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陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表
1925/05/01
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
語録
わが国におきましては、去る大正十四年に陸軍の軍備整理を実行いたしております。
ご承知のごとく四個師団を減じまして、軍の内容を充実いたし、軍容を刷新いたしたのでありまするが、
これは只今私が申し述べました軍備を戦争の進化に適応せしめたという事柄にほかならないのであります。
永田鉄山 (陸軍省整備局動員課長)
引用当時、陸軍には二十一個師団があったが、そのうち北陸の第十三師団(高田)、
東海の第十五師団(豊橋)、山陽の第十七師団(岡山)、九州の第十八師団(久留米)の四個師団を廃止する。
その他、聯隊区司令部を十六、衛戍病院を五、幼年学校二校も廃止するという、ずいぶん思い切った大鉈をふるったのである。
そしてその整理で生ずる費用で、戦車聯隊一、高射砲聯隊一、飛行聯隊二、山砲聯隊一を新設した。
それに伴って陸軍自動車学校(東京)、陸軍通信学校(神奈川)、陸軍飛行学校(三重、千葉)を新設し、
それに必要なそれぞれの銃砲、戦車らの兵器資材の製造、整備に着手した。
しかし、この結果として将校下士官らの兵員三万四千人余と、軍馬六千頭が整理された。
それは軍備縮小に名を借りた、思い切った陸軍の体質改善であったが、大量の将校を馘首したことは、
後々まで陸軍部内に怨念を残す結果になった。
おりから第一次大戦後の不況下で、各企業にストライキが続発している世情であった。
終身の官職を保証されており、国家の干城と高い誇りをもって陸軍に入った多数の将校を、
一度に大量の首を切ったことは、部内に深刻な打撃を与えた。
引用一九二四年、加藤高明内閣の与党、護憲三派では、
憲政会が七箇師団削減、政友会が六箇師団削減、革新倶楽部が一〇箇師団削減を主張し、
三派の統一案として六箇師団削減、在営期間の短縮、軍部大臣武官制の廃止という合意を成立させた。
万一軍部大臣が武官でなくなったならば、政党の軍に対する優位と圧力は、より強くなるだろう。
この意味で、軍部大臣武官制の廃止要求は軍縮圧力とも微妙に連動していたのである。
こうした政府内外の軍縮要求に応えるかたちで一九二五年に陸相宇垣一成によって実施に移されたのが、
四箇師団削減を内容とする軍縮である。
三度の軍縮の結果、日本陸軍は平時兵力の約三分の一を削減した。
戸部良一 「日本の近代(9)」
P.226この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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