談は、「総統の家」とよばれる旧王宮の構内に新築された建物のなかでおこなわれた。
出席者は、イギリスのチェンバレン、フランスのダラディエ、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニの各首脳であった。
特徴的なことは、これからチェコスロヴァキアの領土問題が議されようとしていたのに、
肝心のこの国の代表が会議に出席をみとめられなかったことである。
ミュンヘンにやってきたチェコスロヴァキア政府の代表は、会議のあいだじゅう別の部屋で待たされ、なんの発言も許させなかったのである。
会議は、ムッソリーニがたずさえてきた提案―実は、
ドイツのゲーリングらによって前日に作成されたもの―を中心にすすめられた。
英仏の首脳は、最初からヒトラーに譲歩するつもりでミュンヘンにやってきたのだから、
大きな点では意見のくいちがいはおこらなかった。
二十九日の夜いっぱいをついやして討議がつづけられたのち、翌三十日の午前一時すぎになって妥協に達し、
ここにいわゆるミュンヘン協定が調印された。
その内容は、ゴーデスベルクでヒトラーがもちだした要求をほぼそのままみとめたものだった。
すなわち、ドイツ軍は十月一日からズデーテンラントの進駐を開始し、十月十日までにこの地域の占領を完了するものときめられた。
また、ポーランドやハンガリーのチェコスロヴァキアに対する領土要求は、別途に解決さるべきものとされた。
このミュンヘン会談の結果は、英仏を通じてチェコスロヴァキア政府に有無をいわさぬかたちでおしつけられた。
「わたしは、いまでもあの運命の夜のことを思いだす。
会合のあと、『総統の家』のひろい階段を気どっておりていったヒトラーの目の勝利のかがやき、
特別製の軍服に身をつつんだムッソリーニの得意げなおももち。
レギナ・パレス・ホテルにもどってゆくチェンバレンのあくびと、そのここちよく眠たげな様子」
ミュンヘン会談の取材にあたったアメリカのジャーナリストのシャイラーは、こんなふうに回想している。
「われわれは、昨夜調印された協定(つまりミュンヘン協定)と英独海軍協定とを、
相互に決して戦争をしないという(英独)両国民の願望の象徴とみなす」
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.25
引用ネヴィル・チェンバレン。彼は、ヒトラーより二十歳も年長の一八六九年うまれである。
つまり、チェンバレンの人間形成は、十九世紀のヴィクトリア朝はなやかなりし雰囲気のなかでおこなわれた。
しかも、その生家は、「帝国の膨張とともに、チェンバレン家が契約する」とまでいわれたほどの、
バーミンガムきっての工業家である。
父のジョゼフは、十九世紀末に植民相の地位につき、大いに帝国主義政策を鼓吹したことで知られている。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.28
引用八月二十一日の晩おそく、ヒトラーは、待ちのぞんでいたスターリンからの回答をようやく手にする。
それは、きたる二十三日に独ソ不可侵条約に調印するために、ドイツ外相リッベントロップのモスクワ訪問をみとめるという趣旨のものだった。
二十三日昼、リッベントロップをのせた四発の大型輸送機がもモスクワの飛行場にすがたをあらわした。
機は、ソヴェートの国旗とナチスの鉤十字旗とが仲よくならんではためくまえで、滑走をとめた。
ドイツ国歌とインターナショナルが、ドイツからの客を歓迎するために鳴りひびいた。
モスクワにおける独ソ交渉の仕上げは、まことに友好的な雰囲気のうちにすすめられた。
リッベントロップは、スターリンやモロトフといっしょにいるとき、
「古くからの党の仲間のあいだにいる」ような気持になった。
スターリンはスターリンで、「ドイツ国民がいかに彼らの総統を愛しているかを、わたしはよく知っている」といって、
すすんでヒトラーの健康のために乾杯した。
このような雰囲気のなかで成立をみた独ソ不可侵条約は、つぎのような内容のものであった。
