|
「戦後日本政治史Ⅳ」
参考書籍
書籍: B6単行本(445ページ)
この本を入手
目次: 第一〇章 朝鮮戦争と日本
第一一章 講和と安保条約
第一二章 講和発効と独立 |
|
池田蔵相失言
引用吉田内閣は、アメリカの政策に即応しつつ、中国との自由な貿易に反対し、
講和政策では単独講和を志向していた。
彼らは、経済危機の犠牲者をひややかにみおろしていた。
池田蔵相は、三月一日、記者会見で「五人や一〇人の中小業者が倒産し自殺しても、それはやむをえない、
ドッジ・ラインという大きな政策転換の前にはいたしかたがない」と放言した。
彼は、これまでもエチケットをエケチットといったり、
オフ・ザ・レコード(記事にしないこと)をオフ・リミット(立入禁止)といったりして失笑を買っていたが、
中小企業についての放言は、失笑ではすまなかった。
蔵相秘書官の宮沢喜一は、ディス・インフレをもじって池田を「ディス・インテリ」と形容した。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1100
アメリカ、インドシナへの軍事干渉開始
引用東南アジアの焦点はひきつづきインドシナにあった。
二月一二日、ベトナム民主共和国のバンコク駐在代表は、米英仏三国の記者と会見し、
「ベトナム共和国軍はちかく反仏総攻撃を開始する」と声明し、
「総攻撃は単なるゲリラ戦闘ではなく正面衝突である」と言明した。
二七日、フランスは、アメリカに軍事援助を要請したと発表した。
アメリカ国務省の東南アジア特別調査団は、三月六日から一六日にいたる一〇日間、インドシナの事情を調査し、
即時援助の必要を本国に報告した。
アメリカは、援助をおくるよりも先に直接の軍事干渉にのりだした。
国務省の調査団がサイゴンを去ってビルマにおもむいた一六日、第七艦隊がサイゴン港にあらわれた。
港外に停泊する空母ボクサーから飛びたった四二機―一説に七一機―の編隊は、
中部ベトナムと軍港ツーロンの上空で編隊飛行を展開した。
一七日、ベトナム民主共和国の軍隊は、第七艦隊を砲撃した。
一八日、ベトナム民主共和国軍司令部は、ベトナム共和国の上空に飛来する米軍飛行機をすべて攻撃するよう命令した。
一九日、サイゴンの学生三〇〇〇名と労働者一〇〇〇名は反米デモを組織した。
二〇日、第七艦隊は厳重な警戒裡に去ったが、サイゴン市民の憤激は去らず、
学生や商人はタクシー運転手をもふくめてストライキをつづけた。
二三日、学生と労働者の闘争は激化し、バオダイ政権の警察とフランス軍は警戒態勢に入った。
バオダイ政権はゆらぎ、二六日、国防相と外相をふくむ三人の閣僚が「政府は何ら効果的な統制力をもっていない」という理由で辞表を提出した。
アメリカ第七艦隊の示威は失敗に終った。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1103
引用マッカーサーが共産党を攻撃すれば、吉田首相は全面講和論を攻撃した。
彼は、前年暮にアメリカで全面講和を主張した東大総長南原繁の言説をにくんでいた。
南原総長は、三月の卒業式においても、社会にでてゆく学生にむかって平和と全面講和を説いていた。
五月三日、自由党の両院議員秘密総会で演説した吉田首相は、「永世中立とか全面講和などということは、
いうべくしてとうていおこなわれないこと」であり、「それを南原総長などが政治家の領域にたちいってかれこれいうことは、
曲学阿世の徒にほかならないといえよう」と強調した。
南原総長は、五月六日、吉田首相に反論し、曲学阿世の徒などという「極印は、満州事変以来、美濃部博士をはじめわれわれ学者にたいし、
軍部とその一派によって押しつけられてきたもの」であり、
「学問の冒涜、学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」と逆襲して吉田首相の「官僚的態度」を非難し、
「全面講和は国民の何人もが欲するところであって、それを理由づけ、国民の覚悟を論ずるは、
ことに私には政治学者としての責務である」と強調し、
「複雑変移する国際情勢のなかにおいて、現実を理想に近接融合せしめるために、英知と努力をかたむけることにこそ、
政治と政治家の任務がある」にもかかわらず、「それをはじめから曲学阿世の徒の空論として、
全面講和や永世中立論を封じ去ろうとするところに、日本の民主政治の危機の問題がある」と声明した。
吉田首相は、八日、記者団と会見して「南原君が反論しようとしまいと、それは当人の勝手で、
私の知ったことではない」とうそぶき、「日本としては事実上アメリカなどとの単独講和はすでにできている」のだから、
