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taro の意見
クリック 20世紀
書く人間が楽しいからって、読む人が楽しいとはかぎりませんよね。
でもtaroは書きたいんです。というわけで、ずらずら読むのはかったるいぜという人のために、
文章の最後に結論を書いておきました。結論だけ読んで楽しいとも思えませんが。まあ、一応。そういうことで。
● 小泉氏がペテン師だというよりも (2003.12.16)
本当は、taroは「クリック20世紀」に政治的な色はつけたくないのだけれど、だけど、
こいつだけはどうしても言っておかねばと思うのだ。
とはいえ、できるだけ政治色は薄めたいので、ちょっとまわり道してみよう。 柳条湖で事変が勃発したとき、どうして世論はあんなにイケイケだったんだろう。
taroのイメージでは、いやがる政府を強引に満州事変の深みへと引きずっていったのは世論だ。
この頃から、世論はすっかり正気を失い、翌年起こった五・一五事件では、犯人たちの減刑を求める嘆願書が100万を超えた。
国際連盟脱退のときもやっぱりイケイケだったし、お次は天皇機関説問題だ。
二・二六の青年将校たちばかりは責められない。
世論の罪は、すなわち国民とマスコミの罪と言っていいだろう。
近衛文麿の戦争責任は覆うべくもないが、彼がA級戦犯だとしたら、
いやがる近衛を「自己保身」だ「無責任」だと責め立て、無理やり引きずり出して、首相の座につけた新聞各紙も同罪だろう。
東條英機には、アメリカとの戦争を始めた責任はあっても、罪は近衛とは比べものにならないぐらい小さいから、
彼が絞首刑なら、マスコミだって本当はデス・バイ・ハンギングなのだ。
「一億総懺悔論」は決して理由のないものではない。
マスコミは、そんな近衛を無理やり首相にしたのはぼくらです、すみません、とは言わない。
マスコミこそは、都合の悪いことは知らん顔ですませられる唯一の存在なのだ。
1945年8月15日に至る歴史がわかりづらいのは、実はここらあたりに一因があるとtaroは思っている。
決定的な役割を果たしたマスコミとそれに踊らされた国民の責任を免罪したまま解釈しようとするから、すっきりと筋が通らないのだ。
筋の通らぬ、釈然とせぬ、背骨のない歴史に価値などあろうはずがなく、
だから、たかだか6、70年前の歴史が今じゃすっかり風化しちまっている。
風化しちゃってて誰も知らないのをいいことに、「歴史的に見てですねえ」とかなんとか、好き勝手言うやつがいる。 小泉純一郎氏だ。この人は毅然たる態度でもっともらしく口から出任せを言うことができる。実に稀有な才能だ。 先の特別国会で、ある議員が、低投票率対策に罰金制を導入しては、と質問した。
要するに、投票に行かない人からは罰金をとろうという話だ。
これに対して小泉首相、民主政治の歴史を考えると選挙権というのは義務ではなく権利でしょう、
あまたの血を流してようやく勝ち取った権利であって、義務ではないでしょう、てな具合に答えた。
taroは小泉首相に対しては、もう別にあきれかえったりしない。ああ、またやってるな、と思うだけだ。
すこーし暗くなるだけだ。この国はこんな男をいつまで首相に戴くのだろうと思って、すこーし暗くなる、それだけだ。
だから、ここで言いたいことも小泉氏のことではない。
いつもいつも小泉氏にしてやられてばかりのマスコミのふがいなさをtaroは言いたいのだ。
マスコミのふがいなさは、国民のふがいなさに通じる。
国民は、マスコミの提供する情報なくしては、意思決定のための十分な判断材料をそろえられないからだ。
別の言い方をすれば、マスコミの限界がイコール国民の限界になるということだ。
自分勝手でおバカなマスコミの音頭にあわせて、リズムをとり、からだを動かしていると、
あとでどんなみじめな思いをするかは過去に経験したとおりだ。
ついでに言うと、国会中継とその日のニュース番組の国会関連報道のニュアンスのあまりのちがいに、taroはしばしば愕然とする。
小泉氏が自らの見識を示した上記国会答弁について、 その詳細は国会会議録検索システムででも見てもらえば、 「投票率」あたりのキーワードですぐに見つかると思うので省略するとして、 taroとしては、マスコミにどんなふうにツッコミを入れてほしかったか、そこらあたりのことを書いておこう。 第一に、投票することは果たして本当に国民の義務ではないのか、ということ。 まずは、質問者が提起した低投票率問題を選挙権の話にあっさりすり替えた小泉氏の巧みさをほめておこう。