(一)いずれの締約国も相手側を攻撃しない。(二)もしも締約国の一方が第三国の「戦争行為の対象」になる場合には、
他の締約国は、この第三国をいかなるかたちにおいても支持しない。
(三)締約国のいずれも、他方を直接・間接の対象とするようないかなる国際集団にも参加しない。
なお、この不可侵条約と同時に、秘密付属議定書の調印もおこなわれた。
それは、東ヨーロッパにおける独ソ両国の利益範囲を相互にとりきめたもので、とくにポーランドに関しては、つぎのように定められていた。
「ポーランドに属する地域の領土的・政治的変更がおこなわれる場合には、ドイツとソヴェートの利益範囲は、
ほぼナレフ、ヴィスワ、サン川の線によって境界づけられる」
第二次大戦がおわってのちも、ソヴェートは、長らくこの独ソ秘密議定書の存在をみとめることをこばんできた。
【中略】
ヒトラーは、右のようなスターリンとの事前のとりきめによって、
きたるべきポーランド攻撃をソヴェートに対するなんらの気兼ねなしに実行できることとなった。
もはや、ドイツの侵略に対して西方諸国とソヴェートが提携することをおそれる必要はなくなったのだ。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.53
引用一九三九年九月一日払暁、ドイツ国境方面からきこえてくる砲弾の炸裂音を、ポーランド人は、
晩夏の雷鳴の音とききちがえることはなかった。
そんなまちがいをおかす余地のないほど、すでに国際関係は緊張しきっていた。
快晴のその朝、西空にはしる閃光は、ポーランド人にとってただひとつのことを意味した。
すなわち、ヒトラーによってついにポーランド攻撃の火ぶたが切られたのである!
ドイツのポーランド進撃は、宣戦布告なしに開始された。
九月一日の国会演説で、ヒトラーはつぎのように述べる。
「昨夜、ポーランド正規兵がわれわれの領土にむかって砲火をはなった。
午前五時四十五分以後、われわれも撃ちかえしているし、これからさきは、爆弾に対しては爆弾をもってこたえるつもりである」
もちろん、ポーランド兵がドイツを攻撃してきたというのは、ヒトラーのつくりごとであった。
なるほど、八月三十一日の晩に、ポーランド国境ちかくのグライヴィッツの放送局が、
ポーランド兵によって占拠されるという事件があった。
しかし、これはヒトラーによってしくまれた芝居だったのである。
ポーランド兵とみせかけたのは、実は、あらかじめポーランド軍の制服を着せられたナチスの親衛隊員だった。
この芝居にはたいへん念がいっていて、放送局のそばには、射殺された強制収容所の死刑囚の死体が、
ポーランド兵のごとくみせかけてころがされているというぐあいだった。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.59
引用対ポーランド戦の過程で、ヒトラーは、はやくからソヴェートのポーランドへの共同介入をせまった。
つまり、独ソ不可侵条約の秘密付属議定書のとりきめにしたがってポーランドを分割すべく、
ソヴェートもまた軍をすすめるようにと、くりかえし要求したのだった。
だが、肝心のソヴェート政府は、ポーランドに介入するために適当な口実をみつけだすのに苦しんだ。
そこで、たとえば九月十四日には、ソヴェート外相モロトフは、ソヴェートが介入する口実として、
ドイツのポーランド攻撃の行為を非難してもよいか、とドイツ側に問いあわせた。
この奇妙な問いあわせに対し、ドイツ外相リッベントロップは、ソヴェートの軍事作戦は歓迎するが、
そのためにドイツを非難するのはもってのほかだと回答した。
結局、ソヴェートは、ソヴェートみずからの権益とポーランド内部のウクライナ人およびロシア人の権益を擁護する必要があるという理由をもとに、
九月十七日にポーランドに軍をすすめ、四十八時間以内にドイツ軍と接触するところまで達した。
こうして東西両方からの独ソの侵略にあって、ポーランドという国家は消滅する。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.63