「これを法的に講和にもってゆくべきだ」と主張した。
吉田首相の態度は、まさに官僚的であり、国民との対話をみずから拒否していた。
吉田首相の官僚的態度は、幹事長佐藤栄作の官僚的態度によって倍化されていた。
佐藤は、南原総長の声明にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって、
これは南原氏などにとやかくいわれるところではない」と反論し、
「もとより学問の自由は尊重するが、この問題はすでに政治の問題になっているので、
ゾウゲの塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と強調した。
彼は、「政治の問題になっている」からこそ国民が政治にたいして発言するのだという民主主義の原理を知らなかった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1112
朝鮮戦争直前の半島情勢
引用南北衝突の危機は、前々からしばしばつたえられていた。
アメリカの極東軍司令部やCIA・陸軍省・国務省などの出先機関は、前年の秋からほとんど毎月、
こんどこそ衝突が起るかもしれないという風評をつたえていた。
しかし、アメリカは、北鮮側は当分衝突を起さず、ゲリラ戦と心理戦争・政治的圧力と恫喝をもって南鮮の共産化をはかるものと結論していた。
アメリカは、むしろ李承晩が失地回復の北伐にのりだしはしないかと憂慮していた。
彼らは、軍事顧問団をおいて韓国の軍隊を訓練していたが、李承晩に北伐をゆるさないため、
韓国軍に大型兵器を与えないようにしていた。
軍事顧問団の団長ロバーツ代将は、「アメリカが韓国軍の北伐をおそれたため、
韓国軍は十分な武装をしていなかった」と語った。
アチソン国務長官は、韓国軍は重戦車も重砲も戦闘機ももっていないが、一つには韓国軍がこれらの武器の操作を知らないからであり、
二つにはアメリカが韓国にそれらのものをあたえなかったからであると説明した。
祖国統一民主主義戦線の攻勢はつづいていた。
六月七日、北鮮の中央委員会は、さらに平和的統一の推進を提議する呼訴文を発した。
彼らは、八月一五日の解放記念日を目途に統一政府をつくろうとよびかけた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1140
朝鮮特需
引用経済界は、朝鮮戦争の特需で息をふきかえしていた。
特需は、国連軍およびECA(アメリカ経済協力局)の日本の物資にたいする特殊需要であり、
はじめは土嚢の麻袋・有刺鉄線など短期の緊急物資買上げと車輛の修理や兵器の改装であったが、
戦争が長期化するにつれ、トラック・機関車・線路資材・ドラム罐などの需要にうつり、
八月下旬以降は週平均一四〇〇ドルの規模で発注がおこなわれてきた。
特需の増大は、まず戦争前の不況で山と積まれていた在庫品を一掃し、つづいて工業の生産規模を拡大した。
工業生産は、九月から上昇に転じ、一〇月には確実に戦前の水準を突破した。
戦争前に東南アジア援助計画のもとで提起されていた日本産業構造の重化学工業化は、
特需をささえとして実現されはじめた。
しかし、特需による経済規模の拡大は、またそれなりの矛盾を経済のうえにもたらした。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1193
対日講和に反対するフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドとダレス
引用日本をはなれたダレスは、その足でフィリピンと大洋州諸国をおとずれた。
フィリピンと大洋州諸国は、依然として日本の再侵略をおそれていた。
フィリピンは、前年の暮、戦争の被害五〇億ドルと略奪の被害三〇億ドルという計算で八〇億ドルの対日賠償要求を決定していたが、
巨額の賠償を要求したのは、フィリピンの復興をはかると同時に日本の再侵略をおさえようという意図であった。
ダレスは、日本国民の再軍備反対を事実としてあげて日本の再侵略にたいする恐怖をしずめながら、
米軍が日本から撤退した場合に日本にうまれる「真空状態」に共産主義が侵入してくる可能性をあげ、
日本の再侵略と共産主義の侵略にたいする一石二鳥の安全保障体制をつくりあげることによって対日講和への道をきりひらこうとした。
ダレスは、二月一二日にはマニラでキリノ大統領と会談し、
一五日から一八日にかけてオーストラリアの首都キャンベラでオーストラリアの外相スペンダーおよびニュージーランドの外相ドイジと会談し、
