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衆議院、内閣不信任案可決
1948/12/23
~ あああ ~
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用民政局は吉田に対する最後の「いじめ」を敢行した。
吉田が切に必要とする総選挙を抑えようとしたのである。
はじめは、公務員法、新給与、災害復旧対策のための追加予算という急務を終えるまで、国会解散を禁じた。
そして次には、憲法第六九条による内閣不信任案可決の場合でなければ解散は許されないと告げた。
内閣が第七条の自由使用により解散することには問題があるとの憲法解釈を宣下したのである。
もし中道連立政権期に解散が有利な状況であれば、民政局は正反対の解釈を与えたであろう。
この時期の民政局は日本のどの政党よりも仁義なき政争の鬼と化していた。
占領軍という無答責の絶対権力はここまで堕落していた。
マッカーサーが長い占領は望ましくないとかねがね語っていたのは、やはり正しい洞察だった。
吉田内閣は十二月二十三日、衆議院で内閣不信任案の可決を受ける屈辱を踏んで、ようやく憲法第六九条による解散を許された。
しかし、耐えただけのことはある。
すでに入党させ、各選挙区で選挙準備をさせていた敏腕の官僚人材群が政治指導者として浮上してくれるであろう。
池田勇人(大蔵事務次官)、岡崎勝男(外務事務次官)、福永健司(埼玉県副知事)、大橋武夫(災害復興院次長)、
佐藤栄作、前尾繁三郎(造幣局長)、らが翌四九(昭和二十四)年一月二十三日の第二四回総選挙に立候補し、
ことごとく初当選することになる。
選挙結果は、民自党が解散時から一一二増の二六四議席を獲得して過半数の二三四を大きく超え、議席の五七パーセントを占めた。
戦後はじめての一党による単独過半数である。連立三党は、民主党が九〇から六九議席に後退、
社会党は一一一から四八議席と半分以下、国民協同党は二九から一四議席と半減の憂き目をみた。
左翼にあって連立政権に加わらなかった共産党が、社会党に幻滅した革新票をさらって四から三五議席へと歴史的大躍進をとげた。
中道の凋落と保革両極化の様相を示した選挙であった。
吉田はこの選挙によって、戦後史においてはじめて政権を「自前」化した。
絶対多数を得ただけでなく、一二一名もの新人を当選させ、
「鳩山一郎から譲り受けた党から吉田茂自身の党へと変貌」させることができた。
自分の政治を展開する態勢を一気に築いたのである。
吉田体制といってもよい政治主体を確立したのである。
五百旗頭真 「日本の近代(6)」
P.360この本を入手
引用第二次吉田内閣は、芦田内閣のあとをうけて、野党たる民自党の少数単独内閣として出発せざるをえなかったが、
当面の国家公務員法の改正とインフレを抑えるための新給与法の成立をいそいで、
有利な体制で総選挙にのぞもうとした。
これに反して野党三派は片山・芦田の中道政治失敗の批判をおそれて、選挙の時期をおくらせようとした。
こうして国会の解散をめぐって、与党と野党の対立は決着のつかないまま、二十三年十二月二十三日のGHQ斡旋で、
吉田内閣の不信任案は可決され、衆議院は解散された。
選挙はあけて一月に施行されることとなった。
その結果は、中道諸派の惨敗、民自党の圧勝と共産党の飛躍的伸張であった。
民自党は前回二十三年四月の選挙より一三三名多い二六四名の当選者をだし、国会に絶対多数をしめた。
共産党は四名から一躍三十五名となったのにくらべて、中道三派の民主党は六十九名、社会党四十八名、国協党十四名、
合計一三一名という劣勢に終わった。
とくに社会党は片山哲委員長をはじめとして、多数の幹部をふくむ前議員が枕をならべて落選するという惨敗ぶりであった。
民自党の勝因は、一に吉田内閣への国民的支持、とくに国際情勢への判断力をもち、
GHQの信頼も厚い吉田茂個人への信望にあったためである。
また池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎などの高級官僚出身者を多数当選させたのもこの選挙の特徴で、
これは、吉田内閣の当面するインフレ抑制を中心とする経済安定政策の実行が、
国民一般はもとより財界から強く要望されていたからにほかならない。
ここに良きにせよ悪しきにせよ、日本の新しい政党政治は、
吉田内閣(第三次)の出現による保守政権の基盤安定から始まったのである。
蝋山政道 「日本の歴史(26)」
P.100この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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