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上海爆弾テロ事件
1932/04/29
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
豊田穣 「西園寺公望(下)」
P.245この本を入手
引用義勇団と式壇との距離はせいぜい三十メートルくらいであった。
岩崎は、壇上のエライ人たちも、本当に国家を歌うだろうかと、青年らしい好奇心をもって注視していると、
彼らはたしかに、口をもぐもぐさせながら歌った。
義勇団の背後、約二百メートルのあたりに、陸軍部隊と海軍陸戦隊が整列していた。
その中に辻中隊もあったわけである。
その時の光景を岩崎は今でもあざやかに記憶しているが、君が代の第一回が終って、
「苔のむすまで」の「で」まで来た瞬間、白川大将の左に立っていた植田中将が、
急に直立不動の姿勢を崩して、その位置を離れようとした。
反射的に何かを避けようとする身振りである。
同時に、直径約二メートルの真白な火の玉が閃き、轟音とともに、煙が立ちこめて壇上の人々の姿が見えなくなった。
煙が薄れるに従って、壇上では、モーニングを着、シルクハットをかぶった一人が横たわり、
しきりに起き上ろうと努めている風であったが、立つことができなかった。
これが後の外相、重光葵公使であった。
もう一人、悠然と歩いて、階段を下りようとするカーキ色の軍服の人があった。白川大将である。
大将が、一、二歩下りかけて、紅白の巻かれた手摺りに左腕を掛けた途端、その肩から手首へかけて、
サッと血の吹き出るのが、鮮かに見えた。
同時に、ぐたりと倒れようとするのを、二、三の人が馳せつけて、下から支えた。
他の四人は、爆風に飛ばされたのか、自分で逃げ下りたのか、壇上には見えなかった。
場内が騒然となったのは、しばらく後のことである。
この時、現場へ真先に駈けつけたのは、岩崎ら三十名の義勇隊員であった。
義勇隊は知識階級の者が多く、極めて自由な空気に満ちていたから、
各自がそれぞれ自己の判断において行動することに馴れており、誰が指揮するともなく、
一斉に前進したのである。事実、憲兵は百メートル後にぼんやりしていたし、
多数の陸海軍部隊は二百メートル以上離れたところにいたから、現場へ直行するには多少の時間がかかったはずである。
義勇隊が壇の下へ駈けつけてみると、一群の日本人が、誰かを取り囲んで、袋叩きにしている。
「この野郎」
という声が聞こえ、下駄を脱いで殴っている男もいる。
日本人の大部分が靴をはく習慣のなかったそのころ、下駄は、即座に武器に転用できる便利な履き物であった。
殴られているのは犯人の尹奉吉であった。
朝鮮人から見れば民族的英雄である。
彼が投げたのは、弁当箱に仕掛けた爆弾で、その投げる所を周囲の群衆に見られているから、逃げも隠れもできない。
たちまち取り囲まれてしまったのである。
義勇隊員の一人が尹を捕え、もう一人の隊員が附添って、憲兵のところへ引き立てて行った。
あとで式壇を見ると、床に直径五十センチの穴があき、一メートル下の芝生の土がえぐられて、
爆発力の強さを物語っていた。
もともとこの日は、はじめから不祥事を予想して、白川大将などは、宿舎から新公園の会場まで来る間に、
自動車のナンバープレートを五回取換えたといわれるくらい、警戒を厳重にしていたのであるが、
やはり手ぬかりは免れなかった。
杉森久英 「参謀・辻政信」
P.65
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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