二〇日にはニュージーランドの首都ウェリントンで首相ホランドと会談し、三国の行脚を終えた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1236
マッカーサー解任
引用マッカーサーは、二四日、ワシントン政府と事前に協議することなく、共産軍にたいして威嚇的声明を発した。
マッカーサーの威嚇的声明は、トルーマン大統領の休戦のよびかけを不可能にした。
トルーマン大統領は、マッカーサーの声明をもって大統領たり軍総司令官たる自己の命令にたいする「公然たる反逆」であり、
「憲法に規定された大統領の権限への挑戦」であり、「国連の政策を侮蔑するもの」であるとみなした。
トルーマン大統領は、これ以上マッカーサーの不服従をゆるすことはできないと決断した。
【中略】 トルーマン大統領は、マッカーサーの処置を閣僚と討議した。
九日、閣議はマッカーサーの解任を決定した。
トルーマン大統領は、マッカーサーにたいする儀礼として、
この決定を折から朝鮮戦線の視察をかねて日本におもむいていた陸軍長官ペースの口から親しくマッカーサーにつたえさせることにした。
ペースは、九日に入京し、マッカーサーと会談し、朝鮮にでかけ、一二日に東京にもどってくる予定であった。
ところが、共和党系の新聞『シカゴ・トリビュン』がマッカーサー解任の決定をすっぱぬいた。
トルーマン大統領は、世論の反動がおこらぬうちに決定を発表しなければならぬと決意した。
彼は、四月一一日、午前一時という異例の記者会見でマッカーサーの解任を公表し、後任として第八軍司令官リッジウェイ中将を
国連軍最高司令官・連合国最高司令官・アメリカ極東軍司令官・同極東陸軍司令官に任命すると発表した。
マッカーサーは、日本時間一一日、来日中の上院議員マグナソンと昼食をとっているとき、
副官の口から自分の解任に関するラジオ放送の内容をきいた。
民政局長ホィットニーは、午後五時四五分、「マッカーサー元帥は、
トルーマン大統領の解任命令を立派な態度でうけとり、すこしも動じたところはなかった」と発表した。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1253
マッカーサー離日
引用総司令部渉外局は、一四日、マッカーサーが来る一六日に羽田から帰国の途につくと発表した。
天皇は、一五日、マッカーサーをアメリカ大使館に訪問して別離のあいさつをのべた。
天皇が公職をもたない私人を訪問したのは、これが最初であった。
マッカーサーは、一六日、午前六時半にアメリカ大使館を出門して羽田にむかった。
沿道でマッカーサーを歓送する日本国民は、早朝にもかかわらず二十数万人を数えた。
マッカーサーは、午前七時二一分、在日連合国代表と日本官民代表の盛大な見送りをうけながら、
五年八ヵ月にわたり最高権力者として臨んだ日本をあとにバターン号で飛び去った。
午後、衆参両院は、「全国民の意思を代表」してマッカーサーに感謝する決議を採択した。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1256
マッカーサー帰国
引用マッカーサーは、四月一九日午前零時三一分、真夜中というのに一万をこえる群集にむかえられてワシントン飛行場に到着した。
彼は、当日、午後一時から上下両院の合同会議に出席して証言したのち、ニューヨークにおもむき、二〇日、市民の歓迎にこたえた。
市民の人出は五〇〇万人に達した。
この人出は、一九二七年に大西洋無着陸横断飛行のリンドバーグをむかえたときの人出よりも一〇〇万人多く、
一九四五年にヨーロッパから凱旋したアイゼンハワー元帥をむかえたときとほぼ同数であった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1257
マッカーサーの日本占領自己評価
引用マッカーサーは、証言の最後で日本占領の自己評価をおこなった。
彼がみた日本人は、精神年齢一二歳の少年であった。
彼は、「もしアングロサクソンが科学・芸術・神学・文化の発展においてかりに四五歳とすれば、
ドイツ人も同様に成熟している」が、「日本人は、時間のうえでは古くから存在しているのにもかかわらず、
きわめて初歩の状態にある」とのべた。
日本人は「封建的な全体主義制度」のなかにあった。
しかし、アメリカが日本を占領し、日本人がアメリカの占領政策をとおして「アメリカ人の生活様式」を知ったとき、
日本人は「個人の自由」と「人間の尊厳」にめざめ、日本に「社会革命」がおこりはじめた。