引用ノルウェー作戦の成功がほぼあきらかになった一九四〇年五月十日、ヒトラーは、ついに西部でも攻撃にでた。
西部攻撃の作戦計画に関しては、国防軍の首脳とヒトラーのあいだに、どこに攻撃の重点をおくかで意見の対立があった。
陸軍最高司令官のブラウヒッチュや参謀総長のハルダーは、マジノ線のある独仏国境をさけ、
オランダ、ベルギーの中立諸国を通過してフランスに攻めいるという、ほぼ第一次大戦のときとおなじ作戦計画を主張した。
これに対しヒトラーは、それでは短期間に敵を粉砕して勝敗を決することが不可能であるとみなし、
マンシュタインという中将が進言した別の作戦計画を支持した。
それによると、攻撃の重点は、右翼(つまりオランダ、ベルギー方面)ではなくて、
中央のベルギーからルクセンブルク付近にわたる部分におかれるべきものとされた。
すなわち、困難な地形のゆえに敵側がドイツの進撃を予想していないアルデンヌ地方を通ってソンム下流の方向にすすみ、
ベルギー方面に進出している敵の勢力を背後からつくというのが、この作戦計画のねらいだった。
いいかえると、ドイツ軍の中央部がせりだしてゆくことによって、敵をベルギー方面と南部とに二分しようというものであり、
「三日月型鎌刈作戦」とよばれた。
結局、ドイツの西部攻撃は、この「三日月型鎌刈作戦」にそって実施されることになる。
五月十日の早朝、ドイツのB軍は、宣戦布告なしに、中立国であるオランダ、ベルギーに攻めいった。
まず、空挺部隊によって要衝をおさえ、そこへむかって戦車団が急進撃し、そしてそこからさらに戦線が拡大されていった。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.71
引用ダンケルク陥落の翌日から、ドイツ軍はパリ方面への攻撃にうつった。
これとともに、フランスの興亡をかけた戦闘がはじまった。
しかし、はやくも数日後には、この戦闘もフランス側にとって見込みのないことがあきらかとなる。
六月十一日には、フランス政府は、パリを去ってツールに居をうつさねばならなかった。
しかも、おなじ日イタリアの参戦がつたえられ、フランスの立場は、ますます不利となった。
ドイツ軍がパリにはいってから二日後の十六日、ペタン元帥を首班とするフランスの新政府が組織され、
翌日スペインを介してドイツに休戦を申しいれた。
独仏間の休戦協定は、二十二日、ヒトラー自身の出席のもとにコンピエーニュの森で調印された。
コンピエーニュの森といえば、一九一八年十一月に第一次大戦の休戦協定が成立した場所である。
二十年あまりの間隔をおいておなじ場所で、勝者と敗者がところをかえた休戦がむすばれたのだった。
この休戦協定によれば、パリなどをふくむ北部フランス―およそフランス領土の五分の二
―は、ドイツによって占領されることとなった。
そして、ドイツに占領されないのこりの地域は、ヴィシーに居をおくペタン政権の統治にゆだねられることとなった。
この政権は権威主義的・保守的性格がつよく、八十歳をこえた老元帥ペタンは、「フランス国主席」として、
大統領と首相の地位を兼ねる。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.74
引用フランコとは、十月二十三日、フランス・スペイン国境のアンダイで会見した。
この会見でヒトラーは、スペインがドイツ側にたって参戦するようはたらきかけたが、
フランコは、長い内戦の結果スペインの食糧や軍備の状態が劣悪であることなどを理由に、
参戦の確約をあたえなかった。
ヒトラーは、フランコを参戦に動かせなかったにがにがしさを表現して、のちにこう述懐している。
「このような会見をもう一度ひらくくらいなら、二、三本歯をぬいてもらうほうがましだ」
内乱中に独伊からうけた恩義にもかかわらず、フランコがスペインを大戦のまきぞえにしなかったことは、
彼の政治家としての手腕をしめすものであろう。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.87
引用ユダヤ人の組織的な抹殺について「最終的解決」をはかるという方針が確定したのは、
