|
ポーランド共和国、独立宣言
1918/11/03
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用十七世紀後半以来、オスマン帝国とならんで「ヨーロッパの病人」と称されたポーランド王国は一七七二年、九三年、九五年の三度にわたり、
プロイセン、ロシア、ハプスブルク帝国によって分割された。
以後、ポーランドは一二〇年以上にもわたり、地図上から姿を消すことになった。
【中略】
三分割されていたポーランド人は、第一次世界大戦を敵・味方に分かれて戦わなければならなかった。
実際に、東部戦線では分割三国に徴兵されたポーランド人同士が殺しあうといった悲劇が生じた。
だが、この戦争は分割三国を崩壊させることになるかもしれず、ポーランド統合の可能性を秘めるものでもあった。
一九一五年夏、態勢を立て直したドイツ軍とハプスブルク帝国軍はロシア領ポーランドを占領した。
翌一六年十一月一月には、ドイツ帝国とハプスブルク帝国の二皇帝の声明が出された。
占領下においた一〇〇万人にもおよぶポーランド人を同盟軍として動員するため、
形式的にせよ「あらたなポーランド王国」の創設を宣言する必要があったからである。
もう一つの分割当事国ロシアでは、一七年に二月革命が生じ、皇帝による専制政治は打破された。
臨時政府は独立したポーランドを認める用意のあることを宣言した。
十月革命によって生まれたソヴィエト政権は分割条約を破棄した。
一八年夏にドイツとハプスブルク帝国の軍事的敗北が決定的になると、
ポーランドの再生は現実のものとなった。
問題は、各地にさまざまに築かれていた地方権力を誰が統合するかであった。
開戦時に、クラクフを中心とするハプスブルク帝国領のガリツィアを拠点としていたピウスツキは、
一七年に反ドイツ的との理由で逮捕されドイツのマクデブルクに収監されていたが、
一八年十一月にドイツ革命が生じ釈放されると同時に、ワルシャワに戻った。
熱狂的な歓迎を受けるなかで、ピウスツキを国家主席としてポーランド共和国の独立が宣言された。
新生ポーランドには、ロシアおよびドイツとの国境画定が最大の問題として残されていた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
http://www.c20.jp/
おたよりはこちら |