この社会革命は、「実際においてイギリスに自由をもたらしたマグナ・カルタ、フランスに国際的自由をもたらしたフランス革命、
地方主権の観念をもたらしたわれわれ自身の革命のような、われわれ自身のタイプの大革命とのみ比較しうるような革命」であった。
農地改革は、「ローマ帝国時代の土地改革におけるグラックス兄弟の努力このかた」比類のないほどの成功をおさめたものであり、
この結果は「日本の政治生活の最も健全かつ保守的な構成要素」を育成することに役立った。
マッカーサーは、かくして再建された「保守的な」日本を日本人自身が防衛するため、
警察予備隊が「完全な地上部隊」に成長することを期待した。
彼は、日本は経済上の理由から海空軍を維持するというような「戦争の近代的要素」をすべてまかなうことはできないであろうが、
他国が日本に地上部隊をおく必要をなくすだけの十分な地上部隊を提供しうるはずだし、
「私は、それが〔講和〕条約の規定の論理的結果であり、最も近い将来のことであると信じる」と強調した。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1258
引用マッカーサー解任のあとをうけて最高司令官に就任したマシュー・バンカー・リッジウェイ中将は、
一八九五年にうまれ、一九一七年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学に入り、陸大を卒業後は第四軍団副参謀長・参謀本部作戦課勤務などを歴任した。
第二次世界大戦中は、第八二パラシュート師団長としてシチリア・イタリア・ノルマンディーと転戦し、
つづいて第一八パラシュート師団長となり、ベルギー戦線でドイツ軍の突破作戦を阻止して勇名をはせた。
彼の戦歴は、そのままアメリカのパラシュート部隊発展の歴史であった。
ドイツが降伏してからは、フィリピンに飛び、マッカーサーのもとで対日侵攻作戦に参画し、戦後は、
地中海方面軍最高司令官代理・国際連合陸軍幕僚委員会のアメリカ代表・行政担当の参謀次長を歴任し、前年一二月、
ジープ事故で死亡したウォーカー中将のあとをついで第八軍司令官に就任した。
朝鮮戦争の推移を参謀次長としてみていたリッジウェイは、政府や統合参謀本部が朝鮮戦争をどう指導しようとしているかをよく知っており、
彼を第八軍司令官に推した統合参謀本部議長ブラッドレーと参謀総長コリンズは、
リッジウェイがウォーカー前司令官よりもマッカーサーの影響からはなれて行動できると信じていた。
戦局は、国連軍にとって重大であった。
リッジウェイは、うちつづく苦闘に乱れて自信をうしなっていた第八軍を再建し、
国連軍の全部隊にたいする指揮統率権を完全に掌握し、一月末、漢江の南から反撃して国連軍を危機から脱出させた。
リッジウェイは、生粋の軍人であった。
ある幕僚は、彼を批評して「操縦席にある男」と形容した。
第八軍司令官として朝鮮戦争に参加したときも、司令部の仕事は参謀長にまかせきり、自分は二つの手榴弾を両胸につけて前線を疾駆した。
マッカーサーの解任から最高司令官に任命されて急遽日本に来たときも、リッジウェイは両胸に手榴弾をつけていた。
リッジウェイを批判するものは、いつも手榴弾をつけているのはショウマンシップのジェスチュアだと悪口をたたいたが、
リッジウェイは、「ヨーロッパでも、朝鮮でも、しばしば困難な地点から手榴弾で血路がひらかれたのだ」と抗弁した。
リッジウェイは、緻密な頭脳をもっていた。
作戦をたてる彼は、「一つの行動にたいして敵の反応を九通りかんがえる」といわれたが、
行政上の手腕も抜群であった。
誰もが彼を将来の参謀総長とみていた。
平素は寡黙だが、物をかついで手を離せない兵士のために靴のヒモをむすんでやる気易さももっており、
尊大な気風をただよわせていたマッカーサーとは対照的であった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1260
朝鮮戦争に関するマリク提案
引用朝鮮戦争は、四月から五月にかけて共産軍による春季攻勢と国連軍の反抗で膠着し、陣地戦の段階に入っていた。
勝利の機会をうしなったアメリカは、休戦にふみきらざるをえなかった。
六月二二日、アメリカ政府が国務省をとおしておこなっている対外放送「アメリカの声」(VOA)は、
ソ連の国連代表マリクにたいし三八度線での停戦を世界によびかけるよううながし、
「マリクよ、ドアはひろくひらかれている、まっすぐ入ってきたまえ」と語りかけた。
マリクは、翌二三日、CBC放送をとおして『平和の代価』と題する演説をおこなったなかで朝鮮の和平を提案した。
