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旅順口閉塞作戦②
1904/03/27
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用沈没しはじめた広瀬の福井丸は、左舷のボートを下ろした。
福井丸閉塞隊の一員だった戦艦「朝日」機関科の山本半二一等機関兵曹は、その後の広瀬少佐を、つぎのように語っている。
『右舷のボートには、砲弾がめちゃくちゃに飛んできて寄りつくことができない。
左舷のボートを下ろして、全員それに乗り移った。
少佐は、
「番号」
と人員点呼をされたが、一人足りない。
杉野上等兵曹(孫七、指揮官付)がいないというので、
「おれがさがしてくる」
と言って、上甲板にもどられ、
「杉野、杉野」
とどなりながら、何回もさがしておられたが、無駄だった。
そのうちに船は沈みかける。少佐は、
「残念だな」
と言われながらボートに乗り、艇尾の座席(筆者注・右舷)に腰をかけ、発進を令された。
六挺身ほど本船をはなれてから、電線で爆薬に点火した。(筆者注・広瀬がスイッチを押したようである)
わたしはストローク(艇尾にいちばん近い漕手席)を漕いでいたので、少佐とはすぐ向かい合っていた。
少佐は元気に、
「みな、おれの顔をよく見て漕げ」
と力づけながら、降りしきる砲弾と水煙のなかを、沖へ沖へとボートを進めさせた。
小池一等機関兵曹が、
「やられました」
とさけぶと、
「そうか、元気を出せ。代われ、代われ」
と言われた。その瞬間、
「うーん」
という声か呻きか、にぶいさけびが聞こえたので、ふと顔を上げると、少佐の首が見えず、
真っ赤な血がもくもくと首から溢れ出るうちに、その胴体がころりと海中に落ちこんでしまった。
(筆者注・広瀬は紺の冬軍装の上に外套を着ていて、さらにひきまわしを羽織っていた)
それは一瞬のできごとだった。
クソッと思ってオールを引くと同時に、わたしは胸のあたりに生温かいものを浴びせられた。
それは少佐の血で、壮烈ともなんとも言いようのない、思い出すだけでも身震いするような最期だった』(雑誌『東郷』昭和六十年二月号より)
広瀬はあと二ヵ月で満三十六歳であった。
広瀬が生きていれば、かれの満三十七歳の誕生日は明治三十八年五月二十七日で、
ちょうど連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅する日本海海戦の日と重なったのである。
第二回旅順港口閉塞作戦も失敗に終わった。
被害は、戦死広瀬少佐、杉野上等兵曹(行方不明が正確)、小池一等機関兵曹ほか一名、合計死傷十三名であった。
生出寿 「知将 秋山真之」
P.219この本を入手
引用ロシア艦隊の積極的な行動をみて、日本の軍司令部は、旅順港の出入を閉塞する試みを大急ぎで実施しようとした。
三月十四日(二十七日)の夜半、東郷提督は連合艦隊の第一戦隊および第三戦隊、三七〇〇-四〇〇〇トン級の輸送船四隻を伴う水雷戦隊にたいし、
戦闘任務を遂行するため旅順港に向かうよう命令を下した。
暴風雨の天候と関連して、閉塞船を守るため、通報艦「竜田」と水雷戦隊がかり出された。
日本側は新しい作戦準備を秘密裏に実施しようとしていたが、マカロフはスパイを通じて、この件についてそれなりの報告をにぎっていた。
新しい攻撃を予想して、艦隊司令長官は巧みに撃退してしまうために、各種の措置をこうじた。
錨地と港内入港を守る組織が入念に考えられ、作成された。
敵の攻撃にたいする撃退を指揮したのが艦隊司令長官その人であって、戦場地区の近くにいようとして、
旗艦「ペトロパーヴロフスク」号から砲艦「ボブル」に移った。
夜間は暗かったが、沿岸の探照灯が、日本の軍艦が近づいてくるときにすでに照射したのであった。
三時三〇分、巡邏艦と沿岸砲台とがこれに砲火をあびせた。
最初の一斉射撃で、先頭の閉塞船が燃え始め、爆破した。
ロシアの水雷艇「シーリヌイ」号(艦長はイェ・イ・クリニツキー大尉)が発射した魚雷が二番目の閉塞船に命中した。
水雷艇「レシッテリヌイ」号は、三番目の閉塞船を攻撃して、これを撃沈した。
そして四番目の閉塞船は砲撃されて、岩の上に乗りあげてしまった。
ロシア軍の水兵は、数隻の日本船から、大砲や機関銃をとりあげてしまった。
その後、これらのものは旅順港防衛のために利用されたのだった。
満潮となるや、ロシアの艦艇は再び、港内から出航して、旅順港に近づいてきた日本艦隊にたいし、
港を閉塞しようとした新企図が効果をあげなかったことを実証してみせたのであった。
ロストーノフ 「ソ連から見た日露戦争」
P.139
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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