独ソ戦の開始後のことであった。
この点で忘れることができないのは、一九四二年一月にベルリン郊外にあるヴァンゼー湖のほとりでひらかれたいわゆる「ヴァンゼー会議」である。
この会議には、外務省、経済省、東部占領地域担当相など、ナチス政府の関係機関を代表する十五人の高官が出席した。
この会議で中心的役割を演じたのは、ゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解決」をまかされていた親衛隊の国家保安部長官ハイドリヒである。
彼は、出席者をまえにしてつぎのような趣旨の計画を披露した。
ヨーロッパは「西から東へむかってくまなくくしけずられ」なければならない。
つまり、ヨーロッパにおけるすべてのユダヤ人は「自然に減少させる」ことを目的として、
重労働に従事させるため、まず東方に移送すべきである。
そして、このようにしてもなおユダヤ人に対しては「適当な措置」をとるべきである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.118
引用もっとも重要なことは、米英ソの三大国が第二次大戦の戦争目標そのものに関しても、協力の姿勢をしめしたことである。
一九四二年一月一日、これら三大国をはじめとして、当時枢軸国と交戦状態にあった二十六ヵ国の代表がワシントンにあつまり、
「国際連合の声明」(連合国共同宣言)なるものに署名した。
この声明は、前年八月にローズヴェルトとチャーチルによって発表されていた大西洋憲章の諸原則(領土不拡大、軍備の縮小、
平和機構の再建など)への信奉を誓うとともに、交戦各国が全力をあげて枢軸国と戦い、
単独の休戦や講和はむすばないことを確認しあったものであった。
ちなみに、このとき枢軸国と戦っている国々を「国際連合」とよんだのは、
ローズヴェルトの発案であるが、これがそのまま、第二次大戦後も国際平和維持機構の名前として、
もちいられているのである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.137
引用米英側は、一九四二年のうちにフランスに第二戦線を樹立すべきだというスターリンの要求に応ずることはできなかった。
が、そのかわりに、この年の十一月七~八日、北アフリカへの上陸作戦(いわゆる「松明」作戦)を敢行した。
アイゼンハワー将軍の指揮のもとに、約十万の米英連合軍が、カサブランカ、オラン、アルジェなどの地域に上陸したのだ。
この上陸軍は、エジプト方面から西進しつつあったモントゴメリー麾下のイギリス軍と呼応し、
ロンメル指揮下の独伊軍を東西から挟み撃ちにした。
長いはげしい戦闘ののちに、最初はたがいに三〇〇〇キロちかくもはなれていたアイゼンハワーとモントゴメリーの両軍は翌年の四月七日にいたって
ついに合流した。
海と空からの補給路をたたれた枢軸軍は、とみに弱体化し、やがて南北に分断されるかたちとなった。
五月十三日には、その最後の抵抗力もつきはて、アルニム将軍と十五万の兵士が、連合国の軍門にくだった。
かつて北アフリカに勇名をはせた「砂漠の狐」ロンメル将軍は、すでにこのときには、
北アフリカの指揮をアルニムにゆずってドイツに帰っていたのである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.144
引用一九四四年六月六日の黎明。北フランスのノルマンディの沖合に五一三四隻からなる史上最大の艦隊がすがたをあらわした。
スターリンが待ちに待っていた、いや、全世界がかたずをのんでいまかと注視していた西側連合軍の北フランス上陸作戦が、
ついに開始されたのだ。
ダンケルクからイギリス軍が追いおとされてから、ちょうど四年がたっていた。
北フランス上陸作戦の計画は、あらゆる戦略的・戦術的条件を考慮にいれて慎重に立案された。
まず上陸の場所に関しては、米英の軍首脳は、はやくからノルマンディが最適の地であるという点で意見の一致をみていた。
この地域は、イギリス本土から発進する戦闘機の行動半径のなかにあった。