マリクの和平提案は、大きな反響をよびおこした。
『ニューヨーク・タイムズ』は、「マリク提案のこのニュースは、全戦線のアメリカ兵士のあいだにおそろしい速さで伝播した。
国連兵士はマリク提案を歓迎した、アメリカ、カナダ、プエルト・リコの兵士は、
三八度線でプラカードをふりまわして歓声をあげた」としるした。
APのモリソン記者は、「将校は兵士の士気の低下をおそれている、もともと兵士たちは戦闘目的がつかめていなかったのだから、
今度の提案で大混乱におちいったのだ」とつたえた。
有力新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』は、「アメリカの支配層は、平和がアメリカ国内の動員活動を弱め、
一年間の朝鮮戦争で貯えられた力の大部分がムダになることをおそれている」としるした。
財界雑誌『ジャーナル・オブ・コマース』は、「停戦は利潤の低下を意味し、今後一-二年間に事業活動は激減するのではないか」とおそれた。
マリク提案は、前線の兵士とアメリカの財界にまったく対照的な反響をもたらした
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1288
財界の再軍備計画
引用日本の財界は朝鮮特需で息を吹きかえしていた。
経団連が二月に組織した日米経済提携懇談会は、特需を「何でもかかえこむ」方針でいたが、
同時に朝鮮戦争が終結して特需が終る日の対策として再軍備計画を練っていた。
会長石川一郎によれば、「将来の軍備の見通しをたてて、将来それに移行することのできる範囲内で注文をもらっておくようにすれば、
その移行もスムースにゆくだろう」というわけであった。
経団連は、それで米軍の協力を得て構想を練り、いわゆる三・三・三(陸軍三〇万人・海軍三〇万トン・空軍三〇〇〇機)という三軍均衡の軍隊を描きだした。
経団連が独自に再軍備構想を練ったのは、政府が公然とできないからであろうが、
三・三・三の軍隊は、「これだけあれば、だいたい日本の力だけで二ヵ月ぐらいは守れるという数字」であった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1289
沖縄の祖国復帰運動
引用沖縄における祖国復帰運動は、すでに早く一九四五年八月、元首里市長の仲吉良光が知念の収容所で日本復帰をさけび、
知念地区の米軍隊長に陳情したときにはじまった。
仲吉は、翌一九四六年六月には上京し、外務省やマッカーサーに陳情したが、彼の運動は、
なお大衆的基礎を欠いており、内地の政党に訴えることもできなかった。
共産党は、沖縄の日本復帰よりも沖縄の独立を主張しており、一九四六年二月の第五回大会は、
『沖縄民族の独立を祝う』メッセージを採択していた。
一九四七年、沖縄に相ついで組織された民主同盟・沖縄人民党・社会党などの政党は、やはり沖縄独立論をとなえていた。
沖縄で日本復帰の世論が形成されはじめたのは、一九五〇年九月の知事および沖縄群島議会選挙のときであった。
知事選挙に立候補したのは、民政府工交部長の松岡政保、のちに社会大衆党を結成する平良辰雄および沖縄人民党の瀬長亀次郎の三人であったが、
日本復帰を主張することは米軍の占領下でタブーのようになっており、
どの候補も日本復帰をハッキリと主張してはいなかった。
しかし、平良候補と瀬長候補は、裏では復帰の要求をたえず強調しており、平良候補は、
とくに戦争責任への反省から出発して異民族支配下の社会情勢に切実な危機感をいだいていた教職員層を中心とする知識層を掌握した。
大衆の日本復帰要求に密着して平良候補は、圧倒的な票をとって当選した。
議会選挙では、一貫して沖縄独立論をとなえていた民主同盟は、委員長の仲宗根源和をはじめ五名が立候補しながら全員落選し、
やがて沖縄共和党に吸収されてしまった。
一九五一年、沖縄を信託統治下におこうとするアメリカの意図はあきらかとなり、日本復帰運動は表面化した。
二月、沖縄共和党・社会党・沖縄人民党・社会大衆党の四党は、日本復帰問題を討議するために党首会談をひらいた。
しかし、共和党は独立論を主張し、社会党は信託統治を要求し、意見の一致を得ることができなかった。
人民党と社大党は、三月、それぞれ大会をひらいて日本復帰運動の推進を決議し、議会もまた復帰要求を決議した。
両党は、四月、民主団体を加えて日本復帰促進期成会を結成し、社大党青年部が組織した日本復帰促進青年同志会とともに
日本復帰の署名運動に着手した。
署名運動は、三ヵ月間で有権者二七万六〇〇〇名の七二・一%にあたる一九万九〇〇〇名の署名をあつめた。
