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ヒトラー、ミュンヘン一揆失敗
1923/11/08
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用一揆の失敗を報じたニューヨーク・タイムズは、
「これでヒトラーとナチスは完全に消滅した」と解説した。
だが、彼は奇蹟的にカムバックした。
法廷闘争によって、巧みに裁判を宣伝に利用したのである。
裁判は一九二四年二月二六日にはじまり、ヒトラー、ルーデンドルフら十人が被告だった。
ルーデンドルフは軍服に勲章をつけ威儀を正し出廷したが、3ヵ月にわたる公判のスターは彼ではなくヒトラーだった。
ルーデンドルフの罪を軽くするために、ヒトラーを主役にしたてた形跡がある。
そして、バイエルンの司法官には右翼同調者が多かった。
傍聴券は争奪され、外国特派員は百人以上も集まった。
それほどに裁判は内外の注目を浴びた。
カール、ロッソー、ザイッサーらが検察側の証人に立ったが、ヒトラーは彼らの変心をあばき、
共和国に対する反逆という点では、彼らも全く同罪だ、と指摘した。
そして、ヴェルサイユ条約と、十一月犯人(エーベルトなど)とユダヤ人を痛烈に糾弾して、国民の愛国感情に訴えた。
判決は四月一日に下り、ルーデンドルフは無罪、ヒトラーは禁固五年を言い渡された。
加瀬俊一 「ワイマールの落日」
P.144この本を入手
引用二三年という年は、フランス軍がドイツの賠償義務不履行を口実にルール(ドイツの重工業地帯)に侵入し、
それにともなってインフレーションが破天荒な進行をしめし、第一次大戦後のドイツの混乱がその極に達した年である。
そこをねらってヒトラーは、この年の十一月八日夜、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールを舞台に、
クーデターをこころみたのだった。
その夜、ビュルガーブロイケラーには、バイエルン州総督カール(彼自身も右翼的な人物だった)の演説会がひらかれるというので、
この地方のおもだった政界・軍部の実力者たちが勢ぞろいしていた。
そこへ、ヒトラーは機関銃で武装したナチスの突撃隊員をひきいてのりこみ、
ピストルで威嚇しながら、カール以下、バイエルン州の国防軍総司令官、警察部長といった大物たちを一室にとじこめてしまった。
そして彼らを、否応なくみずからのとなえる「国民革命」の計画に賛成させた。
ヒトラーのいう「国民革命」とは、ミュンヘンの右翼勢力が団結してベルリンの中央政府をたおし、
あらたにヒトラー自身を首班とする「国民政府」をつくろうというものだった。
だが、こんなヒトラーの景気のよい計画も、わずか一夜の運命にすぎなかった。
というのも、いったんはピストルの威嚇に屈してヒトラーの計画に同意をしめしたカールたちも、
ヒトラーがちょっと油断して会場をあけたすきに逃げだし、ただちにクーデター鎮圧のための手をうちはじめたからである。
翌九日の昼すぎ、ヒトラーを先頭にナチスやその支持者がミュンヘン市中をデモ行進したとき、
バイエルン州警察が突如その列におそいかかった。
そしてたちまちのうちにヒトラーのひきいるデモ隊の隊伍はみだれ、
十数人の死傷者がでた。
ヒトラー自身は、自動車に乗ってどうにかその場を逃げだすことができたが、しかし二日後には、
ミュンヘン郊外の知人の家にかくれているところを逮捕された。
そしてまもなく、裁判にかけられたうえ、ランツベルクの要塞に監禁される身となったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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