それに、空挺部隊が降下するに十分なひろがりをもった海岸地帯もあったし、
さらに、いったん橋頭堡をきずいた上陸軍がつぎの作戦にうつるに必要な後背地もひらけていた。
そのほか、シェルブール港を奪取することによって、以後の補給を確保できるという利点もあった。
一方、上陸作戦実施の時期は、六月五日から七日までのあいだにしぼられた。
月齢、潮の干満、日の出など、作戦に好適な条件がすべてそろうのは、この時期をおいてほかにはなかったからである。
一九四四年五月はじめ、連合軍総司令官アイゼンハワーは、きたる六月五日を作戦実施の日ときめる。
しかし、実際にこの日がちかづいてみると、悪天候のために、作戦は延期されねばならなかった。
連合軍の気象係は、翌六日も天候は一時的に回復するにすぎないだろうと予報するが、
アイゼンハワーは、その一時的な天候の回復を利用することに決心した。
六月六日の午前一時すぎ、まず空挺部隊の降下が開始された。
ついで黎明の到来とともに、オルヌ河口からコタンタン半島東部にわたる沿岸一帯に、爆弾と艦砲射撃のはげしい砲火をあびせた。
この砲火の掩護のもと、午前六時三十分、連合軍は五つの地点にわたって上陸を開始する。
そしてその日の夕方までに、アメリカ軍は二つのたがいに孤立した小さな橋頭堡を、
またイギリス軍は、幅三〇キロ、深さ一〇キロにわたる、ひとつながりの大きな橋頭堡を樹立することに成功した。
もちろんドイツ側も、はやくから連合軍の上陸作戦を予想して、防備をいそいでいた。
一九四二年秋以来、ヒトラーは、港湾の防禦を中心に、大西洋沿岸一帯にいわゆる「大西洋の壁」の建設をすすめさせていた。
だが、ドイツ側は、結局連合軍の上陸の時期と場所とを事前に正確にキャッチすることはできなかった。
六月四日、ドイツ軍の気象班は、むこう二週間にわたって険悪な天候のために連合軍の行動は予想されないと報告する。
そしてこの報告が、ドイツ軍首脳によってそのまま信じこまれた。
また上陸の場所に関しても、ドイツ側は、イギリス本土から至近距離にあるカレー付近をもっとも可能性が大きいとみなし、
ノルマンディよりもこの方面に防備の重点をおいていた。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.155
引用一九四四年七月二十日に、シュタウフェンベルク大佐を中心におしすすめられた計画も、
いま一歩で成功というところまでせまりながら、惜しくも失敗した。
その日、東部ドイツのラステンブルクというところで、ヒトラーを中心に作戦会議がひらかれた。
かねてヒトラー暗殺の機会をねらっていたシュタウフェンベルクも、補充軍の参謀長という資格で、
この会議に出席した。
午後零時四十二分、ヒトラーの足もとから数フィートの場所に何気なくおかれたシュタウフェンベルクの書類鞄のなかで、
予定どおりに時限爆弾が爆発した。
会議場にあてられていた兵舎からは爆音とともに煙と炎がまきおこり、その場にいあわせた四人が致命傷をおい、
他の数人が重傷を負った。
だが肝心のヒトラーは、奇蹟的に軽傷ですんだのである。
爆発がおこるまえにそっとラステンブルクの会議場をぬけだしていたシュタウフェンベルク大佐は、
ただちに飛行機でベルリンに飛び、かねて予定していたクーデター計画をおしすすめようとした。
だが、ここで、陰謀派の将校たちは、放送局の占拠をおこたるなど、いくつかの決定的なミスをおかした。
それに、ヒトラーが生きているという知らせがはいるとともに、陰謀派の将校たちのあいだにも動揺がおこった。
そして同夜のうちに、クーデターの首謀者たちはとらえられ、その幾人かは即決の裁判に付されて銃殺された。
シュタウフェンベルクは最後に「神聖なるドイツ万歳!」と叫んで死んだ。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(下)」
P.163
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
http://www.c20.jp/
おたよりはこちら |