呼応して内地に在住する沖縄島民もうごきだし、五月、大阪で沖縄諸島日本復帰悲願貫徹国民大会を開催した。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1307
警察予備隊の整備
引用前年一二月、警察予備隊の部隊の編成および組織に関する規定によって部隊は正式に編成され、年があらたまって二月、
部隊は米軍キャンプから予備隊の正式営舎に移動した。
新たな問題は、幹部を養成することであった。
三月、旧軍の尉官に相当する初級幹部を充実するため、前年一〇月に追放解除をうけた陸軍士官学校五八期(一九四五年八月任官)・
海軍兵学校七四期(同年七月任官)・同相当期生(当年陸海軍諸学校卒業)約二〇〇〇名を対象に採用人員三〇〇名を目途として特別募集を開始し、
六月一日、三四五名を幹部候補生に任命した。
つづいて八月一六日、佐官級(四〇期ないし五三期)の追放が解除されたのを機会に中級および上級の幹部を強化することとし、
旧陸海軍の佐官級で軍事・作戦・統率に豊富な知識と経験をもつもののなかから適任者を選択して入隊させる方針をきめ、
各個人一七〇〇名にあてて勧誘状を発送した。
増原長官は、旧軍関係者と懇談して自衛隊の発展に協力を依頼していた。
九月一日、各期代表が予備隊幹部と懇談した。
会談では「予備隊の性格は大体において再軍備の母体である」という見解が強力であった。
しかし、なかには予備隊にたいして懐疑的なものもあり、一方に「予備隊はかならず再軍備の中核となる、すすんで先行、
先駆的立場をとれ、現予備隊を強化するための捨石たらん」という応募論があるかと思えば、他方には「現段階においては世論、我に非」
「受入態勢不十分、入ってもロクなことはできぬ」「軍人的立場を失うな、大義名分をかかげた斉々たる軍の発足に応ぜよ、
それまでまつ、その時期はかならずくる」「目標〔新軍〕を確立し、大同団結ですすめ、チャチなものには目もくれるな」という辞退論もあった。
応募論と辞退論の対立は、予備隊が軍隊の母体になるという考えと服部機関が母体になるという考えの対立をあらわしており、
予備隊創設当時の経緯をひきついていた。
しかし、服部機関からは一名を除いてすべて予備隊に参加していなかったから、予備隊が軍隊建設の母体となる公算が大きく、
予備隊と別個に新軍を樹立するよう要求し主張するものの動揺はまぬかれなかった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1311
サンフランシスコ講和会議、アジアの全権たちの主張
引用九月七日午前の第六回総会は、インドネシア全権とフィリピン全権の演説でさらに緊張した。
インドネシア全権スバルジョは、条約草案が「インドネシアの見解からすれば多くの留保すべきものを提起」していることに注意をうながし、
「その若干の条項が明確にされ、われわれが満足するように処理されるまでは、われわれの心に何らの満足ももたらさない」と強調し、
日本は「第二次世界大戦中にインドネシアがうけた損害について、インドネシアにたいし十分な賠償を支払う用意ありや?」と詰問した。
フィリピンの全権ロムロは、もっと痛烈であった。
彼は、「本条約の特質は、非懲罰的な条約である点にあるという主張は、
主として同情的な賠償条項に由来していることを承知している」が、「もしこれが懲罰的条約でないということが真実であるならば、
なぜ日本は・・・・・・豊饒な台湾を含む全海外領土をうばわれるのかを質問しなければならぬ」と皮肉り、
さらに連合国は日本の在外資産を「戦利品」として没収するが、「本条約でみとめられているこの領土の割譲と在外資産の没収に関して重要な事実は、
受益国はほとんどすべて大国である」と指摘した。
彼は、「日本によって破壊された小国が、その損害を補償されうる唯一の方式たる賠償の支払は、本条約によって厳格に制されている」のだから、
「本条約は、小国の要求に関しては、事実、寛容の条約であるが、大国の要求に関しては、あきらかに懲罰の条約であるといってよい」と強調した。
しかも、小国の要求としての賠償については、「賠償支払をうけるわれわれの権利を生産・沈船引揚げおよびその他の作業における役務に限定することを
あらかじめ同意するよう要求」をうけているが、彼は、「日本を除くアジアの経済にたいする日本工業の戦前の優越性を想起するならば、
経済的に日本に従属するようになることにたいするわれわれのおそれは、簡単にしりぞけらるべきものではない」し、
