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第二軍、南山攻撃開始
1904/05/25
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用五月五日塩大澳付近から上陸した第二軍は、まず南下して、遼東半島の中でもっとも幅が狭く、くびれている金州付近を占領し、
旅順を孤立させたうえで、北に向きをかえて前進するという作戦を命じられていた。
五月十三日、歩兵三個師団と砲兵一個旅団の上陸を終った第二軍は十五日行動を開始した。
この間、ロシア軍が南下、攻撃を加えてくることを大本営は心配したが、司令官クロパトキンは、遼陽に主力を止めたまま動かなかった。 【中略】
第二軍は北方に対する体制を整えて主力をもって南下、五月二十五日半島最狭部にまたがる南山の攻撃を開始した。
午前五時から三時間にわたる砲撃のすえ、歩兵の突撃となったが、敵陣は十分に破壊されておらず、
掩蓋の下からロシア兵が射ち出す銃弾に倒されていった。
十時には最後の予備部隊まで第一線に投入したが、午後になっても攻撃は進展せず、また早くも砲弾が欠乏してくるというありさまであった。
参謀の中には、いったん後退して陣容をたてなおすことを進言する者もあったが、
奥軍司令官は、万難を拝して攻撃を続けることを命令、午後六時すぎになってようやく敵陣の一角を突破した。
これを機に、日本軍に十分の損害を与えたとみたロシア軍は後退を始め、南山は日本軍の手に帰した。
ロシア軍はつぎの抵抗を旅順の要塞に予定しており、第二軍は以後ほとんど戦闘を交えることもなく、五月三十日には無防備の大連を占領した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.104この本を入手
引用ロシア軍艦の正確な砲撃は、金州陣地の防衛軍の士気を高め、敵軍の左翼を混乱におとしいれてしまった。
昼頃までに日本軍歩兵の攻撃はやんだし、敵の砲兵もまた、ロシア陣地にたいする砲撃を中止した。
午後二時、攻撃が再開された。
第五東シベリア歩兵連隊の激しい小銃=機関銃の射撃をうけて、敵軍の戦線は多大の損失をうけ、
前進運動も緩慢になり、その二時間後には、この攻撃も息切れしてしまった。
日本軍の第二軍司令官の金州戦にかんする公式報告には、次のようにのべられている。
「敵歩兵の執拗きわまる抵抗にあって、事態は午後五時まで変らなかった。
それ以前にはわが軍は、わが歩兵が攻撃するための突破口を見つけだせれなかったし、わが軍左翼の第三師団は、
このとき包囲される危険におちいっていた。
敵軍は手持ちの歩兵をわが軍左翼にたいし強化し、南関嶺の両砲台が敵の攻撃を支援したからであった。
このため、師団の左翼はますます脅かされるようになったのと同時に、野砲の手持ち砲弾がほとんど底をついてしまい、
これ以上戦闘を続行するのは、きわめて危険であることが明らかになった。
そこで私は、わが軍歩兵にたいし、陣地に突撃を敢行の上、いかなる犠牲を払ってでも陣地を占領せよとの命令をだした。
わが軍砲兵にたいしては、敵軍に猛烈に砲撃するため、残っていた砲弾を射ちつくせと命令がだされていた。
わが第一師団の歩兵は、敵のはげしい側面砲火によって、大量のわが兵が戦死したり、負傷をうけてしまった。
今後攻撃は不可能と思われ、事態は危機に瀕するようになった次第である」と。
だが日本軍司令部には、絶望的と思われるようになったこの時期に、第四師団部隊が艦砲射撃の支援をうけて、
ほとんど完全に破壊されたため、第五東シベリア連隊の兵たちが放棄してしまった金州陣地の左翼塹壕を占領できたので、
日本軍の歩兵は、この突破口から陣地に突入したのだった。
敵軍がロシア軍の左翼を突破したことで、地峡戦は事実上終った。
午後六時すぎ、第五東シベリア歩兵連隊の各部隊は、フォーク師団の主力の支援をうけないまま、
金州陣地から旅順港に向って総退却を始めた。
ロストーノフ 「ソ連から見た日露戦争」
P.172
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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