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ロカルノ条約仮調印
1925/10/16
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用フランスがルール進駐で失敗し、賠償問題がドーズ案で政治的次元から経済的次元へと移されて「商業化」されたとき、
イギリスではオースティン・チェンバレン外相がジュネーヴ議定書非調印の埋め合わせに、フランス、ベルギーとの同盟を検討した。
ドイツのシュトレーゼマン外相は、この対ドイツ西側同盟成立を阻止するため、
機先を制して西部国境不変更の保証を提案した。
【中略】
二五年の入って、フランスのブリアン外相、シュトレーゼマン、チェンバレンの交渉が進み、
十月十六日、スイスのロカルノで合意が発表された。
調印そのものはロンドンでおこなわれたが、チェンバレンの六十二歳の誕生日に当たるこの日、
風光明媚なマジョーレ湖での船上首脳会議、ドイツ・フランス両首脳の和やかな会食、バルコニーでの首脳のそろいぶみ、
鳴り響く教会の鐘の音と華やかな花火などの道具立ては、ロカルノ条約が戦後の「ドイツ・フランス冷戦」に終止符を打ち、
国際協調時代がやってきたと思わせるに十分であった。
会議の前後に、旧連合国間の会議がなかったことも、人びとに戦後処理の終わりを印象づけた。
ロカルノ条約は五つの条約・協定からなり、
もっとも重要なものがドイツの西部国境の現状維持を保証したライン条約であった。
ドイツの国際連盟加入も決まり、ドイツはポーランド、チェコスロヴァキアにも武力による国境変更をしないことを約束した。
しかし、ドイツは東部国境修正政策を放棄しなかったし、ロカルノ条約が西欧と東欧とで異なるあつかいを認めた結果、
ヴェルサイユ体制の全ヨーロッパ的性格をかえって弱めた点は見逃された。
フランスは条約を自国の最低限の要求を満たすものと考え、一方イギリスは自国ができる最大限の関与だとみる思惑のちがいもあった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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