「賠償を役務という方法に制限することは、まさに要求国を日本の工業機械にたいする単なる原材料供給者として、
従属的な地位にひきもどすという結果をもたらすであろう」と強調し、賠償を名とした日本帝国主義の進出にたいする深刻な不安を表明した。
そして彼は日本国民にたいして警告した。
「あなたがたは、われわれに莫大な損害をあたえました。
いかなる言葉も、また金銭財宝も、これをつぐなうことはできません。
しかし、運命は、われわれが隣人として共に生くべく定めており、隣人としてわれわれは平和に生きなければならないのであります。
アジアには四海同胞という言葉があります。
しかし、兄弟愛は心の問題であり、それが花開くには、まず心が清められ、純粋にならなければなりません。
われわれは、にくしみの鉾は、われわれのあいだでは永遠におさめられるよう、熱望しているのでありますが、しかし、その前に、
われわれが寛容と兄弟愛の手をさしのべる前に、われわれは、あなたがたの精神的な悔悟と更生の明白なあかしをまちたいのであります」と。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1328
サンフランシスコ講和条約調印
引用調印式は、九月八日午前一時(日本時間九日午後二時)からひらかれた。
フィリピンとインドネシアは、吉田首相が「日本は調印後すみやかに賠償問題について交渉を開始する」と確約したため、調印した。
ソ連・チェコおよびポーランドの三国は、ついに調印式をボイコットした。
調印したのは、参加国五一ヵ国のうち四八ヵ国、それに日本を加えて四九ヵ国であった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1331
賠償問題
引用外務省は、九月二〇日、賠償事務局を設け、アジア諸国との賠償交渉にそなえた。
アジア諸国は、依然として莫大な賠償を要求していた。フィリピンは、講和会議に先立って八〇億ドルの賠償要求を決定していた。
ベトナムの首相トラン・バン・フーは、九月一八日、「すくなくとも二〇億ドルの賠償支払を要求するだろう」と言明した。
インドネシアの外相スバルジョは、一九日、「七〇億ドルの賠償を要求するつもりである」と言明した。
ビルマの首相タキン・ヌーは、一〇月二三日、「数百万ルピー〔一ルピー=〇・二一ドル〕の賠償を要求するつもりだ」と言明した。
賠償交渉の前途は多難であり、したがってアジア諸国との国交調整もまた困難が多かった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1341
海上警備隊の創設
引用リッジウェイは、一〇月一九日、吉田首相にたいしアメリカの船舶PF(パトロール・フリゲート)一〇隻とLSSL(大型上陸支援艇)五〇隻の貸与を提案した。
吉田首相は、海上警備隊の創設による海軍の再建を決意し、翌二〇日、
元海軍少将山本義雄と海上保安庁長官柳沢米吉に海上警備隊の創設を計画する委員会の人選を依頼した。
八名の旧海軍軍人と二名の海上保安隊職員からなる委員会は、山本のイニシァルをとってY委員会と名づけられ、
一〇月三一日から会合をひらいた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1348
社会党分裂
引用一〇月二三日、注目の社会党第八回臨時党大会は、浅草公会堂でひらかれた。
出席者三二八名、左右の色分けは、左派は総数二五〇名の地方代議員で優勢を示し、
右派は総数一〇六名の国会議員で多数を占めていた。
右派は、形勢非とみてか、強引な戦術を採用した。
大会は、運営の手続をめぐって初手から激突に激突をかさね、大会期日の二三日の夜はいたずらに更け、二四日午前一時半となった。
両条約論争は、まだ何もおこなわれていなかった。
しかも、本部案(中執委案)にたいする質問は、あるいは封ぜられ、あるいは取下げられた。
大会運営委員長で左派の佐々木更三は、質問と討論を省略して採決に入ろうとした。
右派は、中執委にはからずに大会の期日を延長するのは無効だとさけび、中執委の開催を要求した。
左右の抗争は、ようやく暴力化してきた。
午前三時半、鈴木委員長は「浅沼書記長が提案理由を説明しないから自分がかわってする」と発言した。
右派は、鈴木委員長の発言を阻止しようとし、左派は鈴木委員長をまもろうとし、ついに乱闘をはじめた。
左派は、流会に備えて両条約反対の署名をとり、代議員過半数の一九三名から署名をあつめた。
夜は明けて午前九時、右派の議長松浦清一は、「大会の運営が不可能となったから散会する」と宣言した。
