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「昭和史発掘(2)」
参考書籍
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引用奈良県南葛城郡というのは水平運動の発祥地で、
掖上村柏原青年団の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作の三人によって烽火があげられた。
彼らは水平運動を創立し、従来の偽善的な融和運動では恃むにたらずとして、
全国部落民の積極的な自覚運動と、一般民衆への反省促進とを起すことにし、全国に檄をとばした。
彼らの努力は、当時、京都市上京区鷹野北町楽只青年団の南梅吉や、桜田規矩三なども参加となり、
各地に「よき日の為に」と題する水平社創立趣意書を頒布し、同志の糾合につとめた。
それが次第に功を奏し、大正十一年三月三日、京都岡崎公会堂で全国部落民の代表者約四千人が集り、
ここに水平社創立大会が成立した。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.128
引用紛争は、福岡連隊内で部落出身の一兵士が差別待遇をうけたことからはじまった。
こんなことでは、子弟を安心して軍隊にあずけられないとして、水平社九州連合会、とくに福岡県連合会が主体となって、
連隊内において差別撤廃、融和促進講話と懇談会を実施するように約束させた。
連隊長は、いったん承諾したが、のちになって久留米憲兵隊長とともに、「軍の威信」のため、
この約束を破棄すると宣言した。
全国水平社九州連合会は、この対策について協議し、今後の糾弾方法を審議した。
そして、この運動がいよいよもり上がってきたところに、突如として、中央委員会議長松本治一郎、
全国本部常任理事木村京太郎、九州連合会本部藤岡正右衛門以下六人が検挙された。
新聞は某重大事件とつたえたが、予審が終結すると、
それは「福岡連隊の爆破を企てた水平社の怖るべき陰謀事件である」との当局談を掲載した。
発表文によれば、
「被告らは、福岡連隊内における差別待遇問題が尋常一様の方法をもってしては目的を達することが困難とみて、
非常手段として、十一月中旬、佐賀県下において行われる陸軍大演習に際し、
歩兵第二十四連隊の大部分が演習地に参加せる留守に乗じ、約千人余の同人をあつめ、
示威運動の名のもとに荊冠旗を立て、大衆をもって同連隊兵営の周囲に押しよせ、
営内をダイナマイトを投じて爆破せしめ、大いに気勢をあげ、かつ、軍隊側に対し不安感をあたえ、
現状のまま推移せば、勢いのおもむくところ、いかなる事象を来すべきやも測りがたきをおもわしめ、
よって同問題の局面を転換し、解決を促進するにしかずとし、爆発物を使用することをともに謀議した」
というのである。
これは憲兵と警察とが水平社内部にスパイを入れてのでっち上げで、そのスパイの自白書には、
松本治一郎の家に無煙火薬を持込んだと書かれている。
スパイは警察に自首して陰謀事件の発覚者になりすましたのだった。
福連事件は全国水平社の同人たちに異常な衝撃をあたえた。
すでに、その前から、軍隊内の差別撤廃のために、
各部落では大演習に際しての兵士の宿舎を拒絶するなどの運動を展開していた矢先であった。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.138
引用静止した風景の中で動いているのは、百騎にあまる一列の騎馬の一群と、
その先頭に向って歩いている一人の兵士の姿だけだった。
兵士は左手に銃を提げていたが、陛下の馬前一メートル前のところにくると、突然、片膝を折り、地面に坐った。
折敷の姿勢である。紙をもった右手だけは、突き出すように高く伸びていた。
このとき、高貴なお方ははじめて顔を兵士のほうに向けられたが、
何のことか分らないような怪訝な表情だった。
どうしたのかと、うしろの供奉の誰かに物問いたそうでもあった。
しかし、馬の歩みに停滞はなかった。
このとき、陛下のすぐうしろから、いかめしい顔つきの軍人が列を離れて兵士の傍に来た。
彼は馬上から忙しく手を振って、あっちに行け、というような素振りを示した。