選挙権と言ってしまうと、それはその瞬間に権利と判定される。権利であるならば、義務ではない、となる。
義務でないのだから、罰金を科すことはできない、となる。
言っておくが、taroは罰金制導入に賛成しているわけではない。
権利であって、同時に義務でもあるということが存在するのではないか、と言いたいわけだ。
選挙権は、権利であって義務ではないから、投票するもしないもどうぞご自由にということだとすると、
投票率0%という可能性を考えねばならなくなる。
そこまでいかなくとも、数%という可能性を考え、それによって生まれる政権を考え、そんな政権が日本をどこへ導くかと考えると、
taroは怖くて、投票することは義務ではない、とはとても思えない。
百歩譲って、わが身のことは自業自得とあきらめるとしても、未来に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
幼き子らや生まれくる人たちに、申し訳なくて申し訳なくて、涙が出そうになる。
投票は権利であるとともに、未来に対する義務でもあるのではないか。そう考えるべきではないかとtaroは思っている。
だから、低投票率問題に関して、選挙権は権利であって義務ではないと胸を張って言うことのできる小泉氏が首相であること、
首相がそんなことを言っても批判もされないことがそら恐ろしくてしかたがない。
第二に、小泉氏の民主政治に関する歴史認識は許せる範囲のものか、ということ。 日本史上、選挙制度の三大トピックスは、国会開設、男子普通選挙の実施、婦人参政権の実現、でおおかた異存はあるまい。
こうしたことを通して、日本人はどれぐらい幸せになったか、日本の政治はどれぐらいよきものになったかという視点は、
歴史を見るにあたって欠かせぬものだというのも、これまたご理解いただけるところだと思う。
結論的を急げば、国会開設、婦人参政権実現の場合とはちがい、男子普通選挙の実施は、後世の日本人にきびしい問題提起を突きつけている。
治安維持法という代償をはらって成立した普通選挙法が、その後の政治のレベルダウンや国家的、国民的不幸に直結しているようにも見えるからだ。
普通選挙が実現するや、松島遊郭疑獄事件、陸軍機密費横領問題、朴烈怪写真事件などといったスキャンダルが立て続けに起こり、
国会は与野党泥仕合の場と化しているが、
選挙権拡大と議会政治の堕落の間に、果たして因果関係を認めるべきかどうか。
こうした泥仕合が政治不信を招き、普選実現からわずか7年で政党政治が終焉、
日本をテロとクーデターの時代に突入させていることを思えば、この問題提起が見過ごすことのできないものであることは明らかだ。
この点に関して、taroは今のところ因果関係ありと見る立場なのだが、それは置いても、
選挙権の行使を、単に量的にとらえるだけではなく、質的に評価する視点を持つことは、
いまやむしろ常識的と言っていいのではないだろうか。
時の内閣総理大臣が国会の場で、「民主政治の歴史」という言葉を持ち出して述べた以上、
そこで語られる彼の見識は、歴史認識という観点からも、きびしく吟味されてしかるべきと思うのだが、どうだろう。
taroは彼の言葉に「美化」を感じる。負の部分をわざと語らないのか実は知らないから語れないのかはともかく、
彼の語る「民主政治の歴史」は実際と比べてひどく美しいという印象を否めない。
そんな文脈の中でだから、選挙権は義務ではないと簡単に言い切れるのでは、とも。
が、まあ、それは主観に属する。あるいは判断の分かれるところかもしれない。
だが、少なくとも、民主政治のプロの言葉としては非常にレベルが低いことだけはまちがいない。
ここまでレベルの低い政治家は、地方政治を含めてもそれほど多くはないとtaroは信じたい。
ちなみに、小泉という人は、どうも「歴史」という言葉が好きなようで、公の場でしばしばこれを使う。
彼のこの言葉の使い方の分析者としてのtaroは、すでにこう断定している。
彼は、マスコミを含め、多くの日本人が歴史にコンプレックスを持ち、だから「歴史」という言葉に弱いことをよーく知っていて、
自らの主張を権威づけるために、頻繁にこの言葉を用いるのだ、と。
これはペテン師たちがよく用いる手法である。