左派の議長島上善五郎は、「両条約反対の一九三名の代議員署名が提出されている、これを確認のうえ散会する」と宣言した。
大会は午前九時三〇分に散会したが、散会と同時に党旗のうばいあいがはじまり、左右両派はまたもや乱闘を演じた。
そして右派は浅草本願寺へひきあげ、左派は会場ちかくの伝法院にひきあげた。
大会の状況をつたえる『朝日新聞』(二五日)は、「この大会は、長時間にわたり、
ただ鉄腕のみが支配者であった」としるし、「あんなひどい暴力が振るわれた大会ははじめてだ」とつたえた。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1362
岸信介と日本再建連盟
引用岸信介は、一九四八年の暮に巣鴨プリズンを出所してから、追放の身でもあり、
旧知の藤山愛一郎のもとに身をよせていた。
藤山は、日東化学の社長と東洋パルプの監査役をかねていた。
東洋パルプの社長は足立正であり、
取締役には津島寿一・永野譲・永野重雄などが名をつらねていた。
岸は、日東化学の監査役となり、東洋パルプの会長となった。
彼は、さらに日本鋼管商事の会長をもかねたが、その顧問には椎名悦三郎が就任していた。
しかし、岸の意図は、もとより追放の解除を得て政界に復帰することにあった。
岸を政界におしだそうとしていたのは、三好英之であった。
三好は、戦前、衆議院議員として商工委員になったときから商工官僚として政府委員をつとめていた岸と接触があり、
やがて陸軍政務次官となって陸軍と関係をもつようになってから革新官僚の中心に立っていた岸と親交をむすんだ。
戦後の三好は、前年八月に追放解除をうけたのち、新政クラブに加入したが、九月、別に日本政治経済研究会を組織した。
財界からは津島寿一や永野譲などが会員として加わっていた。
三好は、岸を政界の一勢力たらしめようとして機会をうかがっていた。
あけて一九五二年四月一八日、講和発効をひかえて岸の追放解除が決定した。
その夜、岸は、三好をはじめ重光葵や旧政友会の綾部健太郎などと会合し、
日本政治経済研究会を日本再建連盟に発展させることについて協議し、翌一九日、連盟を創立した。
理事長は三好英之、顧問は岸信介をはじめ足立正、藤山愛一郎、勝正憲(元大蔵官僚・九州鉱業会長)、
渋沢敬三(元日銀総裁・幣原内閣蔵相)、八田嘉明(元大蔵官僚・東条内閣鉄相・元北支那開発総裁)、
沢田廉三(元外務官僚)、小林躋造(元海軍大将・元翼賛政治会総裁)、野村吉三郎(元海軍大将)、正力松太郎(元読売新聞社長)、
高石真五郎(元毎日新聞社長)、古野伊之助(元同盟通信社長・時事通信社顧問)、
清瀬一郎(弁護士・極東国際軍事裁判東条英機主任弁護人)などであり、
財界・政界・官界・言論界・法曹界の代表的人物をえりすぐっていた。
もし日本再建連盟が岸信介をおしたてて政界の一勢力となり、さらに政党としての姿態をととのえて政権を掌握するようになれば、
岸政権こそ、日本の国家独占資本主義を担う政権となる可能性がもっともつよかった。
岸信介の追放解除は、四月二五日にいったん発表されたが、
講和発効前に東条内閣の閣僚の追放を解除するのは国際的にも国内的にも穏当でないという吉田首相の意向によって延期された。
岸の追放解除は、講和発効にともなう追放令の廃止をまって実現されることとなった。
連盟に参加した追放解除の旧政党人と旧官僚は、むしろ追放の経歴を誇り、
極東国際軍事裁判をあざ笑うばかりに語り、ながい占領につかれた国民の心をつかもうとした。
しかし、連盟は、支柱の一人と目した重光葵が改進党のさそいに応じて総裁となることを承諾し、連盟を袖にしてでていったため、
しばらく開店休業の状態をつづけなければならなかった。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1423
日韓交渉決裂
引用日韓交渉は、日台交渉と平行して二月一五日から東京で開始された。
しかし、交渉に先立つ一月一八日に李承晩大統領が海洋主権宣言を発し、
一方的に李承晩ラインを設定して日本漁船にたいする立入り禁止区域を設けるとともに日本漁船を捕獲したことが一つの障害となり、
四月二五日に決裂した。
日韓交渉は、「一〇年交渉」とよびなされるようになる長期間の交渉過程に入った。
信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅳ」
P.1426
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
http://www.c20.jp/
おたよりはこちら |