これが今までの威厳ある騎馬の行進を初めて乱した動作だった。
この動作は第六十八連隊を不動金縛りの呪術から解かせた。
小隊長が列伍から離れて北原二等卒のうしろに走ったのは、このときである。
彼は北原の背中を抱きかえるようにしてうしろに引きずった。
つづいて小森班長が駈けよって小隊長に手伝った。
兵士は隊列の中に引戻された。武藤中隊長代理は呆然としていた。
・・・・・・ただそれだけのことである。
時間にして五分間とは経つまい。
汗を流している連隊長の前を、将官たちが睨みつけて通った。
外国武官は馬を寄せ合って私語していた。
あとは元のままである。
騎馬の一行の通ったあとは黄色い埃が立舞い、馬蹄の音の行く手に当る第四師団の先頭のあたりから号令が鳴っていた。
まるで白昼に夢でも見ていたような出来事である。
そんなことは無かった、と言われれば、それも信じられそうなくらいだった。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.181
北原二等卒の直訴に関する陸軍省発表
引用二十三日午後一時には、早くも陸軍省の正式な発表があった。
「北原の所持せし訴状なるものの内容は毫末も皇室に対して不敬の意味を有せず、
単に軍隊内において今なお差別待遇行わるとなし、当局の態度を非難するの辞をもって聖察を乞う旨を記述しあるものなり。
北原泰作は岐阜県稲葉郡黒野村に本籍を有し、入隊前より水平運動に従事しありし者にして、
本年一月歩兵第六十八連隊に入営した際、すでに反軍隊的言動を弄せしことありしが、
入営後も勤務の成績良好ならず、遅刻、離隊等のため処罰二回に及べる者なり。
本人は即時憲兵分隊に収容し、調査のうえ請願令違反として軍法会議に付することとなれり」
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.184
共産党結成/第二回大会/共産党事件
引用日本共産党の経過を略述すると、
党は、大正十一年七月十五日、コミンテルンと片山潜の援助のもとに創立された。
当時の党員は、市川正一、荒畑寒村、猪俣津南雄、国領伍一郎、近藤栄蔵、堺利彦、佐野学、徳田球一、野坂参三、
山本懸蔵、山川均、渡辺政之輔などだった。
これには無政府主義的組合主義や合法マルクス主義者なども参加していた。
翌十二年の二月には千葉県市川町で第二回大回が開かれ、三月に東京石神井で臨時大会が招集され、
綱領草案が討議された。
そのとき堺利彦その他が君主制廃止のスローガンを掲げることに反対したため綱領草案は審議未了に終った。
この年六月に大検挙が行われ、市川、徳田、渡辺などの指導者が逮捕されて、
創立されたばかりの共産党は大きな打撃を受けた。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.202
共産党再組織大会
引用宗川旅館に集った党員たちは、女中を遠ざけて午後四時ごろまで会議をつづけたが、
席上、福本和夫が宣言を読み上げた。
この会議の順序はその前の福島県穴原温泉で開いた準備会で予定したものだった。
宣言の大要は、次のように要約される。
①日本ではブルジョアデモクラシー革命が不徹底に終っており、したがって、
前資本主義的勢力が残存している。
しかも、今日、ブルジョアジーはそれと結合して労働者、農民を支配しているから、
日本のプロレタリアートは農民と共同してブルジョアデモクラシーを闘いとらねばならぬ。
これが当面のプロレタリアートの重要目標である。
②日本共産党は大正十一、二年ごろすでに組織されたが、
その党は今日まで折衷主義の党であった。
しかし、最近展開された理論闘争によって、いわゆる全無産階級的意識に成長した。
そこで、プロレタリアートの目的を獲得しうる条件を備えたので、
今後の日本共産党は政治的自由獲得のスローガンの下に闘争に乗り出すものである。―
宣言は、福本が自ら起草したもので、まったく福本理論に則ったものだった。
次に渡辺政之輔が政治運動方針を述べたが、それは労農党を左翼とし、社会民衆党、日本農民党、日本労農党を右翼とし、
労農党は左右両翼の闘争によって右翼のもとにある大衆を自党に獲得し、
