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桂太郎、内大臣兼侍従長に就任
1912/08/13
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用桂を待っていたのは、山県らの意外な策謀である。
策士である前内相平田東助の発案で桂を内大臣に据えるのがよかろう、ということになっていた。
表面上は新帝が若いので、輔弼の重臣に大物が必要だということと、徳大寺が先帝の崩御と共に八月五日内大臣兼侍従長を辞任したので、
その補充をからみあわせたものであるが、裏面には山県の嫉視がどく黒く渦巻いていた。
山県はかねて桂を自分の子分と考え引き立てて、伊藤の後に代人として内閣を組織せしめたが、
日露戦争に勝った頃から驕って元老のいうことを聞かなくなり、日韓併合の後に運動して独走して公爵になるに至って、
嫉視が憎しみにエスカレートして来た。
そこで第二次桂内閣が情意投合によって政友会に頭を下げ、内閣の命を縮めたときも山県は見て見ぬふりをしていた。
【中略】
桂が情意投合の後、西園寺との直接の話し合いで内閣を譲ったことも山県の気分を著しくそこねた。
もはや政党を弾圧しあるいは牛耳る力もないのに、山県は、内閣を譲るとき自分に相談もしに来なかった桂を憎んだ。
そして二度と桂が政権を手にすることの出来ぬよう雲の上に封じこめようというのである。
丁度政友会を作った伊藤を枢密院議長(三十六年七月)に祭り上げたように。
山県はそのように女性的な心情の持主であった。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.420この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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