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五・三〇事件
1925/05/30
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
語録
私たちは、この機会をとらえて、長期にわたる闘争のために、全人民の精神を奮い起こさなければなりません。
私たちの目的は、すべての不平等条約を廃棄することです。
この上海の惨劇は、中国が三〇年来、外国に依存してきた結果なのであって、
国民と民族の前進にとって非常に重要な意味をもっています。
この事件を上海における局地的な交渉、あるいは数日間の衝突事件とみなしてはいけません。
引用上海に着いて二ヵ月目、孫文の死去からわずか一〇週間後に、
この沿岸の中心都市と国全体が、
一九二五年「五月三〇日」(五・三〇)事件として知られるようになった出来事で震撼させられた。
その日、外国の管轄下にある上海の「公共租界」の警察官が、イギリスの監督官の命令で、
デモ行進中の学生たちに対して銃火を浴びせた。
この学生たちは、日本人経営の綿紡績工場において、ストライキのリーダーが殺害されたことに抗議していた。
一二名のデモ参加者が殺害され、多数が傷つき、逮捕された。
孫文への追悼行動が、彼の遺嘱に従いたいという中国の愛国者の願いがどんな広範囲なものかを示していたとしたら、
「五月三〇日」の事件に対する国民的規模の爆発的反応は、孫の死の床での遺言に実質を与えるものであった。
何十年もの経験からの結論―「民衆を目覚めさせなければならない」は、
中国革命に新しい大きな波を引き起こした。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.201
引用五・三〇運動の発端は、一九二五年五月十五日、上海の日本資本の内外綿紡績工場の争議中に、
日本人監督が組合指導者の一人を射殺し、十数人に負傷させた事件である。
この工場では二月にも中国人労働者に対する日本人監督の非人間的虐待に抗議するストライキがあり、
争議は上海の二十二工場から青島の十工場(いずれも日本資本)にまで拡がった。
これらの争議は会社側の譲歩で一応解決したものの、労働争議の拡大を恐れた上海の日本紡織同業会は組合活動の抑圧、
排除を決め、内外綿では活動分子の解雇とロックアウトを強行していたのである。
射殺事件に憤激した上海の学生たちは、労働者支援と犠牲者救済を訴えて街頭宣伝をはじめたが、
租界当局は「治安を乱した」という罪名で彼らを逮捕し、五月三十日にその裁判が行なわれることになった。
ちょうどそのころ、租界当局は上海の支配強化を図る施策を実施しようとしており、
さらに青島の日資系紡績工場で奉天派軍閥の保安隊が導入され、争議中の労働者八人を射殺するという事件が起こって、
市民の怒りは一層高まった。
五月三十日、約二千人の学生が労働者の射殺に抗議し「租界回収」「逮捕学生釈放」を叫んでビラを配り、演説を行なった。
イギリス警察隊はこれらの学生百余人をつぎつぎに逮捕し、抗議のため南京路に集まった一万余の学生・市民に発砲して
死者十三、負傷者数十という大惨事を引き起こした。
この事件を契機として、反帝国主義(とくに反日英)の運動が上海全市に湧きあがった。
成立したばかりの上海総工会(委員長は李立三)は六月一日から全市労働者のゼネストを指令し、
学生の罷課、中小商人の罷市がこれに呼応して、上海租界を機能麻痺に陥しいれた。
租界当局は英・日・米・伊の陸戦隊を上陸させ、六月十日までの間に九回にわたる発砲で死者三十二人、
負傷者五十七人に達する弾圧を加えたが、これは闘争の火に油を注ぐ結果となった。
三罷闘争の統一指導機関として結成された上海工商学連合会(大資本家の組織である総商会は参加を拒否)は、
二十万人が参加する市民大会を開き、英日軍隊の永久撤退、領事裁判権の廃止を含む
十七項目の要求を租界当局および北京政府につきつけた。
反帝国主義の運動は、たちまち野火のように全国の主要都市に拡がっていった。
すでに国共合作が成立し、国民会議促進運動で統一戦線を形成しつつあった民衆は、
五・四運動の経験をふまえて、一致してさまざまな形で運動を展開し、
各地で列強の軍隊あるいは軍閥軍隊と衝突して多くの流血事件が起こった。
なかでも広東省と香港とが連携した省港ストは実に十五ヵ月間も闘いを持続し、
イギリスの東洋支配の根拠地香港を「死港」と化した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.108この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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