被支配階級の全国的単一共同戦線党にならねばならぬ、というものだった。
渡辺は労働者出身だが、当時は、福本理論信奉の先頭に立っていた。
さらに、労働運動方針を、「日常闘争を通じて大衆を政治闘争に動員し、
日常闘争と全無産階級的政治闘争との結合をなさねばならぬ。
すなわち、日常経済闘争から政治闘争への転換を図り、その過程で労働組合総連合を達成すべきである」と規定した。
以上の宣言、政治運動方針、労働運動方針などはいずれも異議なく決定。
つづいて役員の選任が行われた。
中央執行委員 福本和夫、渡辺政之輔、徳田球一(入獄中)、佐野学(入獄中)、佐野文夫。
中央執行委員候補 中尾勝男、三田村四郎、杉浦啓一、河合悦三。
組織部長 渡辺政之輔。情報部長 中尾勝男。労働組合部長 鍋山貞親。アジプロ部長 市川正一(入獄中)。
大衆団体統制部長兼農民部長 佐野学。
関東地区代表としては片山久、水野成夫、日下部千代一、豊田直、門屋博。
関西地区代表 国領伍一郎、喜入虎太郎。九州地区代表 藤井哲夫。
書記 中野尚夫、藤原久。警備 菊田善五郎。
この会で、宗川旅館に支払った額は約六、七十円だったとは、会計係の門屋博の言うところだ。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.207
福本和夫
引用福本和夫は、明治二十七年、鳥取県東伯郡下北条村に生まれた。
倉吉中学から一高を経て東大政治科に入り、大正九年に卒業した。
初め島根県属となり、県庁の庶務課に勤務したが、同年に松江高等学校が新設されると教授に招かれ、法制経済を講じた。
同年、法律学研究のため、文部省から英米独仏に二ヵ年留学を命ぜられたが、この間、
ドイツ共産党の極左派としてのちに除名になったベルリン大学の哲学教授カールコルシュのもとで研究していた。
十四年、山口高商教授に転任してから、「マルクス主義」に本名あるいは「北条一雄」のペンネームで諸論文を発表した。
福本理論の出発は、山川均の「方向転換論」に対する批判からはじまる。
震災後、党内に解党論が流れたが、それを助けるかのように、
山川は現在の党の姿をもっと大衆の中に持込まねばならないと唱えた。
要するに、日本の社会主義運動は大衆から離れたごく少数の運動であったから、
今後は大衆の中に入って行くべきだという趣旨である。
これはのちに右翼的日和見主義ときめつけられたが、
当時は、合法的な共同戦線党だけを作るべきだという解党主義の理論的な支柱となった。
福本和夫の論文は、たちまちインテリ分子や学生層に熱狂的に迎えられた。
その「分離と結合」論は福本イズムの中核をなすもので、唯物的弁証法の法則に従って、
結合の前には分離がなされなければならないという主張だ。
右傾的分子や中間層の日和見分子を分離して、そののちにきれいなものだけによる純粋な結合がなされなければならぬ。
でなければ、マルクス主義による戦闘はできないというのである。
こんなふうに書くと、簡単だが、その文章は難渋を極め、またその難渋なるが故に、
神秘的な魅力をインテリや学生層に与えた。
【中略】
福本理論は、党の再建をコミンテルンから指令された党員にも熱狂的な支持を受けた。
【中略】
それに、福本理論は景気のいい戦闘的な言辞に飾られていたので、反駁できなかった。
さしもの山川イズムも、福本の登場によって完全に沈黙せしめられた。
福本によれば、山川や河上肇の運動理論も俗流マルクス主義であった。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.219
福本イズムと徳田球一
引用日本代表たちは胸をふくらませてモスクワに入った。
ところが、福本はモスクワに着くや否やコミンテルンの空気を聞いて、たちまち顔面蒼白となり、
意気銷沈してしまった。
徳田球一は、モスクワに着くまで福本の心酔者で、しきりと福本を持上げていたが、
コミンテルンに出席して帰ると態度を急変させ、
「おれは初めから福本には反対だったんだ。
しかし、おれは福本をモスクワに連れてくるために、賛成のような身振りをしていたのだ」
と反福本にまわった。
この素早い徳田球一の急変には一行も呆気にとられたという。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.227