第三に、低投票率についての政治家の責任は、ということ。 小泉氏は、この問題を結局「国民の自覚」に丸投げしている。
議事録の彼の言葉に
「自分たちが政治を作るんだというような意識を国民に持ってもらって」とあり、
これがこの答弁の中で唯一投票率アップにつながるものである。
全体を読み返してみると、そこにはお気楽さがにじみ出ている。
自分自身の問題として受け止めている形跡はまったくない。
キャリアのある政治家として、首相として、第一党の党首として、これが責任ある政治的態度だと言えるだろうか。
ことは民主主義の根幹にかかわることである。
taroの答えは断じてNoだ。
以上3点を良識あるマスコミに鋭くツッコんでほしかったんだよね、taroとしては。 今からでも遅くはない。お願いするよ。ね、お願い。 ここまで言ったんで、せっかくだから付け加えておくんだけど、 任期中は消費税を上げないとか、低投票率対策に罰金制を導入するなんてことはしないみたいな、 国民に対するリップサービスの多い政治家ってどうなのかな。 余談としてtaroの投票論。 taroも未熟な人間で、投票なんて行っても無意味さ、と思った時期があった。
たった一票の差で選挙結果が決まったという事例に接したことがなく、そのようなことが起こる確率を考え、
この先もまずありえないだろうと思ったというのが、恥ずかしながら率直なところだ。
棄権も意思表示の一つだなんてリクツを振り回したこともあった。
今思うに、投票は権利だという考えが甘えの温床になっていた。
選挙に参加することは憲法が保証する権利である。
だが、憲法で確認しておく必要もないほどあきらかに、それは未来に対する義務である。
この国に、健全な民主主義の文化というか風土というか、そういうものを根付かせるために、
しっかり判断材料を集め、よく考え、責任をもって誠実な一票を投じるということは、
有権者が無限に繰り返していかなければいけない大切な大切な義務だと今、taroは考えている。
権利なんだから棄権するしないは自由だという文化というか風土というか、そういうものが根付けば、
これはとんでもなくヤバいことになる。
だいたい、一票投じることで直接的な見返りを期待するなんて、ちょっとセコすぎるよね。
だから、投票の率のみを問題にすることがそもそもナンセンスだと思っている。
イーカゲンな投票がいくら増えても、それはちっとも日本の幸せにはつながらない。
投票率100%とか99%というのが独裁国家にやたら多いことを思い出してもらえば、それ以上の説明は不要だろう。
この考えにたどり着くまでに、なんと長い時間を要したことだろう。
そのために、何度義務を果たさなかっただろう。その間に、財政赤字がぐぐっと増えたことなどなどを思うと、
自分の愚かさ、未熟さがまたひとしおに感じられる。
約束するよ。これからはずっとまじめに誠実に投票に行くよ。
完全な余談。 ぼくらが自衛隊をイラクに送り出そうというとき、ぼくらにはどうしてもしておかなければならないことがある。
それは、ぼくらの身近の大切な人たちがテロの犠牲になったとしても、ぼくらが憎悪の連鎖に陥らないように、
今から心の準備をしておくことだ。
taroは前回の総選挙で、現政権に反対票を投じたが、それはもう理由にならない。
ぼくらが選んだ政権によってこの決定が下されたのだから。
テロに屈する屈しないという話で言えば、憎悪の連鎖に陥ることが、テロに屈する最悪のケースだろうとtaroは思っている。
余談というか補足というか。 「1945年8月15日に至る歴史がわかりづらい」もう一つの理由は、
ある種の誇り高い日本人にとって認めたくないような歴史的な出来事が、この間あまりに多く存在するせいだろうとtaroは思っている。
そういう日本人がさまざまな苦しい歴史認識を撒き散らしたから、歴史解釈がいろいろになりすぎ、
いまだいったいどれが本当なのやらという状態が続いているのでは。
そろそろそういう状態を脱し、認めるべきことは誇り高く認めたいと思うtaroである。
反省を糧にいい国にしていこうよん。
taroの結論。 日本国の首相が低投票率とそれに基づく政治を容認したというのに、マスコミはどうしてこれをきびしく批判しないんだぁ。
以上、小泉氏がペテン師だというよりも、でした。おわり。
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