引用徳田の指導者的な素質は、あくまでもその行動力にあり、
その行動の上にいささかも懐疑を残さないところにある。
彼のバイタリティには野牛のような勇猛性がある一方、人の微笑を誘うユーモア性をもっている。
彼はあくまでも陽性であった。
弾圧のきびしい時代には、とかく党員間に陰気な空気がはびこり、
意気銷沈しがちなのだが、こんな際に徳田のような陽気型の指導者は、みんなに勇気を与え、
感傷をけし飛ばしてしまう。―
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.228
佐野学
引用佐野学は、明治二十五年大分県の生まれ、七高から東京帝大法科を出て、
早大教授となり、経済史を担当した。
新人会には創立当初から関係し、同じ早大教授の猪俣津南雄とともに堺、山川と知り、
学生連合会(いまの全学連の母体)の組織を援助した。
大正十二年ごろ、早大内の軍事研究団(主として運動部員)が結成されると、彼は文化会、建設者同盟を指導して、
この反動グループに反対させたが、この抗争は流血騒ぎにまでなった。
佐野は辞職を勧告されたが、辞めなかった。
同年六月、共産党第二回の検挙には事前に脱れてロシヤに入り、
コミンテルンと接触していたが、十四年七月に帰国、検事局に自首して十ヵ月の禁固刑に服した。
そのため、五色温泉の会合には出られなかった。
彼は後藤新平とは縁戚関係にあったため、同志間で取沙汰されたこともある。
出獄すると、労農党に関与し、「無産者新聞」に執筆をつづけていた。
福本和夫の失墜と、二七年テーゼ作成にコミンテルンと直接接触して帰ったこととで、
彼の理論は再建後の日本共産党の中核となった。・・・・・・
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.236
引用日本共産党常任委員会は、非合法機関紙「赤旗」第一号を
昭和三年二月一日付で発行したが、執筆には常任委員会が当り、編集、印刷、発送方面は渡辺が指導した。
第一号は千五百部、謄写版十数頁のものだったが、ここではすべての主張が赤裸々に述べられてあった。
それまで何度かモスクワからすすめられながら、なかなか実現できなかった党の機関紙が出たというので、
党員を大いに奮起させた。
また、機関紙の発行に先立って委員会は、共産党の存在と、十三項目から成る行動綱領とを
一般大衆に報らせるため、ビラを撒布した。
ビラには「労働者農民の政府」「プロレタリアート独裁」のスローガンを掲げ、
はっきりと「日本共産党」と署名してあった。
党員は、これを見て泣いてよろこんだ。
日本共産党創立以来、党みずからが大衆の前に出たのは、実にこのときをもって初めとする。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.237
引用彼は明治三十七年沖縄県那覇に生まれ、
鹿児島の七高に入ったが、中途退学した。
酔って地元の新聞社の社長に乱暴したためだ。
沖縄に帰ると、村の小学校の代用教員をしたり、郡役所の書記になったりした。
その後上京し、為替貯金局の官吏となり、のち、東京市役所の職員に変った。
日大の法科に籍はあったが、ほとんど講義には出ず、勤務が終ると、下宿で法律の勉強に取組んだ。
後年検挙されてから、彼のその時代の法律知識が法廷戦術にずいぶん役立っているし、
事実、弁護士の肩書があった。
堺や荒畑と知り合ったのは大正十年ごろからで、彼は山川均を中心とした水曜会に入った。
堺にすすめられてモスクワの極東民族大会に出席し、帰国してからは、
コミンテルンの指令で日本共産党の樹立にたずさわった。
この極東民族大会を機会に彼はモスクワに行き、スターリンから、
レーニンの「国家と革命」に関する講義を聞き、感激している。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.239
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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